Ep,8 負者の正義論
同日同所。机の上に置かれた銀色のノートパソコンを覗き込む俺たちの周りには、緊迫した空気が漂っていた。画面に浮かぶのは右向きの三角マーク、つまり、動画が途中で止められていることを指す。
佐咲は全員の顔を確認したあと、「いくよ」とマウスを左クリックした。三角マークが、二本の太い縦線に変わる。画面に映ったのは俺の家——数原家の薄暗いリビングだった。監視カメラだろうか、いつの間に設置していたのだろう。沈黙の中、動画特有のざらざらとした雑音だけがいやに響く。
0分16秒。そこで佐咲は動画を止めた。ここ見て、と拡大された画面の中には、ぼやけてよく見えないが紙のようなものが映っていた。
「画質悪くてよく見えなかったから、ちょっと解析してみたんだ。それがこの画像」
言って佐咲は、画面の端にある小さな画像をクリックする。先程よりさらに拡大され画質も格段に良くなったその画像には、無機質な文字列の並ぶ書類が映っていた。
「上記の通り、数原勇吾を孤児院に受け渡します。印」。数原千紗子、と母の名前はもちろんのこと、ご丁寧に真っ赤な印鑑まで押してあった。
ずっしりと、沈黙の質量が増した気がした。全員の体が固まった気がした。この空気を取り払おうにも、何を言うのが正解なのか全くわからない。それに、カラカラに乾いたこの口では、うまく言葉が紡げそうになかった。
佐咲は咳払いという反則ギリギリのような方法で沈黙を突き破り、噛み砕くように、噛み潰すように言う。きっと何度もこの画像を見てきたのだろう、その瞳は真っ直ぐに事実を見つめていた。
「上記の通り、数原勇吾を孤児院に受け渡します」
あるいは、現実から目をそらすな、とでも言うように。
強い意志を込めた声音で、そう言った。
「......孤児院、って」
長い沈黙の後、意外なことに、一番最初に平静を取り戻したのは柊だった。この中でも比較的明るい性格をもつ柊のその言葉に、部屋の空気がほんの少しだけ軽くなる。ムードメーカー、というやつだろうか。言葉そのものに意味は無くても、発言という行動自体にはそれぞれの緊張を和らげる効果があったらしい。俺の頭も、さっきよりいくらか冷静な状態になった気がする。
しかし問題は山積みだった。
「勇吾くんが捨てられる、ってこと......?」
「言い方考えろな」
不安そうに言う柊に、ぐさりと冷酷な言葉を浴びせる来栖。その様子からして、来栖にも少し余裕が戻ってきたと見受けられた。
......じゃない。
この状況、一番余裕がないのは、俺だ。冷静に周りを見ていられる精神状態などではない。実際、さっきから足の先がかたかたと震えてきているし、心臓の音も身体中で鳴っているかのようにうるさい。変な汗が皮膚に滲む。動揺がバレないようにソファーの背もたれを掴むので精一杯だった。
孤児院?捨てられる?
