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第4話 夜明けの誓約

※最終的にハッピーエンドです。暴力描写は軽め。


 夜が薄い。

 窓の縁が、灰色になる。

 朝露の前。

 世界が、まだリラを覚えている時間。


 小書庫。

 紙の山。

 朱の輪。

 カイルの指先に、微かな震え。


「押す。——今のうちに」


「はい」


 二人で印章を持つ。

 角度を合わせる。

 息を合わせる。

 音は小さい。

 しかし、紙は重くなる。


「総勘定合意、第二段。九番倉庫の空。東門の授受。補佐官ヴァロの語句」


「ここに束ねます」


 リラは欄を引く。

 線は細く。

しかし、揺れない線。

 手が覚えた仕事。


「……痛みは?」


「流れる。今は大丈夫だ」


 彼は笑う。

 笑うと、痛みが薄くなる。

 それでも、目の奥に火花。

 彼は目を細め、紙を押さえる。


「夜が終わる。——確認だ」


「はい」


「皆は君を忘れる」


「ええ」


「私は忘れない」


「知っています」


 いつもの確認。

 短い言葉。

 それで、胸の奥が温かい。


     ◇


 鐘が一つ。

 朝が動き出す。

 王城の廊下に、足音が増える。

 声が交わる。

 名前が、薄くなる。


 侍女が会釈する。

 笑う。

 けれど目の中は、空白だ。


「おはようございます、……さん」


「おはようございます」


 挨拶は標準。

 笑顔も標準。

 世界に合わせた長さで、生きる。


 リラは財務局へ。

 今日の“標準照合”を告げる。

 書記官は戸惑う。

 けれど、手は動く。

 ——標準は、動かす言葉。


 台帳の端に、新しい癖。

 昨夜、誰かが触れた。

 “余白の点”が、欠けている。

 持っていかれた頁がある。


「差し替えが早いですね」


「え、ええ……朝いちで回ってきまして」


 回ってくる“訂正済み”。

 訂正の根拠は、どこにもない。

 “済み”だけが歩く。

 そういう朝。


 リラは控えを取る。

 写す。

 薄い紙に、薄い文字。

 薄いほど、光で浮く。


     ◇


 近衛詰所。

 セレンが大鍋の前で立っていた。

 朝の粥。

 塩の匂い。

 彼は木杓子を置き、こちらを見る。


「照合は」


「進めています。九番倉庫の件も、続きが」


「そうか」


 セレンは一拍だけ黙り、眉を寄せた。

 視線が、リラの肩口で止まる。

 思い出そうとする筋肉。

 形だけ、思い出す。


「……君を、何と呼べばいい」


「記録官の娘、で充分です」


「分かった。——気をつけろ」


 守る言い方だ。

 彼は知らない。

 でも、守る型を覚えている。


     ◇


 午前。

 宰相府の回廊。

 薄い絨毯。

 靴音が吸われる。


 ヴァロの伝言が回った。

 “第二倉庫の訂正。午後、控え室で”


