貧弱勇者のG退治
ごく普通の秋の、金曜日の昼下がり。ごく普通の中学生である俺は、自宅の玄関で立ち往生する羽目になっていた。理由は目の前に立ちはだかる黒い魔物である。
……よりによって、こいつが。帰宅して最初に「おかえり」と顔を合わせてくれるのが母親ではなく、この黒い魔物だなんて。
「おのれゴキブリ……!」
そう呟くも、おぞましいその体を直視出来ない俺は、じりじりと後ずさる。魔物は特に何を言うでもなく、こちらを挑発するようにカサカサと動き回る。
どこかにいなくなってくれれば――と思うも、ここで仕留めなければ、後々どこにいるか分からない恐怖に押し潰される。しかし、この俺は立ち向かう勇気など持ち合わせていない。武器もない。武器を持たずして魔王に立ち向かうなど、歴戦の勇者だとしても不可能なものだ。
いつもは父親が戦っていたが、生憎最近父親は忙しく、朝早くに急いで出ては、夜遅くに疲れて帰ってくる。新聞を読む暇もなければ、ゴキブリ退治をする暇もない。
……と、どうすることもできず悶々としている俺の元に、二階から母親がやってきた。
「あら、帰ってたの。おかえりー」
「か、母さん! たっ……たっただいま……」
「……どうしたの?」
明らかに普通ではない俺の様子を見て訝しげにこちらを見る母親。どうやら足元の魔物には気付いていないようである。
「それ……足元」
「……足元?」
俺の言葉につられ足元を見る母親。直後に悲鳴が響き渡った。母親は悲鳴をあげながらリビングに逃げていった。それなのにゴキブリは何の反応も示さず、俺を通すまいと玄関に佇んでいる。
「……どうしよう」
一度家を出てみよう……と扉を開けた瞬間、俺の頭によぎる課題の束。俺はテスト前でたくさんの宿題が出ていることを失念していた。
ここでこいつを殺らねば、徹夜で課題コースだ。一度こいつを潰したら、暖かい家の中に入って、快適に勉強が出来るのだ。
「うぅ……でも……」
人類の敵であるこの黒い奴に立ち向かう勇気が俺には出なかった。男なのに情けない話ではあるが、虫だけは駄目なのだ。
「こいつさえいなければ……!」
呟きながら、近くにあった新聞を手に取る。気色の悪い黒い物体を前にして、手を震わせながら新聞を構える。
――勇者になれ、俺……!
心の中でそう呟く。直接見ることはせず、あてずっぽうで新聞を振り下ろした。
バシィン!
俺の恨みを具現化したような音が響きわたった。俺は手元の新聞紙の先を見る。黒い奴はいない。
「やったか!?」
……と、呟いた瞬間、靴箱の陰からカサカサと舞い出てくる黒い影。それは俺を嘲笑っているように見えた。
「クソッ! クソッ! 死にやがれクソッ!」
頭に来た俺は、目で追いながらゴキブリを叩かんとする。奴は新聞紙の鉄槌をものともせず避けていく。なんなんだ、この華麗な身のこなしは……そう思いながら、玄関の角に追い詰められたゴキブリに、力一杯新聞紙を叩きつける。
グシャ――なんて音はしなかったが、俺の一撃は奴にしっかりと入った。
「……今度こそ!」
そう言いながら、新聞紙をどける。俺は直視出来ずに目を細くして確認する。潰れた魔物がそこにはいた――いや、あった。俺はそれから目を逸らして、一息ついた。
「……やった……俺はやった……」
魔王を倒した勇者のような気分になりながら、ふとあることが気になった俺は手元の新聞紙を注視した。
「これ、まさか今日の新聞じゃ……」
忙しい父親は新聞を読んでいない。今日の新聞だった場合、休日は長い説教を食らうことだろう。そんなことになったら……。迫りくる恐怖に気圧されながら、俺は日付欄を見る。
「今日のだ! クソッ!」
……帰宅するなり魔物に襲われ、山のような課題をこなした後には父親の説教。この週末はとうなってしまうのだ――
「まあ、不注意な俺が悪いんだけど……」
滲み出てくる『トホホ』の気持ちを抑え、俺は家に上がって宿題を始めるのであった。