月影夢子、MP制度を楽しむようになる
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
田口が会社を去ってから、一週間。
オフィスは妙に広くなった気がした。いや、単に空席が一つ増えただけなのだが、そこに残された「責任の欠片」が空気を薄暗くしている。
自社の株価は微妙に低迷。株主たちは「なぜか白髪が増えた社長」の姿に不安を抱いたらしい。
受注もわずかに減った。営業部のメンバーは「田口の穴を埋めるのは楽勝だ」と強がっていたが、なかなか取り返せず――まるで、見えない糸で会社そのものを操っているかのように、MPの効力は容赦なく働いていた。
ただし、それを表立って責める者はいない。
社内に残された空気は、まるで「誰も触れてはいけない田口記念碑」のようなものだった。
彼が去った瞬間、確かに何かが崩れた。だが、それを声に出すと自分の椅子まで腐りそうで――皆、見て見ぬふりをしているのだ。
そんな状況を、人事部のデスクから月影夢子は冷静に観察していた。
そして彼女の視線は、静かに増えていく「MP台帳」の数字へと移る。
(……結局、減るのも増えるのも、この数字次第ってわけね)
夢子は苦笑し、そして――楽しげに息を吐いた。
人事部のデスクに腰を下ろし、月影夢子はじっと画面を見つめていた。
モニターの片隅に表示されたMP台帳の数値が、じわじわと増えていく。まるで静かに泡立つ炭酸水の気泡のように。
最初は、この数字が恐ろしくて仕方がなかった。
誰かが責任を引き受けるたびに、社長が若返る。そのたびに、自分の寿命が削れているような気がして――冗談ではなく、夜中に胃が焼けるように痛んだ。
だが、今は違う。
夢子はうっすらと笑みを浮かべる。
(責任を引き受ける→社長が若返る→なぜか日常にシュールな現象が起きる)
ふふ……簡単じゃない。むしろ、これは実験場。観察と操作の繰り返し。小学生が理科の自由研究に夢中になるようなものだ。
彼女が指先でキーボードを軽く叩く。
その瞬間、隣の会議室から「バチッ」と音が響いた。
蛍光灯が明滅し、プレゼン用のスクリーンに大きな“ERROR”の文字が一瞬だけ浮かんだ。
「……またですか?」
廊下から顔を出した小林が、呆れたように眉をひそめる。
夢子は首をかしげて微笑んだ。
「え? 何のことかしら?」
小林は視線をそらした。
コピー機が三回連続で紙詰まりを起こしていることには、もう触れない。
以前なら「夢子さん、呪われてます?」と冗談を飛ばしただろう。だが、今は違う。
小林はすでに知ってしまったのだ。
名前も仕組みも理解してはいない。ただ、“あの恐怖”だけは体験済み。
資料が勝手に風に舞ったように浮き上がり、会議中の課長の顔を覆った瞬間。
あの不可解な現象と、背筋を走る冷たい感覚。
それ以来、彼は悟った――これは触れてはいけないやつだ、と。
夢子はそんな小林の沈黙に、小さく笑みを浮かべる。
(そう、知らない方が幸せなこともあるのよ)
彼女は再び台帳に視線を落とし、数字の増減を追いながらキーボードを叩いた。
すると、部長室の照明がじわりと明るくなる。
机の上のコーヒーカップがふわりと揺れ、一滴もこぼさずに元の位置へ戻った。
「ふふっ……」
思わず漏れた笑い声を、夢子は慌てて咳払いで誤魔化す。
(やっぱり面白い。責任は確かに重いけれど、こうして操縦桿を握っているのは私なのよ)
ある時は、コピー用紙が必要な分だけ机に揃って現れる。
またある時は、クレーム処理の電話が不思議と穏やかに収束する。
そのたびに夢子は、日常の小さな“不条理な奇跡”を観察し、実験記録のように頭に書き留めていく。
最初は胃を痛めていたのに、今や彼女は笑っている。
“責任”が怖くなくなったわけではない。
ただ、その理屈が見えてきた。構造を把握すれば、これは恐怖ではなくツール。
ブラックボックスを開けてみれば、中身はただの歯車とレバーの組み合わせ――そう理解した瞬間、人は不思議と遊び始めるものなのだ。
夢子はMP台帳を静かに閉じ、深く息を吐いた。
「さあ、今日はどんな“おかしな奇跡”を見せてくれるのかしら」
人事部の一角で、ただひとり制度の全貌を知る彼女。
その笑みは、秘密と不条理を同時に抱えた者だけが持つ、奇妙な自信に満ちていた




