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田口の辞職と社長の白髪

数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。

この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。

もし気に入っていただけましたら、ブックマークや感想をお寄せいただけると、作者にとって大きな励みとなります。

なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。

 営業部のフロアは、妙に湿った空気に包まれていた。

 書類は湿気を吸ったようにふやけ、コピー機はガタンと呻き声を上げる。

 月影夢子はその光景を、どこか芝居でも見るような気持ちで眺めていた。


 ——田口の限界突破。もう、時間の問題だ。


 気の弱い鈴木くんは、ついに体調を崩した。

 午後の定例会議、彼は書類の束を抱えたまま、その場に崩れ落ちてしまったのだ。

 「す、鈴木!」

 営業部長・高橋の叫びが響く。

 その瞬間、蛍光灯がバチンと音を立て、鈴木の机の真上だけ闇が落ちた。


 オフィス全体が凍りつく。

 「ちょ、ちょっと大げさだろ? 鈴木は元気っすよ。な? なあ?」

 田口が必死に笑いながら声をかけるが、鈴木はかすかに呻くだけ。


 夢子はその場を冷静に見ていた。

 “これはもう、避けられない”

 MPの流れが明らかに逆流し始めている。

 田口に押しつけられ続けた鈴木の苦労が、まるで黒い澱のようにオフィスに滞留していた。


 皮肉なものだ。

 本来、MPは成果や成功に応じて積み上がるものだと、夢子は信じていた。

 だが実際には、責任とは成功だけに伴うものではない。

 失敗にも、体調不良にも、倒れる後輩にも、責任は必ず付随してくる。

 失敗の方が大きな責任を伴うこともある。

 

 田口が鈴木を追い込んだ瞬間、その「負のMP」は帳簿に記録された。

 請求先は、ほかでもない田口自身。

 黒い請求書のような澱が、静かに、しかし確実に田口の背中に貼り付いていく。


 「……あ、あれ……? オレ、悪くないだろ……」

 田口は誰にともなくつぶやくが、オフィスの空気は答えない。

 蛍光灯がチカリと光り、まるで冷笑するかのように田口の影をゆがめただけだった。


 数日後。臨時の人事査問会が開かれた。

 会議室の机は不自然にギシギシと揺れ、蛍光灯は点滅を繰り返す。

 壁際の観葉植物の葉がしなび、会議の進行役の声を吸い込んでしまうかのようだった。


 「田口くん、君に対して複数のパワハラの報告が上がっている」

 高橋部長の声は、冷たいが揺るぎない。


 田口は椅子にふんぞり返り、笑ってごまかそうとした。

 「いやいや、あれはね、全部“自主的に”やってくれたんすよ。僕は頼んだだけで……」


 夢子はPCの画面をそっと操作した。

 画面に映るのは「MP台帳」。

 指先が滑ると同時に、資料の束がふわりと舞い上がり、田口の顔の前を覆った。

 「わっ……!」

 不意を突かれたその顔には、隠しきれない狼狽が浮かぶ。


 鈴木は、その瞬間に勇気を得たように声を絞り出した。

 「……ち、違います! 僕はずっと無理をしてました! 自主的なんかじゃ……ありません!」


 会議室の空気が凍りついた。

 夢子は微かに笑う。

 ——これで、決定打。


 翌週、辞表が提出された。

 「田口一郎、辞職」

 その文字列は、どこか滑稽なほど軽やかに見えた。


 オフィスはざわめいた。

 「えっ、マジかよ……」

 「結局こうなるのか……」

 社員たちはひそひそとささやき合うが、その声はすぐに不自然な静けさに吸い込まれていった。


 辞職の知らせと同時に、夢子は思わず背筋を正した。

 ——田口が抜ける。ということは、彼の持っていた“MP”も消滅する。


 田口は決して優秀ではなかった。

 しかし、8年という年月を会社で過ごした事実は、それなりの「MP貢献」として蓄積されていた。

 それが抜け落ちれば、会社全体のバランスが揺らぐのは避けられない。


 その徴候はすぐに現れた。


 社長室の扉が開くと、そこに立っていたのは、少し疲れた顔の若社長。

 「……鏡、持ってきてくれ」

 秘書が慌てて鏡を差し出すと、そこに映ったのは、こめかみに白く浮かび上がる数本の白髪だった。


 「社長……!」

 周囲がざわめく。


 夢子は息をのむ。

 田口ひとり分のMPが消えただけで、若さの象徴である黒髪に亀裂が入ったのだ。

 これはただの人事問題ではない。会社の“生命維持装置”に直結している。


 社長は苦笑いを浮かべた。

 「……田口くんが辞めただけで、これとはな」

 その声は、どこか芝居めいていたが、隠せぬ焦りがにじんでいた。


 夢子は社長室を出ながら、廊下で深く息を吐いた。

 コピー機は意味もなく紙を吐き出し、蛍光灯は規則的にチカチカと点滅を繰り返す。

 「会社が老いる……椅子が腐る……」

 平岩部長の言葉がよみがえる。


 田口は去った。だが、それで終わりではない。

 むしろこれからが本番だ。

 “辞職ひとつで社長が白髪になる会社”——こんなブラックジョークのような現実が、彼女の目の前に広がっていた。


 夢子は机に戻ると、PCに向かって新しいファイルを開いた。

 「次なる観察記録」

 そう入力してから、彼女は微かに口元を緩める。


 ——不条理は、まだまだ続く。

 そして、それを笑うか呪うかは、私たち次第だ。

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