Ep,5 宇月
翌日、午前十一時。
晴天以上快晴未満くらいの青空の下で俺は、シワひとつない黒スーツの背中を見つめていた。
やり場のない緊張感を呼吸として慎重に空気に混ぜる。なんとなくこの沈黙を破るのが怖くて、音を立てないように努めてしまう。
その原因は多分、俺の前を歩く来栖という男にあるのだと思う。フルネームで来栖京。見る限り「人生カスタマーセンター」において一定以上の権威を持ち、現在ターゲット(と奴らが呼んでいたので、俺もそう呼んでみることにする)の家に突入しようとしている張本人。セールスマンのふりをして他人の家に上がるのは、今回が初めてというわけでもないらしい。憶測だけど。
正直言って、来栖京は怖い。よくわからないけど、得体の知れない危険人物のようなオーラを放っているというか黒幕感があるというかで、なんとなく話しかけづらい。いや、初対面の怪しい組織に対して「話しかけやすい」なんて言う方がおかしいんだろうけど、でもやっぱり、どうしても来栖を佐咲や柊と比べてしまう自分がいた。あの親しみやすさと優しさが心地よいと感じてしまっている自分が、いた。
だからある意味これは、いい機会なのかもしれない。今守るべきものと敵を今一度見据えて、緩んだ心をもう一度奮い立たせるのだ。
「着いたぞ」
来栖の無愛想な声が鼓膜を刺した。辺りを見渡すと、懐かしい、と言うのも変だけど、見慣れた風景があった。その中でひとつ、宇月、と書かれた表札に目が向く。一瞬で身体中に緊張が走るのがわかった。
この中に、俺の敵がいる。
しかしここまでのこのこと何も考えずについてきたはいいものの、改めて考えてみるとどうだろう、今俺が来栖についたままセールスマン計画を実行したらどうなるんだ?
突然やってきたセールスマンが得体の知れない子供を連れていたら、それこそ異質だ。どんな成り行きだよ、と思う。
なので仕方なく聞いてみることにした。
「来栖、さん。俺はここで何をしていればいいんだ?」
少しだけ、声が震えたような気がした。
「んー......ま、これで様子でも見とけ。運が良けりゃ、妹の顔も見れるかもしれないしな。異常があったら報告......できないか。仕方ないから俺の携帯貸しとくわ。こっちが俺のスマホの連絡先、これが事務所の連絡先な」
言われて、双眼鏡と携帯を受け取る。おもちゃみたいな双眼鏡だった。そして黒スーツのポケットの中身を考えるに、どうやらこの男、携帯を2個持っているらしい。渡されたのはガラケー、来栖が持っているのはスマホ。便利だとは思うけど、やっぱり変な奴だった。
来栖は宇月家のインターホンに指を当てて言う。
「そこの電柱にでも隠れとけ」
なかなかに雑な扱いだった。
指差されたそう遠くない電柱の陰に隠れて、双眼鏡を右手に持って、よし準備完了というタイミングで来栖はついにインターホンを押した。俺はおもわずごくりと唾を飲む。
短い沈黙の後、「はい」と男の声が聞こえた。
間違いなく、宇月豊人の声だった。
すいませーん、ちょっとお話よろしいでしょうかー。いえ、そういうのは間に合ってますんで。いやいやそう仰らず。いえ、本当に大丈夫なので。そんな会話がインターホン越しに何度か交わされた後、来栖はにたりと笑って少し強めに言った。
「えー、お子さんが喜びそうなものだったんですけどねー。残念です」
何故、子供がいることを知っているのか 。
それは、決定打であると同時に諸刃の剣でもあった。
こっちが相手の情報を握っている、ということ。もしかしたら子供を監禁していることまでバレているのではないか、という焦り、恐怖。相手の感情を急激に揺さぶる手であり、こちらに対しての不信感も同時に抱かせてしまう、そんな策。
知ったようなことは言えないけど、おそらく来栖はそこまでを狙ってそう言ったのだと思う。俺に来栖の考えはわからないけど、なんとなく、そう思った。
だから俺は、とてつもなく強い緊張感に苛まれることはあっても、不安感に襲われることは無かった。不思議な感覚だった。
動揺して家の外に出てはきたものの、宇月はまだ、なぜ、とは言わなかった。
多分、ここで動揺したようなそぶりを見せれば、何かやましいことがあると勘づかれてしまうから。
宇月は極めて淡々と言う。
「すみません、何度も言っていますが、うちはそういうのは間に合っているんです。帰ってもらえますか」
様子見。
お互いに探り合っている状態。平気なようなふりをして、相手からボロが出るのを待っているような、そんな状態。来栖も宇月も同じ。
「そこをなんとか。一回、一回だけご覧ください。きっとお子さん、気に入ってくださいますよ」
清々しいほどの営業スマイルだった。
来栖は持参していた黒いカバンから何か謎の絵本だかおもちゃだかを取り出すと、ペラペラと宇月をまくし立てていた。早口すぎて俺にはほとんど聞き取れないけど、多分それでいいのだろう。聞き取る隙も口を挟む隙も与えず、ただ相手を圧倒する。そして会話を自分のペースに持って行ってから、相手のボロが出るのを待つ。根気のいる仕事だし、なるほど、器用そうな来栖に向いているわけだった。二重人格(?)のことを考えなければ、最初来栖が俺に向けていた営業スマイルもなかなかのもの(今となってはただただ胡散臭い)だったし、まぁ、適材適所とかいうやつなのだろう。
それで、ふと、気になった。
来栖の職業って、何なんだ?
数秒後、気にする必要もないということに気づいて、考えるのをやめた。
「......という感じなんですけど、どうでしょうか?」
「どうでしょうか、と言われましても」
来栖の狙い通り、宇月は勢いに押されて少し語調が弱くなっていた、気がする。というかまず、問答無用の門前払いを回避できただけで上出来と言うべきなのだろう。双眼鏡のピントを合わせ直すと、少し困り顔の宇月がより鮮明に映った。
「うちの子は、そういうのでは遊ばないので」
「あ、ではお子さんはどんなものがお好きなのか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
よろしいでしょうか、の裏に隠された威圧。
「どんなもの......」
言って宇月は一瞬、考えるような表情を浮かべた。きっと自分に都合のいい返答を作り上げようとしているんだろう。しかし残念、脳のキャパシティでは来栖の方が勝る。ましてや一瞬の思考力ともなれば、宇月には勝ち目もないだろう。馬鹿なのだ。宇月は人間的にも学力的にも、平均よりいくらか劣っているのだ。
だから俺はそこで、勝ったような気になっていた。
窓ガラスに映る、誰かの顔にも気付かずに。
「お子さん、女の子ですか?男の子ですか?」
「女の子、です」
「じゃあ、塗り絵とかでもいいかもしれませんね。お絵かきとかどうですか?よく一緒にされたりしますか?」
「あぁ、まぁ」
「それはいいですね! では、これなんてどうでしょう?」
宇月家のリビングに面する大きな窓ガラス、一瞬揺れたカーテンの隙間から覗いた顔が、泣きそうな瞳で俺を見ていた。
宇月未央が、俺を見ていた。