第7話 行政停止の線
※ハッピーエンド確約。暴力描写ひかえめ。糖度は後半ほど増えます。
午前。
小書庫。
私は殿下――カイル様と向き合い、“止める紙”を作っていた。
「対象は三つ。調達課、倉庫管理課、支払課」
「はい」
私は文案を並べる。短く、固く、抜け道を塞ぐ言い回し。
『王命。総勘定合意第二〜三段に基づき、当該三課の新規発注・出庫・支払を本日正午から停止。例外は書面稟議の一点のみ。口頭決裁は不可』
「印は密度高く」
「束で共起。——同じ朝、同じ二人、連続押印」
朱が咲く。
紙が重くなる。
“止まれ”の重さ。
「掲示は?」
「北・南・官庁通り。三方同時」
殿下は頷く。こめかみを指で押す。痛みは残っている。でも、声は運用の温度。
「皆は君を忘れる」
「はい」
「私は忘れない」
「知っています」
いつもの確認。これで、私の足は前に出る。
◇
官庁通りの掲示板は高い位置にある。
側近の方が梯子を支え、私は“行政停止”の紙を留めた。
釘の音。
通りの空気が少し冷える。
「止めるって?」
「正午かららしい」
「口頭は不可、だってよ」
ざわめきが散る。その隙間を縫って、宰相補佐官ヴァロが現れた。小さな笑み。目は笑わない。
「勇ましい。止める紙か」
「王命の運用です」
「紙で人は止まらないよ。現場は回る。皆のためにな」
出た。口癖。私は胸の内で印をひとつ足す。証拠の語彙。
「正午、三課の窓口に立ちます。——標準の説明を」
「好きにするといい。口は塞げない」
ヴァロは去った。去り際、靴音だけが速かった。
◇
調達課。窓口は混んでいた。
私は「正午から停止」の紙を窓口板に差し込み、時刻を指で示す。
「新規発注は、稟議書があれば受理します。口頭は不可。——標準です」
「急ぎなんだが」
「紙をください」
人はため息をつき、走る。走って紙を取りに行く。窓口の空気が整う。
“止める”は冷たくて、でも安全だ。
そこへ、ヴァロの伝令が割り込んだ。
「宰相府の口頭決裁を通せ!」
はい出ました。予想表。
「王命は口頭を不可と定めています。——控え欄、こちら」
私は“勘定外の申し出・記録用”紙を差し出す。
「決裁者名、時刻、内容。今ここで」
伝令は言葉につまずき、目をそらし、帰っていった。紙を持たずに。
◇
倉庫管理課。
セレン様が立会い。兵が二名。
私は掲示の写しを提示し、出庫停止の線を引く。カウンターの縁に、糸のような朱。
「停止線、越えないでください」
係員が困った顔で笑う。
「でも現場は回さないと——」
「紙で回してください。伝票が標準。口頭は不可」
そこへ、ヴァロ本人が来た。
薄い指輪。退屈の笑み。
「線遊びか。——私の口で許す」
「王命は紙にしてください」
「王命、王命。便利な言葉だ。紙が血を流すとでも?」
彼はカウンター内側へ一歩踏み込む。朱の線を靴で跨ぐ。
セレン様が無言で前へ出た。剣には触れない。身体だけ警告を覚えている。
「宰相補佐官、線を越えました。——越線記録を作ります」
私はさらりと告げ、紙を取り出す。
「氏名、職、越線時刻、目的。宰相府の業務は紙で守られる。口頭は不可」
ヴァロの笑みが、ほんの一音ぶれる。
冗談の顔が、仕事の顔に戻る。
「……受付印、貸してくれ」
「貸与は不可。標準です」
セレン様が短く言った。
「外で話そう、補佐官殿」
声は優しい。道は優しくない。
◇
支払課。
窓口の鈴。銅の音。
私は「本日正午以降の支払は一時停止」と読み上げ、代替手順を貼る。
『例外:検収済みかつ連番完備の請求のみ。口頭不可。控え写しを添付』
係の女性が手を挙げる。
「これ、明日になったら元に戻ります?」
「紙が増えた分だけ、戻りません。安全側に固定されます」
私はにこりと笑う。安心は、運用の言い換えだ。
そこへ、再び伝令。
