Ep,9 不器用な優しさ
柊に事務所から連れ出されたのが夕方で、それから数時間後。事務所を出て数原家に向かう途中、冷静になった柊が「ごめん、公園寄っていい?」と頼りない声で言うので、俺たちは数原家でも宇月家でもなく、真っ暗な公園のブランコに座っていた。時計がないから正確な時間はわからないけど、もうかれこれ数時間はずっとこうしていると思う。きぃーこ、きぃーこと錆びた鉄の音が闇を切り裂く。青白い街灯に目を向けると、小さな虫たちがたかっていた。
少し地面を蹴ってみると、ブランコが揺れる。もう少し強く蹴る。心地よい夜風が向かい風となって頬を撫でた。景色が前へ、後ろへ移動する。何回かそうして遊んでから、地面に靴底を擦り合わせて減速した。
もう、苦悩も不安も過去の傷も全部、この夜空に溶かしてしまいたい。冷たい風で冷静になったはずの頭で、馬鹿馬鹿しいことを考えた。
「......ごめんね」
柊の口からこぼれた言葉は、どうも弱々しかった。どんな表情でそんなことを言っているんだろう。俯き加減でよく見えない表情を覗き込もうとすると、柊は何の前触れもなくブランコを漕ぎ出した。じゃりっ、と勢いよく蹴られた地面が音を立てる。その背を追いかけようとして、俺も地面を蹴った。空中で足を曲げて伸ばして、ぐんぐん柊は上がっていく。真似して足を曲げ伸ばししてみるも、揺れるリズムがずれているので追いつけない。俺は諦めて足の力を抜いた。最高点にブランコが達するたび、ふわっとした浮遊感に襲われる。
こんなことしてる場合じゃないのに、と俺の理性は言う。しかし正直なところ、ずっとこうしているのも悪くはないなと思い始めているのもまた、事実だった。
柊は漕ぎながら再び口を開く。
「......あれはよくないよね。孤児院の話は確かに気にくわないけど、それでもあんな風に八つ当たりみたいに怒ったのは、よくなかった。めちゃくちゃ空気悪くしちゃったし。来栖サンにも悪いことしちゃったなぁ......うん、まぁあの人に謝る気は無いんだけどさ」
最後にぼそっとつぶやいたのを、もちろん俺は見逃さなかった。頼りない声音の割には強情である。どうやら、二人の間にある壁は思いのほか分厚いようだった。
その壁をさらに上からセメントで塗り固めたのも、俺なんだろうけど。
「私の悪いくせなんだよね」
そう言ってやっと柊は俺と目を合わせた。こちらを向いた状態のまま、柊が降下していく。ミルクティーのような色のショートヘアが、風に持ち上げられて浮いた。
「昔っからこうなの。どうも感情的になると周りが見えなくなっちゃって......数時間くらいほっといてくれたら、こうして我に返るんだけどね。で、後悔する。何であんなこと言っちゃったんだろうって。何であの時ちゃんと考えて動けなかったんだろうって。多分もうほとんど意地みたいなもんなんだと思うよ。一回そう言っちゃったから、途中で取り消せないって言うか。そうしてたらどんどん悪い方向に暴走していって、それが本当はわかってるんだけど止められなくて。どうしようもないっていうのはただの言い訳にしかならないからなぁ......全部、私の責任」
そうして今度は、頼りなく笑っておどけるように言う。「ね、ダメダメでしょ?」音が前に後ろに移動していて、変な感じだ。
そんなことないよ、と言ってやりたかった。結果的に喧嘩みたいになっただけで、柊はちゃんと俺のために怒ってくれたんだろ。本当はあの時、ちょっとだけ嬉しかったよ。そう言ってやりたかった。そう言えば柊の表情が綻ぶであろうこともわかっていた。でも、言えなかった。喉元で言葉が引っかかって、うまく出てきてくれなかった。
だから代わりに俺は、別の質問を投げかけた。
「......柊はさ。なんで初対面の俺にそこまでしてくれるんだ?」
