あのお嬢様は、確かに性格が悪いがよ
彼女、セルビア・クリムソンはその屋敷に、一人娘のランポッド・グリースの三人目の家庭教師として招かれた。
前任の二人の家庭教師は、いずれも自分の教え子の性格の悪さについて行けず、辟易するようにして自ら職を辞していた。その経緯を聞かされていたセルビアは、どんな生意気な娘に教えなくてはいけないのかと思って対面し、その印象のギャップに多少面食らった。
眼鏡をかけていてとても地味で、そして話した感じでは大人しく、問題児には思えなかったからだ。
彼女はセルビアを上目遣いで見ると、何故か軽く頷いた。
なんだ?
と、セルビアは思う。
――どうして、こんな子を皆は嫌うのだろう?
たがしかし、しばらく接してみて、セルビアは彼女のその態度が“一周回った”ものなのではないかと考えるようになった。傲慢な態度で何かしら失敗をし、初対面の自分に対しては、そのような慎重な対応をしているのではないか、と。
……自分は名家の出だから、他の者達よりも優れている。
……自分の頭は良い。
……だから、優遇されて当然だ。
明確に口に出したわけではなかったが、言葉や態度の端々から、ランポッドがそのような考えを持っている事が感じ取れたのだ。そんな考えを持って他人に接すれば、疎まれて当然だ。それで、何かしら傷つく体験をしたならば、初めて会う他人に対して警戒するというのは頷ける。
案の定、彼女が優しく接し、少し慣れ始めると、ランポッドは横柄な上から目線の口調で話すようになった。
――やれやれ、
と、それでセルビアは思う。
これは色々と教えてやらなくてはいけない事が多そうだ。
この子は、資産を持っている上に家柄も良い家庭に生まれた。その所為で高慢な性格になってしまっているのだ。
彼女はそう判断した。
ただし、それでもセルビアには腑に落ちない点があった。
ランポッド・グリースは、どうやら本来は内向的で控えめな性格をしているようだ。生まれ育った環境によって、性格を歪まされてしまったとしても、これほどの高慢な性格になるものだろうか?
「……お嬢様、あなたは頭が良い。それならば、気付いているのでしょう? あなたが威張ったり馬鹿にしたりすれば、他人は嫌な気持ちになるのです。
そして、嫌な気持ちになったのなら、その相手はお嬢様をお嫌いになるのですよ」
まずは、この娘に分からせてやらなくてはならない。
そう考えたセルビアは、“自分は何でも言う事を聞く他の使用人とは違うのだ”と教えることにした。
そのセルビアの言葉にランポッドは頷いた。「それくらい分かっているわ」とそう返す。
「ならば、」とそれにセルビアは言った。
「取り敢えず、私で練習をしなさい。私はあなたの教師です。教師には敬意をもって接しなくてはなりません。
その当たり前の事ができるように訓練をするのです」
ところがそう続けたセルビアに対し、明らかにランポッドは不服そうな表情を見せた。
「何故、そのような事をしなくてはらないの?」
セルビアは「ふん」と軽く見下したような視線をそんな彼女に送る。
「感情のコントロール能力というのは、重要な人間のスキルです。あなたにはそれが欠けているから、身に付けさせてあげようと言っているのですよ、ランポッドお嬢様」
そのセルビアの断固とした態度と言葉に、ランポッドは驚いたような顔を見せた。ただ、それは決して拒絶反応ではなかった。
――人間は相手の態度によって自分の役割を変えるものだ。
相手が自分をリーダーとして扱えば、リーダーとして振舞う。下僕として扱うのなら下僕として。もし、その与えられた役割を許容できなければ、人間関係は破綻してしまう。
もちろん、相手側にだけ主導権があるのではなく、自分も相手に働きかけられる。その相互作用で自分の立ち位置を決めていくというのが自然だろう。
