あいさつ
「覚えているのはここまでなんだよ。」
同僚はそう答えていた。つまり、朝からの記憶がないと。
最近こういった事件がそこら中で頻発していて、国からは『あいさつは名前を呼んで、丁寧に』なんて標語が出されたりなんかしている。
しかし、なんとも被害が起こっていない点がやりづらいんだろう。
病気なのか何なのかさっぱりわからないが、誰かに名前を呼ばれるまで本人の意思がなく夢遊病のように生活をしてしまうというのが共通している点だそうだ。
普通に生活しているゾンビみたいなものかと考えるとぞっとするが、実際その状態になった人というのはいつもより温和でいい人だったみたいな話もあるぐらいだ。
襲ってこないならまあ放っておいてもいいのかなとも思っていたりするのは自分だけだろうか。
「あれ俺、朝ごはん忘れたかな...」
「どうした?」
「いや、なんか腹がへるのはやいなって」
「お前いつも食べてたよな。科学的根拠があるんだとか言って笑」
「いいだろ別に、まあ意識がなかったんだししかたないか」
「たしかしな」
しかし、実際ここまで身近に対峙したとしても気付けなかったのは驚きが隠せない。朝からの彼の振る舞いには何も変わったところは感じられなかった。
「もしお前がなったらどうする?」
「俺にもちゃんと挨拶してくれよ」
「言われなくてもそうしてるけどな」
少し前に起きたコロナウイルスの時みたいに、マスクの次は名前入り挨拶が日常になっていた。
あのときのマスクはただ面倒だったが今回の場合は別だ。意識のなくなった人の最初の挨拶をしたとなればその人からは大いに感謝されるため、この取り組みは急速に広まっていった。
帰宅して目に入ったニュースの見出しはこうだ。
『ウイルス性感染症、記憶機能の低下、食欲の減退』
どうやらウイルスにかかると何かが引き金になって記憶機能が低下する病気だったらしい。ついでにお腹も空かなくなるらしい。
専門家曰く、注意すべき危険性は今の所見られていないとのことだった。
まだ事が起こってから1ヶ月程度だが、正体がわかってしまえば大して怖いものでもなくなってしまった。
しかし、その翌月辺りから事態は急転し餓死での死亡例が続出した。そういった人の多くは普段から人との会話が少なく、名前を呼ばれる機会がないまま食事を取れずに死んでいったそうだ。あのときの専門家は発言を撤回し、対策の難しさを語った。