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第1話 婚約破棄は、合図

※本作は最終的にハッピーエンドです。


 祝宴の中央で、銀の杯が乾いた音を立てた。

 王太子カイル・ヴァレンは一歩前に出て、よく通る声で言った。


「本日をもって、リラ・アルメとの婚約を解く」


 音楽が止まり、扇が一斉に閉じる。拍手の形だけ整って、音は鳴らない。

 リラは裾を持ち、礼をした。顔は上げない。見られても構わないが、見たところで明日の朝には忘れられる。


 ——これが合図。


 宰相ダラントの視線が滑る。笑っているのに、目は鋭い。

 貴婦人たちが囁く。記録官の娘が身の程違いでしたのね、と。

 リラはうなずき、退出の列に身を滑らせた。心臓は落ち着いている。今日の役目は「捨てられた女」を演じることで終わりだ。


 扉の影で、低い声が追ってきた。


「すぐに小書庫へ。二刻後だ」


 王太子の声。リラは短く頷いた。これ以上は何も言わない。彼が誰よりも賢いことは、こちらが一番知っている。


     ◇


 王城の小書庫は、夜のほうが静かだ。

 燭台は一つ。紙の匂いが濃い。版木、綴じ紐、印蝋。

 カイルは礼服の上着を脱ぎ、袖を捲っていた。無駄がない。机上には、国璽を押すための朱が二つ、印章台が一つ。


「遅れてすまない」


「予定通りです。殿下。舞踏会場の動きも、宰相派の顔ぶれも、見えました」


「婚約破棄の効果は?」


「上等です。明日、皆さんは私を思い出せない」


 カイルは頷く。

 彼だけが、覚えている。何故かはまだ不明だ。だが、それで十分だった。


「まず、覚書だ。夜明け前に『二人で』押す。——この条件を満たした文書は、朝になっても消えない」


 彼は低い声で条文を読み上げ、リラにペンを渡す。

 条文は簡潔だ。

 ——財務局調達台帳、軍需物資支払帳、受付印の時刻差。

 ——二重払いの疑義。

 ——確認照会のための臨時閲覧許可。


 必要な文言だけ。感情は一文字もない。

 それでも、紙を挟むカイルの指は熱かった。リラは一呼吸、整えてから署名する。


「リラ・アルメ」


 続けて、カイルが署名する。

 朱が、夜の紙に咲く。


「二重押印、確認」


 指先が触れた瞬間、リラの皮膚が僅かに震えた。

 ——二人で押したものだけが、朝にも残る。

 この特例は、老書庫番に見せてもらった古い王家の文書から推測した。どの時代にも、例外を必要とした王がいる。国家は例外の積み木で出来ている。


「明日は調達台帳室に入る。君は“忘れられる女”として。私は“覚えている男”として」


「はい。台帳は毎夜、翌日の差し替えがある。そこで二重払いの痕跡が薄まります。今夜の覚書が鍵です」


「護衛は?」


「最小人数。近衛隊長セレンは実直ですが、私を覚えていない。——身体が覚える違和感で、足が止まるはずです」


 カイルは苦く笑った。

「面倒な賭けだ」


「でも勝てます。殿下は、覚えている」


「代償がないなら、よかったが」


 その言い方に、リラは少しだけ首を傾げた。

 彼は続けた。


「この数日、頭痛が増えている。覚えていられるぶん、他の記憶との摩擦が大きい。医官は“記憶の血栓”と例えた。詰まりはしないが、流れが淀む、と」


「……無理は」


「しない。必要な無理しかしない」


 それは無理をするという宣言と同義だったが、リラは追及しなかった。

 今は動く時だ。痛みは“費用”だ。国家を動かすには、いつだって費用がいる。


「殿下。覚書、もう一通。禁書庫の閲覧許可です。古文書の“朝露の罰”——忘却契約の原文を見たい。宰相が何を握っているのか、その起源を知る必要がある」


「分かった。——今、作る」


 二人は紙を寄せ、言葉を削り、朱を置く。

 朱の輪がまた、咲く。


「明日の朝、皆は君を忘れる」


「ええ」


「私は忘れない」


「知っています」


 リラは目を閉じ、深く息を吸った。

 忘れられるということは、世界の表面をすべるように歩くことだ。足跡が消える。挨拶も、笑顔も、礼儀も、全部“初めまして”になる。

 それでも、彼だけは昨日の続きを話す。明日も、続きがあると言う。


「殿下」


「なんだ」


「婚約破棄の一件、文書にして残しておきます。“公の場であったこと”“理由の説明不能性”“王太子の裁量権”——後で必要になります」


「必要になる、か」


「宰相が動きます。王太子の支持基盤を切り離しに来る。『軽率』という言葉で」


「防衛線は?」


「数字です。帳簿が味方をしてくれます」


 リラは小さく笑った。

 数字は嘘をつかない。人は忘れる。だから、二重押印をする。

 明日の朝、世界が彼女を忘れても——この紙は、忘れない。


     ◇


 翌朝。

 王城の廊下は明るい。石は冷たく、窓の格子は美しい。侍女が会釈した。目に、誰も映っていないような笑みだった。


「おはようございます、アルメ……さん?」


「おはようございます。台所の道、通ってよろしいですか」


