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深淵に触れる者に制裁を

数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。

この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや感想をお寄せいただけると、作者にとって大きな励みとなります。

なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。

 夢子は、夜の人事部にひとり取り残されていた。

 蛍光灯の冷たい光が机の上を照らし出し、「MP台帳」の数字だけが静かに揺れている。背筋を伝う冷汗は、拭っても消えなかった。


 ——小林が、この制度の正体に気づき始めている。


 それは夢子にとって悪夢の宣告だった。


 昼休み、小林は冗談めかしてこう言った。「社長の若返りと夢子さんの行動は繋がってるんじゃないですか?」と。

 笑みを浮かべていたが、その瞳には冗談を超えた確信が宿っていた。


 夢子はすぐ部長に相談した。

 部長は、普段は疲れ切ったサラリーマンの顔しか見せない男だ。しかしその時ばかりは、氷のような光を宿した眼で言い放った。


 「絶対にバレるな。もし秘密が他に漏れたら……会社ごと吹き飛ぶ」


 「吹き飛ぶ……?」夢子は青ざめた。


 部長は答えず、ただ一言だけ落とした。


 「深淵に近づく者は、必ず破滅する。お前が止めろ」


 その言葉の重みが夢子の胸に突き刺さる。


 ——小林を、懲らしめなければ。


 夢子はそう結論づけた。同期であり、信頼できる同僚であっても、秘密を守るためなら……。


 翌日。

 夢子は、台帳の画面を見つめながら指先を震わせた。


 対象者:「小林」

 現在値:132MP


 「……ごめん」

 小さく呟いてから、「−0.2」と入力。


 その瞬間、小林は廊下でつまずき、ファイルをぶちまけた。社員たちの笑いが広がり、小林は赤面してかき集める。


 ——これで少しは懲りるはず。


 だが夜、小林は笑いながら夢子のデスクに来た。


 「今日、変なことが立て続けに起きたんです。不思議って、やっぱり面白いですね」


 ——効いていない。むしろ好奇心を刺激しただけ。


 次の日。

 夢子はさらに操作した。「−0.5」。


 オフィスの蛍光灯が点滅し、小林の机のコーヒーがこぼれて書類を濡らした。彼は慌てて拭きながら、逆に目を輝かせて言った。


 「やっぱり僕、現象の中心にいるんですよ! 証拠が増えました!」


 夢子は絶句した。懲らしめるつもりが、彼の興奮を煽っている。


 「小林を……喜ばせてはいけないのに……!」


 夜。人事部でひとり、夢子は唇を噛みしめる。

 小さな不運では逆効果。大きく操作すれば、不幸や事故を招く可能性もある。


 「懲らしめる」とは、いったいどこまでを意味するのか。

 夢子の中で、「守りたい」という思いと、「止めなければ」という義務がせめぎ合う。


 窓ガラスに映る自分の顔は、知らない誰かのようだった。


 「小林……お願いだから、気づかないで」


 カーソルを小林の名前に合わせた時、心臓が跳ねる。


 「小林 MP:134」


 ——数字が揺らいで見えた。


 まるで、小林自身が自らMPを引き寄せ、深淵に触れようとしているかのように。


 「……ありえない……」夢子は息をのむ。

 台帳は彼女だけが操作できるはずだ。それなのに。


 翌朝。

 夢子がこんなに苦悩しているのに、小林はケロリとした顔で言った。


 「夢子さん、やっぱりあなたが鍵ですよね? 僕、確信しました」


 ——懲らしめるつもりが、逆に力を与えてしまった。

 夢子が触れたのは、単なる数字の端数。

 けれどその数字が人間の運命を弄ぶ仕組みを、小林は「夢子の力」と勘違いしている。

 真犯人は制度そのものだというのに。


 それでも、小林の視線は夢子ひとりに注がれていた。

 彼の確信が強まれば強まるほど、夢子自身が深淵へ引きずり込まれていくようで、

 背中に氷の刃が滑る感覚が走った。


 「小林……お願い、やめて……」


 その小さな声は、オフィスの喧騒にかき消されていった。


 懲らしめねばならない。

 けれど、もはや彼は自らの意思で深淵に触れようとしている。


 夢子の心は、破滅の予兆とともに、暗い渦に沈み込んでいった。

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