夢子ちゃんがいないのに
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
朝。
営業部長の高橋は、いつものようにオフィスのドアを開けると、真っ先に夢子のデスクへ視線を送った。
「……ふう、今日も有給か」
小さく漏れた溜息には、かすかな安堵が滲んでいる。
昨日の“あの不条理連鎖”が脳裏をよぎったのだ。紙が舞い、コピー機が唸り、受話器が謎のタイミングで鳴り響く。夢子がいないだけで、オフィスの空気は一気に静まり返っている。
(よし、今日は平和な一日だな……コーヒーも安心して飲めそうだ)
資料を抱え、軽く肩を回したその瞬間――。
背後の廊下の奥から、まるで空気の密度をひっそりと変えるように、ひとりの人影が現れた。
「……おはようございます、高橋部長」
低く、柔らかい声。
だが、部長の脳裏には即座に警鐘が鳴る。
(――この声……まさか……!)
ゆっくりと振り返ると、そこには不敵な笑みを浮かべた霧島陽子の姿があった。
スーツの袖を軽くまくり、まるで「今日も面白い一日になりそうですね」とでも言いたげな、余裕に満ちた顔。
(霧島さん……休んでたんじゃなかったのか……!?)
夢子の姿ではなかったので、安堵したが、次の瞬間奇妙な不安感に襲われる。
何気ない挨拶なのだが、謎に放たれたその一言に、部長の背中を冷たい汗がすうっと伝う。
これは、また始まる、予期せぬ“朝の乱舞”だ。
コピー機が、「今日も元気です!」とでも言うように紙を一枚、いや十枚ほど吐き出した。
しかも印刷ボタンを押していないのに、だ。
「お、おい……」
会議室の奥で、プロジェクターの電源が“自発的”にオンになり、勝手にテストパターンを映し出す。
部長が慌てて書類を掴むと、資料はスルリと手から滑り落ち、床でぺらぺらと風になびいた。
辺りを見ても夢子の姿はない。
「ちょ、ちょっと待てよ……これは、まさか……」
霧島はそんな部長の狼狽を背中で受け止めるように、PCのキーボードを優雅に叩き始める。
カチ、カチ、カチとシュールな音が、オフィスの静寂にいやに響いた。
(少しのMPで、こんなにも面白いことが起きるなんて……)
その口元は、ほんのりと悪戯っぽく歪んでいる。
部長はその瞬間、悟った。
(夢子がいなくても……霧島さんが……!)
カップを持ち上げると、なみなみと注がれたコーヒーの表面がゆらりと波打った。
「お、おい……まさかコーヒーまで……」
まるで誰かに息を吹きかけられたように、水面が二度三度と揺れ、部長の手は震える。
それを見た霧島は、小さく指先をくいっと動かした。
波紋はぴたりと止まる。
「やめろおおお……!」
午前中、部長の一日はシュールな連鎖の渦中で始まった。
椅子に腰を下ろせば、いつもより2センチ右にずれてガタリと鳴る。
ファイルを開けば、ページ番号がすべて逆順に入れ替わっている。
廊下を歩けば、なぜか電灯が一つずつ“点く”タイミングで部長の頭上だけピンポイントにまばたく。
社員たちはちらりと見て、ヒソヒソと囁く。
「……部長、また始まった」「今度は夢子さんいないのに……」
「……いや、あれ霧島さんが……」「ああ……“第二の夢子”ね」
(頼む……普通の午前中を返してくれ……!)
一番の惨事は、社内報告会の資料準備だった。
部長が紙を揃えると、なぜか一枚だけどこかへすり抜けていく。拾っても拾っても、なぜか綺麗に中央から抜け落ちる。
「な、なんで……なんで揃わないんだッ!」
社員が差し出したホチキスは、なぜか途中で針が詰まる。
霧島はその様子を、まるで猫が蝶を見つめるような顔で見守っていた。
そして、しれっとひとこと。
「……ほら、ちょっと楽しくなってきたでしょう?」
部長は、笑えなかった。
いや、笑ってはいけない空気が漂っていた。
昼。コーヒーは飲めず、資料はまとまらず、午前中の時間は霧のように過ぎ去った。
霧島は、ようやく操作を止め、椅子から立ち上がる。
「ふう……今日はこのくらいでいいかな」
部長はデスクに両手を突いて、肩で息をしていた。
「こ……これ……誰のせいだ……?」
その瞬間、電話が鳴る。
受話器を取る手が震える。今朝から続く不条理の連鎖を思い出すと、どんな“爆弾”が飛び出すか分からない。
「……高橋です」
「部長!あの――例の契約、先方が“ぜひ今日中に進めたい”と!」
営業部の若手の声が弾んでいる。
「さっき急に先方の担当さんのスケジュールがぽっかり空いたらしくて、むしろ向こうから前のめりで……!」
「えっ……?」
部長は一瞬、目を見開いた。
今朝、なぜか資料が絶妙にズレて印刷され、プロジェクターが勝手に再起動し、椅子が謎に噛みついてきたあの惨状の中――ただ一つ、今日だけは資料の日付が“偶然”ピタリと先方の希望スケジュールに合致していた。
霧島は、まるで猫が蝶を眺めるような顔で部長を見つめ、しれっとひとこと。
「……風向き、ちょっと変えただけです」
「お、おまえ……何をした……?」
「なにもしませんよ。そんなことしてていいんですか?急がないと契約逃しちゃいますよ。」
」
まるで悪戯の成功を自慢する子どものように、霧島はにっこり笑う。
部長の背中に、ぞわりと冷たいものが走った。
(……まさか、午前中のあの不条理は、すべて“風向き”を整えるための……!?)
電話口の若手が続ける。
「しかも向こう、今日中にサインしてくれるって!なんか焦っているみたいでした。部長、すぐ準備お願いします!」
霧島はほらと言わんばかりに微笑む。
ガチャリと電話が切れると、部長は机に崩れ落ちた。
「……契約……取れた……」
霧島は、ふふっと楽しそうに笑い、髪を耳にかける。
「だから言ったでしょう、部長。偶然って、案外よくできてるんですよ」
部長は、笑えなかった。
平和なはずの夢子の有給が――まさか、霧島による“第二の不条理”になるなんて、誰が想像しただろう。
そして、その背後でカチ、カチと静かに鳴る霧島のキーボード。
“偶然”は、まだ終わっていない。
カチ……カチ……カチ……。
小さな音が、不気味な予告のように響く。
霧島は部長を見もせず、資料を束ねながら軽く笑った。
「……こういう日って、あるんですよね。不思議ですね」
それだけだった。
しかし、部長にはその一言が“何か”の予告のように聞こえた。
部長は、ゆっくりとイスに沈み込み、遠い目をした。
(あのとき、交通費の精算ミスを怒鳴りつけた夢子にちゃんと謝っておくんだった……。霧島さんも怒らせないようにしよう……いや、もう誰も怒らせないようにしよう……)
午後の静かなオフィスに、どこからともなくコピー機の紙づまり音が響く。
“ガガガッ――”
その音が、高橋部長にとってのサイレンのように聞こえたのは、言うまでもない。




