第8話 裁きの正午
※ハッピーエンド確約。暴力描写ひかえめ。糖度は後半ほど増えます。
朝。
空気は乾いて、紙の角がよくそろう。
私は小書庫で、殿下――カイル様と並び、正午の段取りを最後まで詰めた。
「掲示は三箇所同時。北門、南門、裁定院」
「はい」
私は“裁きの正午”用の文を読み上げる。短く、固く、逃げ道を塞ぐ。
『王命。正午、裁定院前にて総勘定合意の開示。対象:調達・倉庫・支払の三課に関する経路矛盾、九番空、配置換え命未提示。宰相府は立会い義務。口頭反論は不可。書面反論のみ受理。』
「次。呼出状だ」
殿下の声は低い。痛みが残っているのに、音はぶれない。
私は二通を机の真ん中に置く。
『宰相ダラント殿、宰相補佐官ヴァロ殿——王命により正午、裁定院前へ出頭。反論は書面。受領印三箇所。未到は行政停止範囲の拡張を意味する。』
「押す」
「——束で共起」
朱が咲く。
紙が重くなる。
ここからは、紙の重さで押し切る。
「皆は君を忘れる」
「はい」
「私は忘れない」
「知っています」
いつもの確認。心臓が落ち着く。今日の私は、少しだけ怖い。だから、確認はありがたい。
◇
官庁通り。
梯子。釘。掲示。
風。噂。足音。
「正午、開示だってよ」
「口で言い逃れできねぇのか」
「書面だけだ」
通りの空気が、紙の方へ傾く。
私は「呼出状」を封に入れ、宰相府の戸口へ持っていく。
門番の顔が強張った。紙は人を強張らせる。効いてる証拠だ。
「受領印を三箇所、お願いします」
「……少しお待ちを」
内へ走る。
出てきたのは、ヴァロ。
退屈の笑み。目は計算。
「受け取ろう。皆のためにね」
「ありがとうございます。印は三箇所」
「二でどうだ」
「三です」
ぽん、ぽん、ぽん。
印の音は、私の鼓動より落ち着いている。
落ち着きは勝ち筋。
「宰相は?」
「正午に行く。皆のためだ」
「書面をお忘れなく」
ヴァロは笑って、笑っていない目で封を押し返した。
帰り際、彼の靴音はほんの少し速かった。焦りの音。
◇
正午前。
裁定院の石段。
私は掲示板の前で紙をそろえ、**“総勘定合意・第五段”**の見出しを出した。
人が集まる。視線が張りつく。
セレン様が立会い。兵が二名。殿下の側近が控える。
「開示の手順を」
私は読み上げる。
陳述→証票→照合→反論書面の受理。順番を崩さない。崩させない。
鐘がひとつ。
石段の上に、黒い衣の列。裁定官。
彼らは無口。紙にしか話しかけない種類の人たち。今日はそれでいい。
宰相ダラントが現れた。
威圧の歩幅。
視線は冷い。
ヴァロが半歩うしろ。
笑いは薄い。
「王命による開示を始めます」
私は一歩前に出る。声はよく通った。業務の声。
「まず、経路矛盾。第二倉庫から九番倉庫へ“満載の記録”が流れている。九番は空。——ここに照合記録」
紙をめくる。朱が光る。
立会い者の名。時刻。倉庫の匂いのメモまで書きたくなるが、余計な感想は載せない。今日は陳述だけ。
「次に、配置換え命の未提示。——控え番号、発令者名、閲覧稟議、いずれも無し。宰相補佐官ヴァロ殿に今ここでご提示いただきたく」
私は用紙の控え欄を示す。
ヴァロの目が動く。逃げ道を探す動き。逃げ道は紙で塞いである。
「反論は書面で、と王命が」
宰相ダラントが言った。声は低い。
「はい。書面でどうぞ」
彼はヴァロを見た。
ヴァロが懐から薄い紙を出す。
早い。用意していた。
私は受け取り、朱の横に置く。
殿下の側近が目を走らせる。
セレン様が時刻を書き込む。
裁定官の一人が、端の余白を目で測る。
紙だけの戦い。
「『倉庫配置は口頭にて変更し』」
私は読み上げ、そこで止める。
口頭。来た。
紙に“口頭”と書かれている。矛盾の香り。
「——『追って正式書を提出する』」
私は顔を上げる。
ヴァロは肩をすくめた。
「急だったのでね。皆のためだ」
私は微笑む。
薄く。減らさない笑顔。
