第3話 フェイクの寝返り
※最終的にハッピーエンドです。暴力描写は軽め。
朝。
世界は新しい顔をしていた。
人々はリラを忘れている。
王太子だけが、覚えている。
机の上。
昨夜の二重押印。
朱は乾いた。
重い。安心の重さ。
「今日は“誘われに行く”日です」
独り言は短く。
声にすると、迷いが消える。
◇
餌は小さく。目立たず。
リラは“標準照合の不具合”の写しを、見つけてほしい場所に置いた。
財務局の回覧棚。
表紙だけ、少し覗かせる。
紙を置いて三歩。
影が動いた。
痩せた男。灰色の上着。
目だけが油のように光る。
「君。少し良いかな」
声は柔らかい。
礼儀。香料。
それでも、爪の形は仕事を隠せない。
——宰相派の連絡役。
「照合の写しが欲しくてね。局長に怒られる前に、整えておくのが“皆のため”だ」
“皆のため”。
便利な言葉。
リラは笑ってうなずく。
「標準の範囲であれば」
「君は賢い。——名は?」
「記録官の娘です」
名前は出さない。
朝の世界に合わせた長さ。
連絡役は目を細めた。
少し考えて、それから決めた顔になった。
「今夜、三の鐘。西庭の温室の裏。控えを持ってきなさい。君の“将来”の話をしよう」
「標準の範囲で」
「もちろん」
男は去る。
歩幅が小さい。
背は丸く、目だけが早い。
誰かの“道具”の歩き方。
◇
夕刻前。小書庫。
カイルは地図を広げていた。
温室の裏へ続く通路。警備の死角。
風の向き。鐘の時刻。
「彼らは、必ず“取引の言葉”を使う。将来、皆のため、標準外。――この三つを同じ段で言ったら、合図だ」
「受けます。偽の寝返りで」
「安全線は二本。セレンが外周。私が文書の芯だ」
「合図は?」
「『紙は熱で縮む』」
短い文。
覚えやすい。
忘れにくい。
カイルは朱の印をもう一つ用意した。
“勘定外の申し出・記録用”。
二人だけが知る小さな判。
「君が受け取った瞬間、これを紙に押す。——彼らが君に何を渡したかを、紙に残す」
「分かりました」
「……頭痛は平気だ」
言ってから、彼は苦笑した。
平気ではない。
目の奥に火花。
それでも、歩幅は崩さない男。
「殿下」
「なんだ」
「今日も、覚えていてください」
「忘れない」
確認。
業務連絡の声色。
それだけで、温度が上がる。
◇
三の鐘。
温室の裏は、湿った土の匂い。
砂利。葉。水の音。
連絡役がいた。
隣に、もう一人。
丸い指輪。薄い笑み。
宰相補佐官、ヴァロ。
背広の布。高価。
目は退屈している。
「来たね」
ヴァロは退屈を隠すために微笑む。
「婚約破棄は、災難だった」
「……はい」
「しかし、君ほどの才なら将来がある。皆のためにも、標準外の仕事を頼みたい」
三つの言葉。
合図。
「対価は出す。身の安全も保証しよう。宰相閣下の名で」
リラは小さく首を振った。
名は欲しくない。
保証は紙で欲しい。
「紙をください。指示書を。——私は忘れられます。明日の朝、言葉は残りません。紙なら、標準で扱えます」
ヴァロの口角が上がった。
紙なら、握れる。
紙で縛れる。
そう考える顔。
「いいとも。ここに、“台帳の訂正方法”がある」
差し出された封筒。
薄い。
軽い。
軽さは犯罪の匂い。
リラは受け取った。
同時に、懐から小さな判。
カイルが用意した“勘定外”の朱。
——押す。
封の裏。
角。
目立たない場所。
「何をした?」
「標準の控え印です」
嘘ではない。
“標準”という言葉の強さに、ヴァロは頷いた。
納得して、ここで終えるつもりだった。
けれど、連絡役の方が用心深かった。
「その印、見せなさい」
近づく手。
リラは半歩下がる。
足音。
砂利が鳴る。
温室のガラスに、足音が跳ね返る。
外周。
影。
セレン。
見回りのふり。
剣に手はかけない。
身体だけが警戒を思い出している。
「問題は?」
セレンの声は平坦。
彼自身も、彼女を知らない。
でも、声色は守る型をなぞっている。