「宰相府の一括支払命令だ、通せ!」
「命令書をください」
「口で——」
「口は朝露で消えます」
伝令は黙った。私自身が朝露の体現者だ。説得力、というやつ。
◇
正午。
三課の時計が、同じ音で鳴る。
私は秒針を見て、紙の角を揃える。
「——停止、発動」
窓口の動きが落ちる。慌てる足音が増える。
でも、事故は減る。
線は人をつまずかせるためではなく、落ちないために引く。
ヴァロがまた姿を見せた。背後に宰相派の吏。
「混乱だ。皆のために、今だけ口頭を——」
「『今だけ』は常に続きます。紙でください。控え欄、こちら」
私は同じ言葉を繰り返す。冷たくも、乱暴でもなく。標準で。
「王太子は、自分でここに立たない」
挑発。
「殿下は覚えている方に立っています。私は忘れられる方に立ちます。——役割分担です」
ヴァロの目が、私の顔をまっすぐに見た。
珍しい。
彼は普通、誰も見ない。
「君の名は」
来た。
私は首を振る。
「朝になれば、忘れます」
「……そうか」
ほんの一瞬、彼の目の底に疲れが滲む。
悪事の疲れか、仕事の疲れか、そこは紙に残らない。
◇
午後、王命掲示の前。
殿下が合流。額に薄い汗。目の奥に火花。
でも、声はいつも通り。
「停止は回っているか」
「はい。口頭は全滅。稟議の列が伸びました」
「列は悪くない。列は記録になる」
私は頷いて、束を差し出す。
越線記録。口頭申し出の控え。“皆のため”の回数。
殿下は一枚目を読み、短く息を吐いた。痛みが引く息。
「押す」
「はい。——束で共起」
朱が連続する。
大きな輪、小さな輪。
束全体が一つになる。
「皆は君を忘れる」
「はい」
「私は忘れない」
「知っています」
確認。短いのに、世界が戻る。
私の胸は温かい。殿下の指先は少し冷たい。二つを合わせると、ちょうどいい。
「夕刻、宰相府へ行政停止の告知を手渡す。——送達の儀式だ」
「送達、了解。受領印は三箇所。副控えは二部。立会いはセレン様」
「完璧だ」
殿下が目を伏せ、ほんの一瞬だけ笑う。
業務連絡の声色。
けれど、その笑いは業務外に半歩、はみ出していた。ずるい。
◇
夕刻。宰相府前。
石段。影が長い。
私は封筒を三つ。殿下は王命の写し。セレン様が立会い。
「宰相府宛——行政停止の告知。受領印をお願いします」
門番は固まる。内へ走る。
出てきたのは、ヴァロ。予想どおり。
「受け取ろう。皆のために、ね」
「ありがとうございます。印は三箇所」
「二箇所でどうだ」
「三箇所です」
私は微笑む。笑顔は薄く。
減らさない笑顔。
ぽん、ぽん、ぽん。
受領印の音。
紙に、赤い道が増える。
「これで、人は止まらない」
ヴァロは最後にそう言った。
「紙で止まらない人は、紙で記録されます」
返した私の声は静かで、よく通った。
石段の上の鳩が一羽、羽を鳴らす。やけに大きく聞こえた。
◇
夜。小書庫。
“総勘定合意・第四段”の見出しを貼る。
行政停止・送達完了。
越線記録×1。
口頭申し出控え×6。
受領印3。
「押す」
「はい」
朱が咲く。
紙がまた重くなる。
重さは、明日の保証。
「殿下」
「なんだ」
「朝になれば、私は忘れられます」
「ああ」
「殿下は」
「忘れない」
確認。
それから、私は一拍だけ間を置いた。
業務外の半歩。
今日の殿下の笑いに、借りを返す半歩。
「——忘れられないように、もっと紙を増やします」
殿下は少しだけ目を見開いて、それから笑った。
痛みが、笑いの影で薄くなる。
「なら、私は全部覚える」
ずるい。
でも、最高に安全な約束だ。
「次は?」
「明日、裁きの正午へ線を引く。——宰相その人へ届く線だ」
「了解。文案、用意します」
夜風。遠い鐘。
朱が乾く音が、今日の終わりを教える。
紙は残る。
彼も残す。
それなら私たちは、続きを書ける。