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陽光

作者: 橿原岩麿

 唐招提寺の境内をぐるりと見て回って、そろそろ終盤であろうかと思われる一本道を歩いていた。一月一日であるというのに、人がまばらで空いている。それでいて、心地のよい日光が我々親戚一同を照らしている。


 何やらありがたそうな井戸を、暖かそうな茶色の厚手の上着を羽織っていた青年が見ていたので、我々もぞろぞろとそのあとに続くように見た。俗物が何かを感じ取れるような、見てわかるありがたいものではなかったので、親戚たちの子供世代はすぐに南大門の方、つまり、出口へ向かって歩き出してしまった。大人世代もちらっと見て、その後に続いた。


 歩いて右手側に、水の抜かれた枯草が積もっている池があった。夏ごろには蓮の咲く池だとパンフレットに書いてある。左手側にはきらきらと光る赤い小さな実をたくさんつけた万両が実っている。そんな道をぽかぽかとした朝日に照らされて歩いていると、安らかな気持ちになってくる。


 私の隣を歩いている妻はまっすぐに子供たちを見つめている。普段から口数の多い方ではないが、今日は特に静かだ。たまにぱちぱちと動く黒いまつげがねこのようでかわいらしい。私は妻の方を見つめているのだけれども、この人は私を見つめ返してこない。むすっとした顔をしているように見えるが、そうではない。この人は不思議な雰囲気を何十年も変わらずに保ち続けている。ずっと掴もうとして、追いかけているままだ。


 冬の装いに反して、この気温なので、ぼうっとしてくる。私の頭には昔のことがゆらゆらと浮かんでくる。夏の日に飛び込んだ増水して淀んだ川、教科書を詰め込んだロッカーからはみ出している2か月前に配られた保健便り、卒業式終わりの最後に友達と下校する分かれ道。思い返せば全てが愛おしい。脳を駆け巡る時間の流れが青年期へと時を進め、私は妻のことを思い出す。


 私が食洗器にすべてを任せきって、自分では大きな食べかすを三角コーナーにまとめる程度にしか皿洗いをしていなかったときに、妻は新人としてやってきて、初めての休憩を取っていた。大学一年生からこのアルバイトを始めていた私も古株になってきてしまい、どういう人間が(仲間内でいう言葉だが)当たりで外れか、というのがわかってきた頃であった。妻は誰から見てもかなり緊張している様子であった。それを隠して必死に接客しているが、どこの職場にもいる誰からも愛されていない人間に嫌味な言葉で評価されていた。完璧には程遠いその人格と仕事ぶりも鏡の中では無欠に見えているようで、何も知らない人間に自分で考えて動けと命令した後、近くの同僚に悪口を話していた。虫唾が走った。蛆虫を見たことはないがこんなものなのだと思った。


 食洗器と皿洗い場と事務所を兼ねた狭い休憩室は妻と私だけになった。妻は縮こまっていて、手のひらと同じ大きさのメモ帳を眺めている。後々にわかることだが、彼女は九州から大阪に出てきている。新生活の孤独を抱えながら新しく挑戦を始めるのは自分を追い込みすぎていたのではないか、と伝えたこともあった。そういうものだと思っていた、と彼女は簡潔に答えた。私には到底届かない立派な人間だ。


 私は彼女に悪い印象は持っていなかった。最初は何もわからないのだから余計なことをしない方が周りにとって好都合であるという考えを持っていることがみてわかる動きであったし、言葉の節々に優しい人間性が滲み出てきており、数か月後には何の問題もなく働き出すだろうということがすぐに分かった。


 しかし今は狭い休憩室の椅子の上に申し訳なさそうに座っている。私はいたたまれない気持ちになった。優しい魂には苦しい思いをして欲しくない。安らかな日々と穏やかな人々に囲まれて生きていって欲しい。不器用で、他人に迷惑をかけまいとするも、どうしても力及ばずの縮こまった背を見ていると、心が締め付けられるようだった。


 過去の自分を見ているようだった、と表現すると傲慢だろうか。歪んだ、もしくは、過剰な自己愛に聞こえるだろうか。昔の自分を救おうとして、苦痛に耐えるしかなかった昔の私自身を供養しようとして、彼女を見ていたのだろうか。私は私を救いにいこう、と当時日記に書いたことを思い出した。結局優しい人に抱かれるように支えられて救われていたことにも気づかずに。しかし、思い返せば、私が支えられていなかった時期などない。誰かを救いたい、力になりたいと思う一方で、力及ばすの自分のことを、私の人生は苦痛の風を受けて回る風車、というように詩的に表現して誤魔化した。自分の弱さを誰にも明かさずに、日記に隠して表現していた。


 私は今が勇気の出しどころだと、自分を鼓舞して、彼女にはその頃の自分が一番かけてほしかったであろう言葉をかけることにした。それが私達の始まりだったと思う。今では誰よりも堂々として、私が慰めの言葉をかけてもらっているばかりである。私としては情けない限りであるが、この人があの時のように苦い気持ちにならず、楽にしていられるのなら、それがいいと思っている。


 私は何者かになるという言葉が好きではなかった。功名の言い換えとしか思わなかった。若い頃はそんな言葉を日記に書いてきたが、そういう青い棘もだんだんと抜けてきた。人生も終盤に差し掛かり、墓と病の話題が同窓会をにぎやかすようになってきた。この蓮の池のように、我々も栄華を過ぎて枯草のようになった。しかし、この池は夏になれば、美しく咲くに違いない。こんな暖かな日光に照らされて、満開の蓮の咲いた池のそばを歩いていたら、気まぐれに、蜘蛛の糸をふわりと地獄に垂らしてしまうだろう。


 こののんびりとした繰り返しの日々もいつか終わってしまうのかと思うと残念な限りである。私が先に死んでしまいたいなと思う。私の胸に住む大切な人たちを一人として看取りたくない。そんなことを言えば、妻の目がきりっとしてしまうに違いない。私はそう思って隣の妻の頭を撫でた。怪訝な顔でちらと私の顔を見て、すぐ子供たちの方に視線を戻してしまった。私はこの人が好きだ。


 夫は仏様のような柔らかな笑みを浮かべて、妻にもたれかかるようにして、たまにぶつかりながら、南大門の方へゆらゆらと歩いて行った。お日様の陽を浴びて、水の抜けて枯れ草の積もった蓮の池は、朝露の輝きをしばし残して、花の季節を待っていた。

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