が、ランポッドはまだ幼い子供だ。主導権を握れるほどの主体性はない。そして、その主体性のない彼女の周りには、彼女を“偉い存在”として特別扱いするような大人しかいなかった。
つまり、“偉い存在”という彼女の役割は、彼女が望んだものであるとは言い難かったのだ。
しかも、ランポッドは頭の良い子供だ。周りの大人達が本心では自分を快く思っていない事に無自覚ながら気付いていた。
――誰も自分に本心を見せてはいない。
その感覚……、 正体不明の言い知れぬ孤独は、幼い彼女にとって耐えがたい苦痛であったのかもしれない。
「――分かったわ」
ランポッドは気付くと自然とセルビアの言葉にそう返していた。どうしてなのか彼女自身よく分かっていなかったが、それは実に単純な事だった。
セルビア・クリムソンは彼女を子供として扱う唯一の大人だったのだ。そしてそこには嘘偽りはなかった。
ランポッドにとってセルビアは厳しい大人だった。我儘放題に育って来たランポッドには、その彼女の教育は信じられないような内容だった。
ランポッドは数学や理科などの分野が得意だったのだが、彼女はそれ以外の分野の教育も厳しく身に付けさせた。
「何も100点を取れと言っているのではないのよ、ランポッド。平均点くらいは取りなさいと言っているの」
セルビアはそのようにランポッドに言った。
「あなたが将来、どんな職業に就くつもりでいるのかは分かりません。私はそれをどうこう言うつもりはないし、はっきり言ってしまえば興味もない。
どんな仕事をしようが、それであながた仕合せなら、それでいい。
――でもね、ランポッド。偏った能力や知識しか身に付けていなかったら、社会に出て巧くやれる可能性はとてつもなく低いわ。例え、大金持ちでもね。だから、最低限の能力くらいは身に付けておくのよ」
そのように言って、彼女はランポッドに不得意な分野…… 社会や国語といった分野の勉強も強制したのだ。
しかも、その彼女の“教育”は、勉学のみに限らなかった。あまりコミュニケーションが得意とは言えないランポッドに、彼女は人との付き合い方も教えたのだ。
彼女はランポッドに同世代の人間に横柄に接する事を禁止し、むしろ相手を立てるようにしろと命じた。
不器用なランポッドにそれは難しく、だからこそセルビアに反発をするような場面も多々あった。だがそれでも、セルビアから偶に褒められるとランポッドは心の底から喜んだ。
そして、そんな彼女の教育を通して、あまり豊かとは言えなかったランポッドの感情表現はとても豊かになっていったのだった。
それは“社会不適合者”になりかけていたランポッド・グリースが、真っ当に育ち始めたという事でもあった。
「――セルビア・クリムソンさん。
あなたは大変に優秀な家庭教師のようですわね」
ある日、セルビアはメイド長のアニー・カイリに呼び出しを受けるとそう言われた。褒められている訳だが、セルビアは眉一つ動かさない。「はぁ、ありがとうございます」と淡白にそう返す。
「実はあなたのその実力を聞いた奥様のお知り合いが、是非、あなたを頼りたいとおっしゃっているのです。子供を甘やかし過ぎてしまったらしく、あなたに家庭教師になってもらって厳しく躾けて欲しいのだとか。
給金は今よりも多くなるでしょう。どうですか? やってみては?」
それにセルビアは無反応だった。しかし、心の中では違和感を覚えていた。ランポッドの状態は確かに随分と良くなった。しかし、相手は子供だ。まだまだ不安定。自分がいなくなればどうなってしまうか分からない。否、ここで自分がいなくなれば、“裏切られた”または“見捨てられた”と感じ、大きく状態を崩してしまうかもしれない。
――この女はそれを分かっているのか?
セルビアは観察するようにそのメイド長を眺めた。
それにまだ疑問があった。ランポッドの両親はこの件を知っているのだろうか?
