田口の七不思議回避作戦の秘密
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
もし気に入っていただけましたら、ブックマークや感想をお寄せいただけると、作者にとって大きな励みとなります。
なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
あの日、田口はオフィスの片隅で震えていた。
コピー機の紙詰まり、コーヒーカップの微妙な揺れ、蛍光灯の不自然な明滅……。
社員が必死に働けば働くほど、何かが増えていく。
その正体は、当時の田口には理解できなかったが、会社の七不思議として呼ばれるものだった。
過去の同僚たちは、いつも通り真面目に働いていた。
田口ももちろん、鈴木さん、佐藤さん、そして部署全員。誰もが努力を惜しまなかった。
しかし、田口は目撃したのだ。
一生懸命働くほど、あの不可解な力が蓄積されたかのようになり、社長の若さに供給されるのを。
そして、噂ではその努力の果てに、ある社員は早く身体を壊し、若くして体調を崩してしまったという。
「なんて……恐ろしい世界だ」
田口は心の中で震え、決意した。
自分は絶対に巻き込まれない。自分の仕事を最小限にして、自然に流れないようにすればいい。
コピー機の前で手を止め、田口は振り返った。
「やっておいたから大丈夫……」
その口癖は、ただの軽口ではない。
社内に漂う「七不思議の恐怖」を、少しでも遠ざけるための——彼なりの魔法の呪文だった。
夢子の仕返し作戦に巻き込まれるより前から、田口はこうして日常を組み立てていた。
いつしか自分の手を動かすよりも、後輩に仕事を振る方がずっと安全だと気づいたのだ。
「そこ、紙が散らばってるぞ。拾っといて」
「コピー、あと二部追加な」
「会議室のセッティング、頼んだ」
小さな指示を出すたびに、背中にのしかかっていた不吉な気配がスッと和らぐ気がした。
コピー機の紙詰まりに直面すれば、なぜか寿命を削られるような錯覚を覚える。
だが、それを後輩にやらせれば——不思議と肩の重さが取れる。
まるで、自分が呪いから一歩遠ざかれたような感覚。
机に座りコーヒーをすするだけで、「ああ、俺は今日も無事だ」と安堵できる。
田口にとって、「やっておいたから大丈夫」という言葉は、責任を煙に巻くためではなく、恐怖をかわすため、かつ、有能さのアピールに繋がるおまじないでもあった。
会議資料のチェックも最低限、自分が触るのは数字の端数だけになっていった。
しかし、その端数すら、後輩の必死な働きと不条理な偶然によって、自然に社長に“貢献”してしまうのだ。
オフィスの隅で、田口はかつての先輩の写真を見つめる。
笑顔でコピー機を直す先輩、焦る後輩を優しく見守る先輩。
誰も悪意はなかった。だが、努力の重みは、知らぬ間に恐怖と犠牲を生んでいた。
田口は小さくため息をつく。
「……自分は、巻き込まれたくない」
その決意は、恐怖から逃れという“ずる賢さ”に昇華される。
それは単なる怠惰ではない。ブラックユーモアが日常に染み込む会社で、自分の生存戦略を立てたのだ。
廊下を歩くと、また書類が微妙に崩れる。
コピー機は紙を吐き出し、コーヒーはわずかに揺れる。
後輩たちは慌てふためき、汗だくになって働いている。
田口は少し笑みを浮かべる。
――この光景、滑稽で、そして少し恐ろしい。
「でも、これでいいんだ……」
田口は自分に言い聞かせる。
努力して早死にする人もいれば、ずる賢く生き延びる人もいる。
MP制度は知らなくても、社内の不条理は身に沁みるほど知っている。
その日、田口はまたコピー機の前で後輩に指示を出す。
「そっちの資料、ちょっと調整しておいて」
後輩は必死に対応するが、田口は涼しい顔。
MPは知らぬ間に増えていく――偶然でも必然でも、田口にとっては結果オーライだ。
夢子の目から見れば、これは皮肉そのもの。
“仕返し作戦”で少しは学ぶかと思いきや、田口のずる賢さは過去の恐怖体験によって磨かれていたのだ。
ブラックユーモアとシュールな日常が、今日もオフィスに静かに、しかし確実に漂っている。
田口のMP逃れは、過去の恐怖、現実の不条理、そして社内の偶然と努力の波に支えられている。
——社長の若さに直結する数字の裏で、ずる賢い生存戦略は密かに機能していた。
夢子は肩をすくめ、静かに呟く。
「……やっぱり、この会社はブラックユーモアの宝庫だわ」
オフィスの蛍光灯はちらつき、コピー機は紙を吐き、コーヒーは揺れる。
それは、社内の七不思議が今日も日常を支配している証。
田口はその渦中で、ずる賢くも、少しだけ生き延びている——




