第2話 台帳の黒い糸
※最終的にハッピーエンドです。暴力描写は軽め。
朝。
王城の南棟。調達台帳室。
紙の匂い。糊。乾く音。
リラは机の前に立つ。
笑顔は薄く。邪魔にならない笑顔。
「標準照合です」
それだけ伝える。あとは手順。
書記官が控えを並べる。
前月。今月。昨夜の修正控え。
ページの角が揃っていない。忙しい手の跡。
リラは最初の頁を開く。
視線は数字の列に沈む。
五桁。四桁。端数の癖。
「二」を「乙」に寄せる書き手。
同じ傾き。同じ迷い。
別人の筆記で、同じ癖。
——おかしい。
「照合印を」
「は、はい」
書記官の手が震える。
緊張ではない。眠気でもない。
知らない女と、見覚えのある紙。
頭と体のずれ。
扉が軋んだ。
近衛隊長セレンが入る。
動きが静か。足音が薄い。
礼をして、言う。
「王太子殿下のご指示による巡検だ。続けてくれ」
視線がリラに止まる。
半歩、足が開く。剣の角度がわずかに変わる。
——見覚え。
しかし、名前は出てこない。
「標準照合の立会いを」
リラが言う。
セレンは頷く。
その頷きに、反射の速度。
身体記憶の肯定。
リラは次の頁。
軍靴。保存食。油。
同じ仲介商。
請求番号だけが、新しい。
端数処理が逆転している。
「切り上げ」が「切り捨て」へ。
夜の間に、数字が痩せている。
彼女は朱の線を引く。
目立たない線。
見返したときにだけ、光る線。
セレンが問う。
「何を見ている」
「筆跡の癖と、端数の動きです」
「素人にも分かるように」
「夜の間に、同じ手が、別人の名前で請求を書き直した。——その癖です」
セレンの眉が寄る。
彼は書記官の手元へ目を落とす。
確かめる。
剣ではなく、紙で。
リラは三冊目を開く。
修繕油の行き先。
倉庫番号が一つ飛んでいる。
偶数の並びで、奇数が抜ける。
——抜けた倉庫が、実体のない倉庫。
「倉庫九番の鍵はどこですか」
リラは書記官に聞く。
「九番……鍵?」
書記官が固まる。
鍵束を探る。
九番の輪が無い。輪の跡だけが、磨かれている。
セレンが短く息を吐く。
「現地を確認する」
「その前に、覚書の写しを」
リラは二重押印の紙を示す。
国璽。王太子署名。二重押印。
紙は重く、朱は乾いている。
セレンは頷き、扉へ向かう。
扉の前で一瞬だけ止まる。
振り返り、言った。
「……以前にも、同じやりとりをした気がする」
「身体が覚えているのだと思います」
「そうか」
彼は出た。
足音が遠のく。
廊下の光が薄く揺れる。
リラは息を整える。
心拍は落ち着いている。
日常の動作。
初めてと、何度目かの重なり。
机の脇。
鉄の箱。鍵穴。
昨夜の修正控えの封。
封蝋の縁が欠けている。
今朝新しく見える朱。
夜の仕事の上塗り。
リラは箱を指さす。
「これも照合範囲に」
「え、でも——」
「標準です」
言葉の力。
“標準”は、誰の口にも宿る権威。
封を切る。
中身は丁寧に整理されている。
丁寧すぎる。
数字の並びに、呼吸の跡がない。
人のいる紙は、少しだけ乱れる。
この紙は、機械のように平ら。
リラは自分の覚書に書き写す。
夜明け前の二重押印。
朝でも残る字。
世界に刻むための、合意の形。
◇
昼前。
王太子の側近が戻る。
紙束を胸に。息は乱れていない。
「殿下より伝言。——九番倉庫の検分を許可。近衛三名を付ける」
「ありがとうございます」
側近は紙束を受け取り、また去る。
無駄のない足取り。
彼の視線は、一度だけリラの手元に落ちた。
朱の輪。
確認。
納得。
書記官が小声で聞く。
「あなたは……どなた、でしたか」
リラは笑って答える。
「記録官の娘です。今は、照合の手伝いを」
嘘ではない。
全部ではない。
朝の世界に合わせた長さ。
「昼の鐘が鳴ったら九番へ。鍵はありません。扉の蝶番に隙があります。工具を借りられますか」
「工具……? どのような」
「薄い刃。布。油」
「修繕室から——」
「標準です」
書記官は立ち上がる。
“標準”は強い。
人は“いつも通り”に安心する。
◇
中庭。
陽が高い。
石畳が白い。
風は冷たい。
秋の匂い。
近衛が三名。
セレンが先頭。
リラは最後尾。
歩幅を合わせる。
台帳の頁を胸に抱く。
倉庫列の最奥。
九番。
扉は重い。塗りの古さ。
蝶番に薄い隙。