脳が理解するのを拒むので、ただただ直接的な恐怖が理性の壁を通らずにそのまま襲ってくる。思考しようとしても、同じ文が、同じ単語だけがぐるぐると回る。ただ、怖い。
当たり前じゃない母親でも、生ゴミにまみれた生活でも、貯めてきたお年玉を勝手に使われても、それでもやっぱり、捨てられるのはどうしようもなく怖かった。
「もちろん、これだけじゃ確実な証拠にはならないし、勇吾の母親が誰かに書かされたっていう可能性も無くはない。ただ、この画像を見る限り、希望的な可能性は著しく低いってことを覚えといて」
佐咲は淡々と言う。
来栖は目を伏せて思考している。
日永田は焦った表情のまま固まっている。
寅松はさして驚いた様子もなく、画面をじっと見つめている。
そして、柊は。
「......なにそれ」
——柊は。
「そんなのおかしいじゃん!」
目尻に涙を浮かべて激昂していた。
「なんで勇吾くんだけこんな目に合わなくちゃいけないの!? 私は資料に書いてある範囲でしか勇吾くんのことは知らないけどさ、それでも......」
それでも、こんな仕打ちはないじゃん。一回言葉に詰まって、息を吸い直して、さっきより静かに、しかし強く叫ぶ。震えた声は、惨めではなかった。柊の目から涙が頬を伝って落ちていた。水滴の流れた後が一筋の線になって輝く。おかしいよ。何度もそう呟く。絞り出すように、何度も何度も。
君は悪くないよ、と言われているようだった。
「私、勇吾くんの母親に一言言ってくる」
きっ、と蛍光灯を見上げたその瞳には、怒りが燃えていた。でも、やめておいたほうがいい。あの人には言葉が通じないから。自分が正義だと信じて疑わないから。相手の意見なんて、一切聞き入れようとしないから。
俺のために怒ってくれた柊が、あの人のせいで傷つくなんてことは、嫌なんだよ。
「この状況で何言いに行くんだよ」
動揺しながらも冷静に返す佐咲の言葉は多分、柊には届いていない。感情は思考にフィルターをかける。喜びも怒りも悲しみも、正常な思考にバグを起こす原因となる。周りが見えなくなって、正論が聞こえなくなる。そして最後には、暴走と称するしかない愚行に走ることになるのだ。
「わかんないけど、なんか、言いに行く」
ずびっと鼻をすすりながら、柊は強く拳を握る。なんかって何だよ、と軽口を挟めるような勇気は勿論俺には存在しない。佐咲も日永田もその剣幕に押し切られて、何も言えないようだった。
じゃあ誰が柊を止めるのか。
「やめとけ」
口を挟んだのは来栖だった。
初めに見た時から若干の対立関係にあった二人。金で動く来栖と、感情で動く柊。どこからどう見ても正反対だ。でも、だからこそ今の柊を止められるのは来栖しかいないんじゃないかと、その構図に俺は少し期待した。
「俺たちは依頼された内容に対して金で動くだけ。依頼内容は覚えてるか? 『妹を救ける』だっただろ。だからそこから先は範囲外、追加料金が発揮する。わかるか? これは慈善活動じゃねぇ、ビジネスなんだよ。
それに、だ。柊。一度私情を持ち込んだ問題は、金だけでは解決できなくなる。お前の事情は知らねぇけど、いや知ってるけど、ここは人生カスタマーセンターだ。依頼内容を遂行する。それだけなんだよ。本当に、それだけなんだよ。
慈善だか偽善だかに溺れてたいなら、個人でボランティアでもしてな」
冷たい口調に、冷たい目。突き放すような態度だった。何なら煽っているようにすら見えなくもない。そんなので大丈夫なのか、あんた本当に引き止める気あんのかよ。そう言いたくもなったけど、来栖の言葉は全部本物で、きっと言葉以上の何かが込められていると思ったから、文句は喉元で引っ込めておくことにした。
頼む。止まってくれ、柊。
しかし俺の期待はあっけなく裏切られることになる。
「金金金金金金金。結局みんな自分の利益のことしか考えてないんだ。ボランティア? 偽善? 他人を騙して喜んでるような人が何言ってんの? 依頼だとかなんとか言っちゃって、結局は怖いだけなんでしょ? 嘘で塗り固めた自分が壊れて行くのが怖いだけなんでしょ? そんな奴が『他人の人生を変える』? 笑わせないでよ。
敗者の気持ちも知らないくせに、知ったような口きかないで」
柊は怒りに任せてそう言うと、「行こう、勇吾くん」と俺の腕を引っ張った。おい来栖、結局逆効果じゃないか、なんて恨み言ももう手遅れだった。
出入り口のドアに近づくにつれて、なんとなく足が重くなるような、そんな気がした。
俺のせいで奴らの大切な何かを壊してしまったような、そんな気がした。