 控え室の扉は、重い。

 内側から鍵。

 机。

 椅子。

 水差し。

 人を待たせるための部屋。


 ヴァロは遅れて入る。

 笑う。

 目が笑っていない。


「昨夜は助かった。仕事が速い」


「紙が速いだけです」


「謙遜は美徳だが、ほどほどに。——これは前金」


 机に、小袋。

 硬い音。

 銀貨の重み。

 “従属”の重み。


 リラは袋を見ない。

 紙を見せてほしい。


「任用の書を。席の名前を。——私は忘れられます。言葉では続かない」


「後でいい」


 また、それだ。

 “後でいい”。

 いつまでも来ない“後”。


「標準では、先に紙です」


「ここは標準外だよ」


 ヴァロの声が少し低くなる。

 “皆のため”。

 “標準外”。

 彼の言語の形。


「九番で騒いだと聞く。近衛が動いた。王太子が紙を束ねている。——賢くあれ」


「紙は、標準に戻すための道具です」


「理屈は好きだが、理屈で生きていけるのは王族だけだ」


 笑いが戻る。

 軽い。

 軽いほど、危ない。


「午後、第二倉庫。——鍵は私が持つ。君は“訂正済み台帳”を持ってこい。印は不要だ」


「王太子の控え印は必要です」


「不要だ」


 彼は言い切る。

 紙を奪いたい側の言い切り。

 リラはうなずかない。

 笑わない。

 沈黙を置く。

 沈黙も、記録になる。


「では、控えだけ拝借します。——標準の範囲で」


 リラは席を立った。

 ヴァロの目が、わずかに細くなる。

 追わない。

 追えない。

 扉は重い。

 音は小さい。


     ◇


 小書庫。

 カイル。

 額に冷たい布。

 指先に朱。


「控えは取ったか」


「はい。彼らは“印不要”を強調します。紙を無効化したい」


「なら、こちらは印の密度を上げる」


「密度?」


「一枚に二つではなく、束全体に“共起”をかける。——“同じ朝に、同じ二人で、連続押印”。露を逃れる比率が上がる」


 彼の発想は実務だ。

 儀式を運用に落とす。

 古い文言を、現代に最適化する。


「やってみます」


「やる。——これは段取りだ」


 カイルは布を外し、立ち上がる。

 目の奥の火花。

 それでも、歩く。

 朱へ。

 紙へ。


「それから、フェイク破局の準備も進める」


「……いつですか」


「早ければ、明日」


 胸が、小さく疼く。

 分かっている。

 合図だ。

 読者に刺さる“痛甘”の回。

 政治のため。

 紙のため。

 恋のため。


「必要な言葉は、用意します」


「痛ませたくはない」


「痛みは費用です。——殿下が払っている費用の、半分を私が払います」


 カイルは目を伏せ、笑った。

 短い笑い。

 温度のある笑い。


「分担か」


「共犯です」


 印章が、机に並ぶ。

 輪が咲く。

 紙が重くなる。

 束が、一つになる。


     ◇


 午後。

 第二倉庫。

 鍵はヴァロが持つ。

 扉は新しい。

 塗りが厚い。

 匂いがまだ生きている。


「訂正済み台帳は」


「ここに」


 リラは差し出す。

 ヴァロは受け取り、めくる。

 “余白の点”が、ここにはない。

 別版だ。

 彼の肩の力が少し抜ける。

 安心の力。


「良い。——では、鍵を」


 鍵穴の音。

 扉が開く。

 中は暗い。

 匂いは強い。

 油。革。乾いた穀物。

 九番とは違う。

 “物がある”匂い。


「満載だ。帳簿通りだ」


 連絡役が胸を張る。

 ヴァロは頷く。

 勝ち誇る顔。


 リラは踏み込まない。

 敷居の手前で、紙を広げる。

 ランタンの灯を受けて、数字が光る。

 “勘定外”の朱は、今は使わない。


「倉庫番号に注目を。——二の次は四。四の次は六。偶数だけ。九番は、奇数です」


「詭弁だ」


「倉庫の列は偶数側と奇数側で分かれて配置されています。——二列目は南。九番は北。運搬経路が合いません」


 ヴァロの目が細くなる。

 もう一つ、紙。

 別の控え。

 ルート図。

 セレンが昨夜、兵站図から写した線。


「第二倉庫から運び出した物は、最終的に“九番”へ中継されたことになっている。——“空の倉庫”へ」


 沈黙。

 倉庫の匂いが重くなる。

 ヴァロの指が、紙をつまむ。

 爪が白い。


「証言は——」


「不要です。数字で充分です」


 背後で砂利が鳴る。

 セレンが現れる。

 立会いの記録。

 “王命下の標準照合”。

 声にすると、重みが出る。


「控えを預かる。鍵の受け渡しも、記録に」


 ヴァロは笑った。

 笑うしかない笑い。

 小さく肩をすくめ、鍵を置く。


「紙で戦うのは、退屈だよ」


「退屈は安全です」


 リラは答える。

 退屈な仕事。

 地味な線。

 それが、国を動かす。


     ◇


 夕刻前。

 小書庫。

 窓が赤い。

 紙が、光る。


「第二段、完了だ」


 カイルが朱を押す。

 痛みの波。

 引く。戻る。

 それでも、押す。


「明日、フェイク破局」


「はい」


「言葉を準備する。——君を守る言葉だ」


「お願いします」


 リラは頷く。

 胸は静かに疼く。

 けれど、恐れは小さい。

 理由は単純。

 彼が覚えているから。


「殿下」


「なんだ」


「朝になれば、皆は私を忘れます」


「ああ」


「殿下は」


「忘れない」


 確認。

 いつもの長さ。

 その長さで、夜が結ばれる。


 鐘が鳴る。

 紙の朱が乾く。

 朝露が来る前に、誓約は完了した。


――つづく――

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