Ep,3 勇気の使い方
黒いソファに沈む体、卓上に置かれた10枚の紙。
「......本当にいいのか?」
時間がないだとか方法は問わないだとかそんなことを言っていた割には、いざ10万円を見せつけられてしまうと少し戸惑ってしまうのが俺だった。
どうしたらいいのかわからないというわけではない。この場合取るべき行動はわかっている。さっさとこの紙切れ10枚を奪い取って、来栖に渡してしまえばいいのだ。そして正式に依頼して、今すぐにでも動いてもらえばいい。
ただ、少し、迷う。
依頼する相手から金を借りて、それで正式な依頼になるのか? 情けをかけられて入手した金で、取引なんてものが成り立つのか? 柊の口調からして、きっと来栖のことはあまりよく思っていないのだろう。じゃあ、このやり方は容認されるのか? 最悪、依頼を断られるんじゃないか?
——違う、こんなのはただの言い訳だ。
ただ俺は、たった一人の妹すら救えない自分の無力さに、そこからくる悔しさに背こうとしているだけなんだ。
大口を叩いていたって、所詮俺に勇気なんてものはない。警察も怖い、犯罪だって本当はできない。こうして、可哀想な子供のふりをしていたら誰かが助けてくれるんじゃないかって、心の片隅では思っていた。
そうしたら今度は本当に金を与えられそうになって、俺はそれに甘えようとしている。ここに依頼しにきたことだって、結局は他人任せにしようとしているのと同じだ。
俺は、俺自身の力じゃ、何もできない。
そりゃ、そうだ。
あの時自分の妹を見捨てた俺が、強いわけないんだから。
「いいよ、使って」
柊は言う。ずいっ、と紙切れを今一度こちらに差し出して。
「妹さん助け出して、そんでターゲットに復讐してやろう。なんかやられっぱなしってむかつくじゃん」
「むかつく」。
そんな理由だけでコイツは、こんな偽善じみたことをやってのけるのだろうか。変なやつだ。手錠の件を無視しても、本当に理解ができない。何がしたいんだ。確かにその優しさはありがたいし、多分俺はそれを期待していたのだろうけど、それでもなんとなく柊は、優しすぎて不審だった。
しかし当の本人は俺の葛藤など知りもせず、スマホを取り出して液晶画面を操作していた。打鍵が速い。電話でもするのだろうか、気がつくと呼び出し音が鳴り始めていた。
「丁度いいし来栖サンに連絡しとくねー。......あ、もしもし来栖サン? 依頼人の子......そうそう勇吾くん。彼、頭金できたってー。......貸してないよ。うん。本当に。今回は。......本当だって!......いいじゃん別に!胡桃さんも別にいいって言ってたじゃん!個人の行動の範囲内で依頼に支障をきたさない程度なら金銭のやり取りは自由だって!......えちょっまっ」
ツー、ツー、ツー。
柊が一方的に切られたことは明白だった。数秒ほど立ち尽くした後、俺が座っている正面のソファにどかっと腰を下ろし、いかにも不機嫌そうに両腕を組む。
「毎回毎回なんなのあの人......あメールきた。『本業の方が片付き次第向かう。おそらく夕方頃』だって。あとそれまでにターゲットの情報調べとけってさ、よろしくるっきー」
「はいはい」
ついに話が進んでしまった。
今更やめるなんて言えないし、そんなことをしたらそれこそ未央のことを救けられなくなってしまうのだけど、どうしてもやっぱり、決断できずにいる。
膝の上で両拳を握りしめた。
今俺がこうしていつまでもグダグダ悩んでいる間に、未央はまた新しい傷をつけられている。こんなことしていられる場合じゃないのに。言ってしまえば、これはきっと、俺自身が未央を傷つけているのと同じなんだ。俺が弱かったから。いや、今も弱いから。
俺が今していることは、あの男がしていることと同じだ。
このままじゃ、ダメなんだ。
「——来栖、さんは。夕方じゃないと来れない、のか。もっと。早く来れないのか」
「......え?」
声のボリュームを間違えながら、息を吸うタイミングも間違えながら。腹の底から絞り出した声で、汗に体温を奪われながら。
睨みつけるくらいの勢いで、柊と佐咲を見据えて言う。
「未央は今この瞬間この瞬間も苦しんでいる。必死で耐えている。一人で逃げてきた俺は、未央を救けなくちゃいけないんだ。未央は、今死んでいたっておかしくないんだ。だから、俺のことはどうしてくれたって構わないから、一刻も早く動いて欲しい」
変な意地を張っている場合じゃない。
格好悪くたって、納得できなくたって、悔しくたって、そんなことはどうでもいい。
救けるんだ。
「頼む。お願いします」
立ち上がって頭を下げた。
「......何この状況」
俺の言葉を聞いた柊が「胡桃さん激おこ。至急オフィスに帰ること」というメール(嘘)を来栖に送りつけてからわずか10分後、息切れした来栖がドアを開け入ってくるなり吐き捨てた言葉である。よほど急いだのだろう、かなり汗だくだった。
「いやぁ、こーやって送ったら急いで来るかなって」
事実、来栖は驚くべきスピードでオフィスに帰ってきた。帰ってきたけど、多分すごく怒っている。だってここに寅松はいないのだから。寅松に怒られることを恐れて超特急で帰ってきた来栖は、それが大嘘だということを知ってしまったのだから。
来栖は静かに自らの鞄を投げ捨てた。
「柊は後で潰すとして、瑠希。用件は。時は金なり。簡潔に述べろ」
どうやらこの男、外面と普段の態度に天と地ほどの差があるらしい。(主に柊のせいで)現在不機嫌ということもあるのだろうが、第一印象との差が酷すぎる。
何が爽やか営業マンだ、悪徳守銭奴の間違いだろう。
対して佐咲は、パソコンのキーボードを叩きながら言う。特に驚いた様子もないので、おそらくこれが初めてというわけでもなさそうだった。
「依頼人が頭金を用意してやってきた。時間の経過が妹の命に関わるから、今すぐにでも動いて欲しいと。んで七瀬が勝手に嘘メールした」
「るっきー裏切ったなしばく」
「安心しろその前に俺が柊を潰す」
どうやら俺のせいで柊と佐咲がしばかれるらしい。
じゃなくて、用件は。
「......来栖、さん」
「はい?」
一瞬浮かんだ営業スマイル。そして労力の無駄だと悟ったのだろう、すぐに不機嫌そうな表情に戻すと、「早急にお願いしますね」と念を押された。
「えっと。頭金を用意した。だから依頼を聞き入れて欲しい」
袋にも何にも入っていない、裸の10万円を手渡す。来栖はぱらぱらと一枚一枚それを確認し、「確かに」と自分の懐に突っ込んだ。
「依頼内容については、既に把握しております。瑠希の下調べが終わり次第、作戦を練って動くことが可能です。
——最後に確認しておきますが、本当に実行して構いませんか?」
にこり、ではなく。
にやり、と形容するにふさわしい表情で、来栖は問うた。
俺は即答する。
「お願いします」
来栖は静かに頷き、芝居がかった口調でこう言った。
「この度のご依頼、誠にありがとうございます。
ここは、人生カスタマーセンター。
あなたの人生、誰かの人生、見事狂わせてご覧に入れましょう」