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人事部の休職中の先輩

数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。

この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや感想をお寄せいただけると、作者にとって大きな励みとなります。

なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。

 人事部に配属されてしばらく経った頃、月影夢子は隣の席の存在にふと気づいた。以前、部長も一度だけ真剣な表情でこう言っていたのを思い出す。

 「……お前の隣の席、あれ、先輩の席だ」


 そこには使いかけのマグカップ、開きっぱなしの分厚い資料、そしてわずかに舞う埃があった。なのに、なぜか空気は静まり返り、長く人が座っていないにもかかわらず、妙に“人の気配”を残しているかのような匂いが漂っていた。


 「先輩は?」夢子が尋ねると、部長は一瞬言葉を詰まらせ、低く答えた。

 「霧島陽子……休養中だ。MPのせいでな」


 霧島陽子――夢子が配属されて以来、彼女の姿を見たことは一度もなかった。ただ、その痕跡だけが、まるで幽霊のように人事部に息づいていた。


ある晩、残業中の夢子に、部長がぽつりと霧島の話をしてくれた。

 「霧島は、誰よりも真面目な社員だった。PCのモニタとにらめっこして、数字ひとつひとつを確認するほどな」

 部長は少し笑った。だが、その笑みは冗談ではなかった。

 「数字が増えるたびに社長が笑う——霧島には、それが幻聴のように聞こえたんだ。社長の笑い声が、遠くから、常に、頭の中で反響するようになった」


 夢子は目を丸くする。部長の言葉は、社内の他部署からの噂では説明できない種類の恐怖を示していた。MP制度——普通の社員には見えない、しかし確かに作用する数字の増減。それが霧島を蝕んだ。


 「やがて目の下のクマは消えなくなった。笑い声に怯えて独り言を呟き、時には机に伏せて震えたこともあった」

 部長の声は低く、しかし穏やかで、夢子には事実を淡々と語るだけの口調だった。

 「そのまま耐え切れず、霧島は休養に入った。台帳の使用停止と朱書きのページだけを残してな」


「いいか、夢子。数字を見過ぎるな。笑い声が聞こえ始めたら、そこで終わりだ」


社長の笑い声――それは他部署の誰もが耳にしたことのない、奇妙な現象だった。数字が動くたび、社長が若返ったり皺を刻んだりするMP制度の作用を、霧島陽子の脳は文字通り“聴覚化”してしまったらしい。成功も失敗も、全てが遠くから、または頭の奥から微かに「笑い声」として漏れ聞こえてくる。


夢子はその話を聞きながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。霧島は几帳面で、数字が動くたびに何度も確認せずにはいられない性格だった。やがて、その日常は過剰な負荷となり、目の下に深いクマが刻まれ、肩は常にこわばっていた。社長室から漏れ聞こえる笑い声は、やがて彼女の幻聴となり、オフィスの静寂の中で繰り返し頭に響いたのだ。



 「数字が増えるたびに、笑い声が大きくなる……」部長はそう説明した。

 「最初は微かだった。コーヒーの泡が揺れるくらい。でも、MPが蓄積するごとに、笑いは幻となって彼女を包み込む。怖いだろう? 見えない力で、数字が人を蝕むんだ」


 夢子は椅子にもたれ、台帳に目を落とす。自分も以前は同じ恐怖を抱いていた。

責任を引き受けるたび、社長が若返り、知らぬ間に自分の寿命が少しずつ削られていく――胃が痛む感覚は、霧島のそれと同じだったのかもしれない。


 霧島は、幻聴と数字の連動を完全に意識するようになり、仕事中はほとんど顔を上げられなくなった。キーボードを打つ指先は震え、MPの数字が台帳で動くたび、頭の中で社長の笑いがリズムを刻む。

正確に打った一文字が、どれだけ社長の皺や若返りに反映されたのか、もう止められない。


 そしてある夜、深夜残業の夢子が目にしたのは、霧島の最後の姿だった。

台帳の前に座り、指先で数字を書き込む。画面には赤い数字が踊り、彼女の肩は小刻みに震えている。声にならない声でつぶやく。

 「……私の寿命が……社長の笑い皺になっていく……」


 翌朝、その席は空になった。机の上には半分だけ飲まれた冷めたコーヒー、台帳のページには大きく“使用停止”と朱書きされていた。もはや誰も、霧島陽子がオフィスにいたことを確認できる人はいない。ただ、存在の痕跡だけが静かに残っている。


 夢子はその空席に目を落とし、静かに笑った。

 「怖いのは、数字そのものじゃない。人が数字と向き合う心の弱さ……そして想像力」


 オフィスの照明は微かにチカチカし、コピー機は紙を吐き出し、書類は不自然に傾く。まるで霧島の残像が、今日も日常に潜んでいるかのようだ。


 夢子はキーボードに手を置き、軽く叩いた。

 部長室の照明がじわりと明るくなり、コーヒーカップが揺れる。だが一滴もこぼれない。MP制度の不条理な力を、夢子はもう恐れてはいなかった。むしろ、ちょっとした遊び場として楽しめるようになっていた。


 彼女は人事部の片隅で、静かに、しかし確実に笑みを浮かべる。

 知らない方が幸せ――でも知ってしまった者は、日常のあらゆる不条理を、少しだけ操作できる。


霧島陽子の姿は、夢子の目には今も見えない。だが、その“存在感”だけが、人事部に静かに残っている。

そしてオフィスには、今日もMPにまつわる小さな奇跡と不条理が、微かに漂っていた。

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