「あ、ええ。——どちらへ?」


「調達台帳室です」


「鍵は——あら?」


 侍女は首を傾げ、袖の内側を探るような仕草をした。

 身体が、何かを覚えている。だが、意識は名前を掬えない。

 リラは微笑み、礼をして通り過ぎた。足取りは軽い。初めての道のように、何度も歩いた道を進む。


 廊の突き当たり。近衛隊長セレンが立っていた。

 彼は見覚えのない女を前に、半歩だけ足を開いた。剣に手はかけない。任務の礼儀を崩さない男だ。


「通用の道だ。誰に用向きか」


「財務局長の指示です。台帳の照合」


「書面を」


「こちらに」


 差し出した覚書には、昨夜の朱が新しい。

 セレンは目を走らせる。眉がわずかに寄る。——王太子の署名。国璽。二重押印。


「……なるほど。通れ」


 彼は一歩退いた。

 身体は“何度もこの女を通した気がする”と告げている。意識はそれを否定する。

 矛盾が小さな疼きになって、脳のどこかに棘のように刺さる。


「失礼いたします」


 リラは通った。

 台帳室の扉は重い。鍵穴の周りに薄い金属擦りの跡がある。朝の光で見ればただの汚れだが、ここで働く者は知っている——帳簿は毎夜、少し書き換えられる。

 中は紙の城だ。背の高い棚、ひらいた伝票、糊の匂い、乾く音。


「照合に来ました」


 机に座る書記官が顔を上げ、困惑の笑みを作る。

 誰だっけ? という笑いだ。

 リラは迷惑をかけない笑顔で、手順だけを示す。


「前月分の調達台帳と、昨夜の修正控えを。国璽覚書に基づく標準照合です」


「あ、ああ……標準照合。はい。こちら」


 書記官は自動的に動く。

 “標準”という言葉は人を安心させる。——誰が言っても、誰かが言ったことになる。

 リラは静かにページをめくる。頁表の右下、朱の番号。支払い伝票の控え。

 金額の桁が、夜の間に微妙に動いている。四捨五入ではない。端数の積み重ね。調達先名の字体も一文字だけ違う。

 小さな継ぎ目が、続いている。


「照合印、お願いします」


「は、はい」


 書記官が判を持ち上げる。

 そこへ、扉が叩かれた。音は硬く、礼儀はあるが、気が急いている。


「失礼する。王太子殿下のお使いだ。今朝の照合の件で」


 リラは振り返る。

 入ってきたのは——カイルではない。彼の側近の青年だ。礼装は簡素、眼は冷静。

 彼は書記官とリラの間に視線を流し、手短に言う。


「覚書の写しを。国璽控えを殿下へ戻す」


 リラは頷いた。

 ——彼は覚えている。だから、動ける。

 側近は紙を胸に挟み、踵を返した。動きに迷いがない。

 扉が閉まる頃、書記官がぽつりと漏らす。


「……不思議な朝だ。殿下はいつも通りに見えるのに、こちらの頭が上手く働かない」


「朝露のせいですよ」


「は?」


「露が濃いと、紙は重くなります。頭も同じです」


 意味のない比喩を置いておくと、人は納得する。

 リラは書記官の判が降りる音を聞きながら、次のページをめくった。

 宰相ダラントの名は、どこにもない。代わりに、名もなき仲介商が連なっている。

 王国の汚れは、いつも匿名で運ばれる。名は朝露に溶ける。だから、印を重ねる。


     ◇


 正午直前、小書庫。

 カイルは机に積まれた紙束を押さえ、こめかみを指で押していた。浅い呼吸。目の奥で、痛みが二度、波を打つ。


「殿下」


「戻ったか」


「調達台帳、昨夜の修正が確定しています。側近の方に控えを託しました。二重払いの連鎖は、三ヶ月分」


「三ヶ月……なるほど。——宰相の指示か、宰相に恩を売りたい何者か」


「どちらにせよ、“数字で切れる”範囲です」


 カイルは微笑んだ。笑うと、痛みが少し遠ざかる。


「禁書庫の件は?」


「閲覧は夕刻。老書庫番がお時間をくださいました。“朝露の罰”の原文に当たります」


「君は、朝になれば誰にも知られない」


「はい」


「私は、覚えている」


「ええ」


 それは、誓いではない。確認。業務連絡のように淡々とした、二人のルール。

 それでも、リラの胸は温かくなる。温度は記憶より長く残る。

 彼女は紙束を両手で撫で、朱を確かめ、最後の頁に新しい欄を作った。


「“総勘定合意”——ここに、集めます。殿下と私の二重押印で、不可逆に」


「分かった」


「——そして、婚約破棄についても」


 カイルが顔を上げた。

 リラは静かに言う。


「“公の場の手続であり、政治的合図だった”ことを記録に。いつでも戻せるように」


「戻す、か」


「戻します」


 即答だった。自信というより、段取りの話だ。

 カイルは短く笑った。痛みがまた少し遠ざかる。


「ならば、私は忘れない。——君が“戻す”と言ったことを」


 窓の外で、正午の鐘が鳴る。

 紙の上で朱が乾く音がした。

 婚約破棄は、合図でしかない。合図が鳴ったのなら、次の拍は二人で決める。

 朝露は、すぐに蒸発する。朱は、残る。


——つづく——

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