布を挟み、刃を入れる。
油が鳴る。
音は小さく。
鍵は使わない。
扉が、空気の重さでわずかに浮く。
「開いた」
セレンが低く言う。
中は暗い。
匂いがない。
倉庫なのに、匂いがない。
物が入っていない匂い。
人が、演出した空虚。
棚はある。
伝票はある。
伝票の角が、揃いすぎている。
リラは一歩入る。
足音が響く。
音の跳ね返りが、速い。
空洞の証拠。
「空です。帳簿上は満載。——請求分は他へ回っています」
セレンが小さく舌を打つ。
近衛の一人が棚の裏を探る。
壁の継ぎ目。
薄い粉。
誰かが、ここを使っている。
使っているのに、何もない。
“何もない”を作る手。
「記録を取る」
リラは紙に朱を打つ。
“現地照合:九番倉庫・内容空。請求伝票との不一致。”
セレンの名を書く欄。
自分の名。
王太子の名。
——二重押印のための空欄。
外から陽が差す。
埃が舞う。
舞う埃に、紙の朱が映る。
「午後、殿下に合流を」
セレンが言う。
「禁書庫の扉が開く。老書庫番が通した」
リラは頷く。
喉の奥が温かい。
安心ではない。
確かめ合い。
約束の形。
◇
夕刻。
禁書庫。
扉の金具は古い。
高い鍵穴。
古い紙の匂い。
乾いた音のする空気。
老書庫番が出迎える。
目は笑っていない。
口だけが、礼儀で動く。
「おや、君かね。——ああ、君か」
矛盾した挨拶。
忘れていて、覚えている。
「閲覧許可を」
リラは覚書を出す。
二重押印の朱。
老書庫番は朱を一度見ただけで、扉を開く。
「“朝露の罰”。原文は奥だ。三番棚の七列目、木箱。触る前に、ここで手袋を」
指先に布。
皮膚の温度が閉じこめられる。
紙に触る手の、礼儀。
箱を開ける。
薄い紙。
古い字。
背の骨がまっすぐな文字。
王家の古い契約の言葉。
——忘却。
——対象の名に触れる記憶は、朝露とともに薄れ、消える。
——ただし、王家の血が同席し、印を重ねた記録は、露を逃れる。
——代償あり。観測者は、偏頭痛を負う。時に、視界に火花。
リラの指が止まる。
紙の上で、息が震える。
最後の行。
——“誰か一人だけが覚えている時、世界はやり直せる”。
短い文。
祈りのような、命令のような。
背後。
足音。
王太子カイル。
呼吸が浅い。
額に薄い汗。
目の奥に、火花の跡。
「遅れた」
「大丈夫です」
リラは原文の該当箇所を示す。
カイルは目を細め、静かに読んだ。
唇の端がわずかに上がる。
痛みの向こうで、理解が形になる。
「……なるほど。君が忘れられ、私が覚えている。——“露を逃れる印”は、二人で押す」
「条件が揃っています」
「代償も、揃っている」
カイルは片手でこめかみを押さえる。
痛みが一度。
波が引く。
戻る。
「殿下。九番倉庫は空でした。帳簿の数字は、別の倉庫へ。匿名の仲介へ。——宰相の名は出ません。出ないように作られている」
「出させる。——“総勘定合意”だ」
彼は紙束を開いた。
昼までの照合。
九番の空。
近衛隊長の立会い。
禁書庫の原文の写し。
全てを一枚の“勘定”に束ねる。
「押す」
朱が咲く。
リラの指に熱。
カイルの指に熱。
印が重なる。
「明日の朝、皆は君を忘れる」
「ええ」
「私は忘れない」
「知っています」
老書庫番がひとつ咳払いをした。
儀式の合図のように、静かな音。
「——君たちのやり方は、昔話に似ている。王がまだ王だった頃のやり方だ。紙と印で世界を縛る。良いやり方だよ。手間がかかるが、手間が記憶になる」
「ありがとうございます」
リラは頭を下げる。
カイルは老書庫番に礼をし、扉を閉じた。
廊下に出る。
夕刻の光。
石の温度。
遠い鐘。
「殿下」
「なんだ」
「婚約破棄の記録。——“政治的合図”の文言、明日には仕上げます」
「頼む」
彼は短く答え、歩き出す。
歩幅を合わせる。
肩が触れない距離。
触れないのに、並んでいる距離。
リラは横顔を見る。
痛みの跡が、光に透けて見える。
それでも彼は、歩幅を崩さない。
“覚えている男”として、前に出る。
胸の奥が熱くなる。
恋ではない、と言い訳するには、熱が長すぎる。
業務連絡の声色で、心が少しだけ速くなる。
「——忘れない記憶が、国を動かす」
リラは小さく呟いた。
カイルは聞こえなかったふりをした。
ふりをして、微笑んだ。
――つづく――