SF作品におけるアンドロイドやAIへの人権について
どうもこんにちは、『小説家になろう』やその他投稿サイトにて作品を投稿している清水薬子という者です。
先日、SNSやその他インターネットツールからアンドロイドやAIのキャラクターの死亡や破損を嘆く投稿を見かけまして、アンドロイドやAIを身近に感じる時代なのだなとしみじみ思います。
さて、ここから本題なのですが、アンドロイドやAIは果たして人間なのかというテーマは昔から取り上げられてきました。
例として作品を挙げることはしませんが、心当たりがある読者のみなさんも多いと思います。その中で、権利を主張する作品や自由のために戦う作品も増えてきました。
恐らく、SF作家の方はとっくにアンドロイドとAI、そして人間が共存・共栄していく作品を書いていると思います。
その方々の足元にも及ばないとは思いますが、このエッセイでは、ざっくばらんにアンドロイドとAIの権利を認めるにはどんな思想が必要なのかを私、清水薬子が勝手に妄想して書き殴ったものになります。
まず初めに、権利という概念について。
これは読んで字の如く利益を受けるに値すると認められていることになります。法律上、保護されて利益を受け取るべきだと認められている必要があるんですね。
そして、認められるためには基盤となる社会に対して貢献しているという大前提があります。国家を構成する単位[すなわち人に近ければ近いほど好ましい)であればさらに保護される順位があがります。
これは私の意見なのですが、法律の課題として民法で認められた権利が段階を経て刑法として認められるというケースが多いと思っています。外国の法律なんか知りませんが、憲法で保障される権利も民法や商法で論争が起き、世論に押される形で司法が認めるという流れがある気がするので、そういう流れでアンドロイドやAIの権利を認めていく感じにするとリアリティが増すのではないでしょうか。
例として、動物愛護法などが挙げられます。犬・猫などの家畜を破壊し、殺傷したところで刑法としては物と同じ価値しかないという考え方が主流でしたが、家庭を構成する単位として人々が認めて活動したことで動物愛護法が制定されました。まあ、背後にはその他にも思想が絡んでいるそうですが、そのことには触れません。
価値を見出すのは人間の性とも言いますし、アンドロイドやAIが人間との距離が近いほど権利を認める動きは強いものになると思います。
アンドロイドやAIの破壊を故意に実行することに関しては、殺人罪に近しい罪を新たに制定しておくといいかもしれません。
殺人罪に後段と呼ばれる追加の条文を書き加えるか、『◯◯級器物損壊罪』や『アンドロイド保護法』、『AIへの不正アクセス』があると更に面白いですね。
以上、このような与太話に長々とお付き合いいただきありがとうございました。