田口、限界突破のパワハラ道
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
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なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
オフィスの空気が、微妙に重くなっていた。
月影夢子は、人事部のデスクから営業部を見渡しながら、ため息をひとつ漏らす。
——やっぱり来たか。
田口は、ここ最近ますます仕事を後輩に押し付けるようになっていた。
いや、「押し付ける」というより、「流す」といったほうが正確だろう。
「悪いな、ちょっと頼んどいて」
「オレ、会議あるから。あ、それ、ついでにコピーもお願い」
「お前の方が若いからさ、動き早いだろ?」
軽い調子で投げかけられる言葉は、すべて仕事という名の小さな爆弾だった。
受け取った後輩の鈴木くんは、気が弱く、断ることなど到底できない。
結果、彼のデスクはいつも爆弾処理班の作業現場のようになっていた。
昼下がりのオフィス。
コピー機は今日も紙を吐き、書類の山は不自然に傾き、エアコンはなぜか冷気を一点にだけ集中させる。
そして、鈴木くんの頭上にだけ、冷たい風が流れ落ちる。
まるで社内の不条理そのものが、彼の疲労を際立たせるかのようだった。
「おい、鈴木、それ終わった?」
田口が腕を組み、椅子にふんぞり返る。
鈴木くんは顔を青白くしながら、コピー用紙を両手で抱えて走り回る。
「は、はいっ……! すぐ、すぐ終わります!」
その声はオフィスのざわめきに吸い込まれ、蛍光灯の不自然なちらつきにかき消される。
夢子は机の下で拳を握る。
“仕返しのはずが、これじゃただの地獄じゃないの”
そのとき、ふと脳裏によみがえったのは、かつて平岩部長が吐き捨てた言葉だった。
——「社長が老いるということは、会社が老いるということだ。
会社が老いるということは、我々全員の“椅子”が腐っていくということだ。
……つまり、社長に貢献しないやつは、全員の椅子を腐らせる“害虫”なんだよ」
当時はただの強権的な比喩だと思っていた。だが今、夢子は理解した。
椅子とは、単なる家具ではなく「存在そのもの」の象徴だったのだ。
社長の若さを支えることでしか、社員は自分の椅子を保てない。
逆にいえば、田口のように他人を消耗品扱いしながら生き延びる者は“腐敗の種”でしかなかったのだ。
夢子は背筋を震わせた。
田口の背後で、鈴木の椅子がギシリと音を立てる。
その音は、確かに“腐り始めた木材”の軋みのように響いていた。
営業部の空気も少しずつ変わってきていた。
同僚たちは最初こそ「あいつ(田口)らしいな」と笑っていたが、鈴木くんの顔色の変化に気づき始める。
いつの間にか痩せ、目の下には濃いクマ。
昼休みも満足に取れず、ただひたすらにコピー機と格闘している。
「なあ、最近の田口、やばくないか?」
「いや、あれ完全に押し付けだろ……」
「鈴木、もう限界っぽいぞ」
ざわめきが、営業部内にじわじわと広がる。
そして、そのざわめきは最終的に、部長・高橋の耳にも届いた。
高橋は、営業部の奥でコーヒーをすする手を止めた。
その目は、疲れていながらも妙に鋭い。
「……また、あいつか」
午後三時。
会議室に呼び出された田口と鈴木。
同席した夢子は、二人の対比に思わず言葉を失った。
田口はいつもの調子で軽やかに椅子に座り、スマホを弄っている。
一方の鈴木は、手に持った資料の角が小刻みに震えていた。
「田口」
高橋の声は低く、しかしよく通る。
「最近の仕事のやり方について、少し話を聞かせてもらおうか」
田口は笑顔で肩をすくめる。
「やっておいたから大丈夫っす」
その言葉に、高橋の額に青筋が浮かぶ。
「大丈夫、じゃないだろう。鈴木が倒れそうだぞ」
「え? いやいや、彼が自主的にやってるんですよ。僕はちょっとお願いしただけで……」
その瞬間、蛍光灯がパチンと弾け、会議室に不自然な影を落とした。
資料の紙が一枚、ふわりと宙を舞い、田口の頭上に落ちる。
まるで社内の“七不思議”そのものが、田口の言い訳を嘲笑っているかのようだった。
「自主的に? お願いしただけ?」
高橋の声は冷え切っている。
夢子は横目で鈴木を見る。彼の口元は震え、今にも言葉を吐き出しそうだ。
——だが、あと一歩が出ない。
夢子は机に置いたノートPCをそっと開いた。
人事部専用の「MP台帳アプリ」と呼ばれるシステム。
彼女はカーソルを動かし、「環境ノイズ調整」という謎のメニューをクリックする。
——パチ、パチ。
会議室の蛍光灯が不規則に点滅した。
「ん?」と誰かが眉をひそめる。
しかし、それは不快さよりも奇妙な間を生んだ。張り詰めた糸のような空気が、少しだけ緩む。
さらに夢子はもう一度キーを叩いた。
すると、机の上に積まれた資料の束がふわりと崩れ、偶然にも田口の顔の前に落ちて、口元を覆った。
——まるで“発言権を奪われたマスク”のように。
思わず夢子はクスクスと笑う。
場の緊張が、わずかにほぐれた。
鈴木はその“隙”を感じ取った。
胸の奥を締め付けていた恐怖が、ほんの少しだけ緩む。
蛍光灯の点滅と書類の落下……会社の不可思議な現象がまるで「言え」と背中を押すかのようだった。
夢子は内心で静かに頷いた。
“そう、MPは恐怖だけじゃない。シュールな現象で状況を動かす小さな助力にもなる”
彼女は日々の実験で学んでいた。蛍光灯の瞬きで緊張をほぐす、コピー機の唸りで沈黙を破る、紙の動きで勇気を与える。
人事の仕事は人を評価すること。でも、MPを使えば——人を導くこともできる。
そして、田口の顔を隠した資料の下から、鈴木の声が震えながらも強く響いた。
「……ち、違います。僕は……僕は、ずっと無理をしてました……!」
その告白に、会議室の空気が凍りつく。
鈴木の声は小さいが、確かな絶望を帯びていた。
夢子は、モニターに映る「心理誘導:成功」の文字を見て、淡々とPCを閉じた。
MPは、ただの恐怖の燃料ではない。
上手く使えば、人の心を押す小さな力になる。
田口は動揺を隠すように笑い、手を振る。
「いやいや、彼は気が弱いから……ちょっと大げさに言ってるだけで……」
しかし、その時。
背後のコピー機が突然唸りをあげ、大量の紙を吐き出した。
まるで証人のように、オフィスの七不思議が田口の言葉を否定している。
夢子は静かに目を閉じ思った。
“これは、もはやパワハラという言葉で片づけられる話じゃない。会社の不条理そのものだ”
高橋は椅子から身を乗り出し、田口に低い声で告げる。
「いい加減にしろ。お前のやっていることは……人を壊すぞ」
その一言に、田口の笑顔は凍りついた。
オフィスの空気は重く、しかしどこかコミカルに揺れていた。
蛍光灯はチカチカと明滅し、コーヒーカップは不自然に揺れ、コピー機はまた一枚、紙を吐き出した。
夢子は心の中で呟く。
「これが、この会社の“日常”なのね……不条理で、滑稽で、そして少し恐ろしい」
田口の限界突破は、後輩を押し潰し、部長の目にとまり、ついに社内全体を巻き込む事態へと発展していた。
そして、この騒動の先に待ち受けるのは、彼自身の“退場劇”なのかもしれない。