「王命は、口頭不可です。この書面は『口頭でした』と証言しています。——つまり、無効です」
ざわめきが走る。
裁定官の顔は動かない。
石段の影が少し濃くなる。
「続けます。九番空。現地照合の記録、ここに」
私は紙を重ね、朱の輪を指で押さえる。
輪は乾いて、よく光る。
「宰相閣下。——反論の書面をお願いします」
ダラントは一瞬だけ目を細め、それから懐から封を出した。
分厚い。
でも、重さが足りない。印が少ない。
私は受け取り、朱の横に置く。
側近が目を走らせ、静かに首を横に振った。
「印が……一つです」
「王印がない」
セレン様が短く告げる。
裁定官の一人が、杖の先で紙の端を軽く叩いた。叩く音が、石段に小さく跳ねる。
「反論不備として仮受理。——補正命令を付けます」
私は手早く欄外に書く。
“補正:王印または二重押印を要す。期限、本日夕刻”
殿下の側近がうなずく。
この国は、紙で人を止め、紙でやり直させる。やり直しには印が要る。
「最後に、『皆のため』の使用回数。——過去三日で十七回。口頭決裁の誘導語として記録」
私は別紙を掲げる。
人は言葉の癖を持つ。癖は、習慣。習慣は、手口。
淡々と並べる。感情は載せない。
「以上。総勘定合意・第五段へ編入し、王命下の行政停止範囲を宰相府・調整課まで拡張します」
ざわめきが二度、波を打った。
ヴァロの爪が白い。
宰相ダラントの呼吸が、ほんの一瞬だけ深くなる。
セレン様が前へ。
「王命に基づく告示。本刻より、調整課の新規決裁を停止。例外は書面稟議のみ。口頭不可」
鐘が正午を打つ。
石の上で、音が澄んだ。
時間そのものが印になる。
◇
解散の波が動く。
宰相とヴァロは背を向け、内へ消えた。
彼らは紙を持たずに勝てない。だから、紙を作りに行く。
私は石段の端で、束を抱えた。
肩が少し軽い。少しだけ、ね。
「よくやった」
背後から殿下の声。
振り向くと、額に汗。目の奥に火花。
でも、笑っていた。業務外の半歩。
「痛みは」
「費用だ。払い切る」
「半分は私が払います」
私も同じことを言う。
言ってから、少し笑う。二度目だ。贅沢。
「次は、補正期限の管理。——夕刻までに彼らが出せなければ、線をもう一段、宰相の任命権まで回す」
「了解。文案、作っておきます」
「皆は君を忘れる」
「はい」
「私は忘れない」
「知っています」
確認。短く。
でも、今日は一言だけ、足してもいい気がした。
業務外の半歩。ほんの、半歩。
「——忘れない殿下が、好きです」
殿下の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
火花の奥で、別の光が瞬いた。
彼は目を伏せ、いつもの声で答える。
「覚えておく」
ずるい。けれど、それで充分だ。
◇
午後。
小書庫。
第五段の板に、朱が増える。
受領印×3。反論不備×1。補佐官反論(口頭記載)×1(無効)。補正命令発出×1。
紙の重さが、机を沈める。
「押す」
「——束で共起」
輪が咲く。重なる。乾く。
外はまだ明るい。夕刻まで時間がある。
「戻ってくると思う?」
「戻ってきます。紙を持って」
「その紙は」
「穴が空いているはずです。——印の密度、語彙の癖、日付のずれ」
殿下は頷き、こめかみを押さえた。
痛みの波が一度。
引いて、また戻る。
それでも、声は安定。
「夕刻、もう一度、裁定院だ。第六段に入れる」
「了解。……殿下」
「なんだ」
「朝になれば、私は忘れられます」
「ああ」
「殿下は」
「忘れない」
確認。
私は深く息を吸い、束の上に両手を置いた。
この紙は、明日も覚えている。
だから、続きが書ける。
◇
夕刻までは短い。
それでも、ひとつだけ私用を挟んだ。
朱の端に、小さな点。
誰にも読めない、私だけの印。
“ここで、あなたと並んだ”という意味。
紙は熱で縮む。
心は、紙で広がる。
——正午は過ぎた。
裁きは、続きで完成する。
――つづく――