「直ぐには決められません。
それにそうなるとランポッドお嬢様の家庭教師を辞めるという事になります。奥様と旦那様の意見も聞いてみませんと」
だから、探りを入れるようなつもりでセルビアはそう言ってみた。すると、メイド長は不敵にも思える笑みを浮かべてこう応える。
「それなら心配はいりません。奥様達は、ランポッドお嬢様のことは私に一任されていますから」
それに初めてセルビアは大きく反応する。「へぇ」と小声で言った。メイド長に聞かれたかと思ったが、そんな素振りはない。
「そうですか。しかし、“お嬢様ご本人”にも意見を聞いてみたいので、やはり時間をいただければ、と思います」
セルビアはそう返すと一礼して、メイド長の執務室を出て行った。
……どうにもおかしい。メイド長の態度や口振り。
――あの女は何か変だ。
それは漠然とした印象に過ぎなかったのだが、それでもセルビアはほぼ確信していた。
メイド長のアニー・カイリは悪意を持っている。ランポッド・グリースか。この家の奥方か。それとも、この家そのものか。
「――ああ、メイド長のアニーさんは、奥様とご学友だったのよ」
怪しいと踏んだセルビアが、何か知らないかと比較的長く勤めているメイドの一人に話してみると、あっさりとそう教えてくれた。
「つまり、同じ学校に通っていたってこと?」
「そう。奥様もアニーさんも平民の出だけど、学校の成績が優秀だったから、旦那様が通っていた名門学校に通うことができたの。そして、そこで二人はライバル同士だったってワケ。成績では二人とも甲乙つけがたしって感じだったみたいだけど、恋の勝負では奥様が勝ったのよ」
そこまでを聞いてセルビアは疑問を覚えた。
「その奥様とライバル関係にあったアニーさんが、どうしてここでメイド長なんてやっているのよ?」
それでそう尋ねてみた。すると、メイドは無垢な顔でこんな事を言う。
「多分、それはライバル関係の中に芽生えた友情みたいなものだと思うわ」
「友情?」
「そう。奥様もアニーさんも経済的に恵まれてはいなかった。しかも、女性でしょう? 成績優秀で名門に入れたとは言っても、良い就職先を見つけられるとは限らない。
つまり、まぁ、卑近な言い方をしちゃえば、男を捕まえられなくちゃどうにもならない立場だってってワケよ。そして、アニーさんはそれには成功しなかった……
だから奥様がアニーさんに助け舟を出したのよ、きっと。自分の家で雇って厚遇したのね。まぁ、言っちゃえばコネを使って就職先を手に入れたみたいなもんよ。
もっとも、アニーさんは優秀な方だし、少なくともこの家じゃそれに不満がある人はいないだろうけど」
その説明にセルビアは変な表情を見せる。
人生の勝者と言っても過言ではない、かつてのライバルの家で、いくら“メイド長”という立場であるとはいえ、雇われて働く。
普通に考えて、プライドの高い人間ならば堪え切れるシチュエーションのようには思えない。
そして、セルビアの印象では、アニーはプライドが極めて高そうだった……
「幼い頃のランポッドお嬢様の面倒を見ていたのは、もしかして、アニーさんだったのかしら?」
そう彼女が質問すると、メイドはキョトンとした顔でこう答えた。まるで“それがどうかしたの?”といったような感じで。
「え? ああ、そうよ。教育方針には賛否あったみたいだけど、算数とか理科の成績は物凄く良いし、それに何より、お嬢様本人がアニーさんに懐いているから、責任を問われたりはしていないみたい」
セルビアはそれを聞き終えると、もう大体の事情を察していた。
……随分と陰険な復讐をするものね。
恐らく、メイド長のアニーは、この家の奥方にプライドを傷つけられたと思い、仕返しをしようとしているのだろう。娘を社会不適合者に育てるという方法で。
或いは、奥方は本当に善意でアニーに自分の屋敷の仕事を紹介したのかもしれないが、そんな事は彼女には関係ないのかもしれない。
実にくだらない。
それで彼女は大いに呆れた訳だが、ただそれだけだった。嫌な印象を抱きはしたが、それで何かしら心が動かされるようなことはなかった。はっきり言ってしまえば、できるなら関わりたくないと思い、アニーの“他の家での家庭教師”の誘いを受けて、この家を出て行こうかとすら考えた。
もっとも、それによりランポッドへの印象が多少変わりはしたのだが。
“思った以上に不憫な子ね”
そのように彼女は思っていた。
それで、その次の勉強の時間、彼女はほんの戯れの思い付きで、ランポッドにこのような質問をしてみたのだった。
「ランポッド。あなたは、メイド長のアニーさんをどう思っている?」
すると、ランポッドは珍しく微笑みを浮かべてこう応えるのだった。
「アニーは、お母さんの代わりなの……」
それにセルビアは固まる。
「お母さんの代わりって……、あなたの本当のお母さん、奥様は何をやっているの?」
「お母さんは…… 」と、言った後でランポッドは目を伏せた。
「あたしにはあまり興味がないみたいだから。お父さんも……」
それを聞いた瞬間、セルビアの中で何かに火が灯った。
この子は両親から相手にされない孤独を癒す為に、アニーに依存した。ところが、そのアニーには親代わりになろうなどというつもりは毛頭なく、その依存を利用して、自分を頼って来ている子供を社会不適合者に育てようとしている……
何の罪もない子供を犠牲にして、復讐をしようとしている。
ハハハ……
何かが、何かが物凄く気に入らなかった。
「――実は残念なお知らせがあるのです。財政上の都合で、あなたに今まで通りのお給料を支払うことができなくなってしまって」
ある日、アニーから呼び出されると、セルビアはそのように告げられた。
「ふーん」と彼女は小さな声で言う。それが嫌がらせである事は明らかだった。この女は自分をこの屋敷から追い出すつもりでいるのだ。
“そうまでして、あの子をダメ人間にしたいのか?”