「七瀬でいいよ」
うーん、理由ねぇ。そう続けて柊は悩むようなそぶりをする。きーこ、きぃーことブランコが俺の横で何度か往復したあと、唐突に「復讐?」という声が飛んできた。
物騒な響きだった。思わず聞き返す。
「復讐?」
「うん、それが一番近いかな......うん。復讐。罪のない人間を陥れた悪人への、復讐」
やっぱり物騒な響きだ。
「......依頼されただけなのに、そんなに敵視するのか?」
「依頼されただけっていうか......まず私にとっては依頼とか請け負うだとか、そういうこと自体はあんまり重要じゃないんだよね。自分と同じように困ってる人を助けたいだけ。理由なく傷つけられた人がいるっていうのはむかつくから、復習してやる。それだけ」
「自分と同じようにってことは、ひいら......」
なんとなく苗字で呼び続けたらうるさそうなので言い直す。
「......七瀬も酷い目にあったってこと?」
言いながら、被害者じみた言い方だっただろうか、とふいに思った。さっきの激昂の様子からして、もしかしたら七瀬はこういう敗者や被害者みたいな言い方を嫌うのかもしれない。気分を害してしまったんじゃないかと、少し不安になった。
しかし七瀬は構わず続ける。
「うん、まぁ......半分は自業自得みたいなもんなんだけどね。なんか私の態度? がちょっと気に入らなかったらしくて、入ってたアイドルグループから追い出されちゃったんだ」
あっけらかんとした口調だった。でも、その軽々しさを素直に受け止められる俺ではない。何か裏があるんじゃないか、やっぱりどこかに後悔は残ったままなんじゃないかと求められてもいない心配をしてしまう。というかむしろ、軽々と言ってのけることによって自分の悲しみを隠しているんじゃないかとまで思った。以前と比べて随分とまぁ、心を開いてしまったものである。最初はそう、初対面で手錠をかけてくるとてつもなく変な奴だと思っていたのに——
「あ、そうだ。誤解させちゃってたら嫌だから言うけど私、別に勇吾くんが『依頼人っぽい』からって理由だけで手錠かけたんじゃないんだよ」
七瀬は急にそう言った。一瞬、自分の考えが見透かされているのかと思った。それと同時に、七瀬が手錠の件について覚えていることにも大いに驚いた。いや、確かについ最近のことではあるんだけど、そういうぶっ飛んだ行動は本人の記憶からすっぽり抜け落ちているものだと思っていたから、なんというか、とても意外なことのように思えた。
そしてブランコ一往復分きっちり驚いてから俺は、頭上にはてなマークを浮かべる。
「じゃあ、他にどんな理由があるんだよ」
ざざざっ、と砂の音と同時に七瀬が止まる。それに合わせて俺も止まった。なんだか急に真剣な空気になったようで、変に緊張してしまう。沈黙が重い。
七瀬は夜空を見上げてこう言った。
「泣きそうな顔、してたんだよ」
視界いっぱいに広がる闇に点々と光る星。公園の周りにはぽつりと蛍光灯が一本立っているだけなので、散りばめられた光のかけらたちがよく見える。でも、ここだって一応都会のはずなのにこんなので大丈夫なのかと少し心配にもなった。
「放っといたら壊れちゃいそうな、今にも崩れ落ちそうな、意地と正義だけでようやく立ってるような、そんな顔してたんだよ」
七瀬はそう言ってふと、悲しそうな顔をする。
「ダメだよ......そんなの。勇吾くんはまだ、子供なんだから。辛いことばっかり詰め込んでたら、いつか本当に壊れちゃうよ。家族に囲まれて、あったかいご飯を食べて笑い合えるのが普通なんだよ。そんなの本来、子供が望むまでもないことのはずなんだよ。私もこんなこと言える歳じゃないけどさ、それでも、こんな世界は、ダメだよ。このままじゃ、ダメなんだよ」