俺は、強くなかった
久世大悟、38歳。月商900万を超える整骨院グループの代表。スタッフ育成やリピート導線、経営戦略まで仕組み化し、業界内では“成功者”と呼ばれていた。
だが彼には、どんな売上でも埋められない“穴”があった。
高校時代、夢見た柔道での全国大会出場。
あのとき、本気でやりきれなかったことが、心のどこかに、ずっと引っかかっていた。
久世大悟、38歳。
整骨院を3院経営している。
初めての院を開いたのは26歳。
それから12年かけて、今では月商700万前後。
患者数は安定し、スタッフも定着してきた。保険と自費をバランス良く回し、売上は「良くもなく、悪くもなく」、地域ではそれなりに名が通っている。
経営者としては、もう若くはない。
まだ“グループ化”とも呼べない規模だが、後輩に相談される立場にはなっていた。
「順調ですね」と言われれば、「まあ、なんとか」と返す。
それなりに積み重ねた年月と、失敗の数だけは誇れると思っていた。
――けれど、ふとした時に、どうしようもなく浮かぶものがある。
あの一本負け。
高校3年の夏。県大会準決勝。
残り15秒。リードしていた状況で、焦って仕掛けた技を返され、一本負け。
その瞬間、全国の夢も、あの3年間も、すべて畳の上に転がった。
あの試合で何かが折れた。それ以来、柔道を“思い出の中”に閉じ込めてしまった。
あれから20年。
自分は、柔道ではない「別の道」で生きてきた。
だが、どんなに患者に感謝されても、売上が伸びても――
あの時、“本当に強くなれなかった”自分を、ずっと許せずにいた。
そして、その日は突然訪れた。
昼休み、書類を見ながら、少し目を閉じた――
…それが最後の記憶だった。
次に目を開けたとき、俺は汗と埃のにおいに包まれていた。
ザワザワとした音。乾いた声。畳の上に寝ている感覚。
視界には、柔道着姿の少年たちが、夢中で乱取りしている姿が見えた。
「久世! 次、俺な!」
振り返ったその声の主に、見覚えがありすぎて、思わず言葉を失った。
それは、中学時代の親友――そして、のちに疎遠になってしまった“拓海”だった。
鏡の中にいたのは、13歳の俺だった。
「……マジかよ」
言葉にならない。
だが、本能が理解していた。
これは――人生のやり直しだ。
「よし、やってやる」
もう一度、柔道を。
あの悔しさを超えるために。
今度こそ、“本物の強さ”を手に入れるために。
俺は、13歳の柔道少年・久世大悟として――もう一度、畳に立つ。