むかつく。
彼女は口を開いた。
「私はランポッドの家庭教師ですから……」
そう言いながら、セルビアは自然と自分の目つきが徐々にきつくなっていくのを自覚していた。
「……色々と、彼女から話を聞き出せる立場にいるのですよ、アニー・カイリさん」
不敵な笑みを相手に向ける。
雰囲気が違うと察したのか、アニーは微妙に片眉を上げて警戒を示した。
「何が言いたいのかしら?」
「あなたが何をあの子にやって来たのか、それを全て知っていると言っているのです。当然、証拠も押さえてあるわ」
これはハッタリだった。ランポッドの証言くらいしか証拠はない。更に言うのなら、セルビアは勝算があると思っていた訳でもなかった。ただ、感情のままに動いているだけだ。しかし、それでもアニーの表情を見る限り、その言葉は“効いている”ように思えた。
セルビアは自然と口を開く。
「あなたと奥様の間に何があったかなんて知らないし、はっきり言ってしまえば、どーでもいいわ。どうぞ、ご勝手に復讐でもなんでもしてちょうだい。
でもね、あの子は奥様じゃないわ。何の罪もない不器用で無抵抗なただの子供よ。復讐する相手が、全然、まったく間違っている」
それを聞いたアニーの表情は強張っていた。或いは、彼女自身、無自覚に罪の意識を感じていたのかもしれない。
「あのお嬢様は、確かに性格が悪いがよ。お前は、あの子に一体何をやった? 何も知らないあの子に何を教えた?
親が恋しくて堪らなかったあの子は、必死にお前の教えを守って、なんとか気を引こうとしているんだよ!」
セルビアは目を剥いて、アニーを睨め付ける。アニーはそれに何も返さない。それから深く息を吐き出すと彼女は言った。
「お嬢様の家庭教師は続けます。少なくとも、もう大丈夫と私が判断できるようになるまではね」
そう言い残すと、セルビアはメイド長の執務室を出て行った。
アニーはそれに何も返さなかった。
「……ランポッド。だから、家柄が低くても相手を見下すような態度を執っては駄目。平等思想を教えたでしょう?」
そうセルビアが諭す。
どこまでそれを理解しているのか、ランポッドはやや反抗的な目で彼女を見返した。しかし、その瞳の奥に“自分を叱ってくれている”セルビアに甘えているような子供らしい色があるのは隠し切れてはいなかった。
そして、明確には自覚していなかったが、セルビアの方もどうやらそんなランポッドに対し愛情を覚えているようだった。それが同情から生まれたものなのか、それとも家庭教師として指導するうちに自然に芽生えたものなのかは分からないが。
「最悪、本心では相手を馬鹿にしていても良いのよ、ランポッド。そういう態度を見せない事で、あなたの社会的立場が悪くならないようにするのが第一なのだから」
……もっとも、彼女の教育方針にも、何かしら問題がありそうではあったのだが。