「いや、些細な確認だ」
ヴァロは笑った。
見られたくない。
だから、終わらせる。
「今夜はこれで。次は第二倉庫。君は“訂正済み台帳”を持って、東門へ。時間は四の鐘だ」
「承知しました」
リラは浅く礼をし、離れた。
背中に視線。
湿った葉。
水音。
遠くの鐘。
◇
小走りで温室を抜ける。
足音を一つ角で消す。
息は乱さない。
小書庫へ。
扉。
朱。
紙。
カイルが待っていた。
手に氷袋。
額に薄い汗。
「受け取ったか」
「はい」
封筒を差し出す。
“勘定外”の朱が、角で光る。
カイルは一度だけ目をつむり、うなずいた。
「開ける」
封を切る。
中身は薄い指示書。
言い回しはやわらかい。
でも、中身は固い。
——請求番号の移し替え。
——端数の訂正。
——“標準照合”の語の乱用。
犯罪の言語。
「宰相補佐官の筆だ。……癖が出ている」
「“皆のため”“標準外”の三点セットも確認しました」
「罠を張る。——第二倉庫の“訂正済み台帳”。こちらで作る」
偽物ではない。
正しい台帳。
そこに、誘導の余白を残す。
「四の鐘、東門。セレンは遠巻き。私は——」
「紙になって待っていてください」
カイルが笑った。
痛みが少し遠ざかる笑い。
「紙は熱で縮む」
「合図、了解」
リラは手早く書き始める。
“訂正済み”の体裁。
余白に薄い点。
点は並ぶと線になる。
線は“誰が触れたか”を浮かび上がらせる。
「殿下、最後に押印を」
「二重押印」
朱が咲く。
紙が重くなる。
世界に続きを作る重さ。
◇
四の鐘。
東門。
風が冷たい。
灯りは少ない。
ヴァロが来た。
連絡役も。
視線は短い。
急ぎたがっている。
「持ってきたか」
「はい。“訂正済み台帳”です」
リラは差し出す。
ヴァロは受け取る。
熱で、紙がわずかに縮む。
彼の手は熱い。
焦りの温度。
「良い仕事だ。君には席を用意する。皆のため、働こう」
「紙にください。任用の書を」
「後でいい」
“後でいい”は罠の言葉。
リラは一歩引く。
足音。
影。
セレンの影が砂利を踏む。
「標準では、先に紙です」
沈黙。
短い息。
ヴァロは笑えなかった。
連絡役が苛ついた指で印章を探す。
そのとき。
門灯が一つ強くなった。
風。
紙が揺れる。
余白の点が、灯りで浮いた。
ヴァロの目が細くなる。
理解が遅れる。
遅れた理解は、顔で隠せない。
「——これは、“誰が触れたか”が残る紙か」
リラは黙った。
答えない。
答えない沈黙も、記録になる。
セレンが半歩前へ。
剣に手はかけない。
声だけが硬い。
「王命による標準照合の延長だ。——その紙、こちらで預かる」
ヴァロは笑いに戻った。
逃げの笑い。
肩をすくめる。
「勘違いだよ。君たちが神経質すぎるだけだ。紙は紙だ。紙は熱で縮む」
合図。
カイルの文。
リラは頷く。
合図を受けたのは、こちら側だ。
「では、標準で処理します」
紙はセレンの手に渡る。
“勘定外”の朱が、灯りで濃くなる。
「今夜はこれで。次は呼ぶまで待て」
ヴァロは踵を返した。
足音は静か。
でも、急いでいる。
◇
小書庫。
夜更け。
紙の山。
朱の輪。
リラとカイル。
「線が繋がった。宰相補佐官ヴァロ。彼の熱。彼の印。彼の言葉」
「“皆のため”“標準外”“後でいい”」
「言語の癖も、証拠になる」
カイルはこめかみを押さえ、深く息を吐いた。
痛みはそこにある。
でも、紙の重さが支えになる。
「明日の朝、皆は君を忘れる」
「ええ」
「私は忘れない」
「知っています」
いつも通りの確認。
それでも、胸が熱くなる。
熱は、記憶より長く残る。
「——明日の昼、『総勘定合意』を一段上げる。宰相の結び目へ、指をかける」
「はい」
窓の外。
夜風。
鐘が遠い。
朱が乾く音が、確かにある。
世界は朝になれば、リラを忘れる。
紙は忘れない。
彼も、忘れない。
だから続けられる。
この仕事も。
この恋も。
――つづく――