Ep,2 10.6グラムの札束
やばい、と直感的に悟った。
恐る恐る、寝転ぶ母親の手からポチ袋を引き抜いてみる。起こさないように、慎重に。袋全体が完全に母の手から離れたことを確認し、人差し指と親指で広げて中身を見た。
空になった袋の内側に、俺の名前が反対向きになって写っていた。外側にはそれと同じ箇所に「勇吾くんへ」と書いてある。あぁ、これはじいちゃんの字だ。そうだ、一番最初にお年玉をくれたのは、じいちゃんだった。
優しくて色んなことを知っていて、いつも笑っていたじいちゃん。
「偉い人にならなくていいから、優しい人になりなさい」と言っていたじいちゃん。
しかし残念なことに、そんな大好きなじいちゃんとは、もうしばらく会えていない。目尻に浮かぶしわの数を思い出すこともできない。かろうじて思い出せる顔が果たして本当にじいちゃんなのか、それを確かめることもできない。いつでも耳のそばに置いてあったあの優しいじいちゃんの声だって、もうなんとなくでしか想像することができない。
勿論、永遠に会えないというわけじゃない。じいちゃんが死んだというわけでもない。電車で数時間田舎の方に向かって走れば、そこの老人ホームで会える。認知症だとかそういうので俺のことを忘れているというわけでもない。じいちゃんはいたって健康だし、今だってきっと俺の名前を呼んでくれる。
ただ、会えない。
じいちゃんに会いに行くなんて、そんなこと母さんが許さない。
許されないから、会えないんだ。
未央が宇月豊人の奴隷であるように、俺だって母さんの所有物であることに変わりないのだから。
だから、俺が未央のために使おうとしていたお年玉を母さんのゴミに換金されていたって、何も文句は言えないのだ。言えば今日の寝床がなくなる。明日の晩御飯だってなくなる。今の俺の暮らしだってそこそこに、いやかなり悪いものなのだろうけど、それだって失うわけにはいかない。
食べ物がなければ人間は死ぬ。家がなければ体調を崩す。結果死ぬ。
当たり前のことだ。
俺は未央を救けなくちゃいけない。
まだ俺は、死ぬわけにはいかないのだ。
借金、銀行強盗、ギャンブル、臓器売買。頭に浮かんだ金を手に入れる手段は、どれも今の俺には実行できそうになかった。第一、借金しようにも借りる相手がいないし、臓器を売りつける業者だって知らない。所詮人間なんて、ましてや俺くらいの子供なんて、どうせ一人では生きていけないんだ。嫌なことを知ってしまった。
でもまぁ、スリくらいならなんとか頑張ればできそうかもしれないので、この際挑戦してみることにした。
人通りの多い道に出て、信号待ちのふりをしながら警戒心の薄そうな人物を探す。あの人はどうだろう、この人はどうだろう。目で人間を判別し、それと同時に決して挙動不審には見えないように堂々と振る舞う。
すると信号が青色に変わった。どこか目的地があるわけではないけれど、青になった信号の前で立ちすくんでいるのも不審なので、とりあえず人の波に流されて横断歩道を渡ってみる。流石にこの人口密度で「白いところ以外踏んだらダメゲーム」みたいなことをやっている人はいなかった。俺にもそんなことをする度胸はなかった。
しかしどうだろう、なんとなく予備知識もなく人通りの多い道を選んだはいいものの、果たしてこれは犯罪行為に向いた環境なのだろうか。本来なら人気のない路地裏みたいな場所でやるべきなんじゃなかったのだろうか。まぁ俺はこの辺りに路地裏と呼べる路地裏があるかどうかは存じていないのだけれど。
スリにおける正攻法って、なんだ。
いやいやいや、それ以前にまずスリという行為自体が正攻法からかけ離れているんだ。俺は今犯罪行為に走ろうとしているんだ。何が正攻法だ、今更常人気取ったってとっくに手遅れだろうに。
と、いうことで。
俺はこちらに向かって歩いてくるショートヘアの女子高生に思いっきりぶつかった。
多分、これはスリじゃなくてタックルなんだろうな、と思った。
そしてその数十分後。俺は、
「るっきー、依頼人っぽいから連れてきたー」
「は?」
ショートヘアの女子高生に何故か手錠をかけられ、先ほど訪れたオフィスに連れ込まれていた。
なんだこの状況、なんなんだこの状況。全然理解できないんだけど、何この状況。
そして、数十秒ほどの沈黙、パソコンのキーボードを叩く音だけが響いた後。
「るっきー」と呼ばれるその少年は、こちらに背を向けたまま無愛想にこう言った。
「ぽいってどういうこと、馬鹿じゃん」
ちなみに彼が扱うパソコンの数は3台。現在平日の真昼間。勿論祝日というわけでもない。
大丈夫か、コイツ。いろんな意味で。
「いやぁ、なんか見覚えあるなーっていうか、そういえばこの前渡された資料に載ってた子に似てるかも、みたいな感じで、どーせぶつかられたんだしいいやってことで連れてきた。安心して、手錠もしてるから暴れないよ」
「そこが一番ダメなのわかってないよな」
「るっきー」はふぅ、と軽くため息をつくと、自身のパーカーの右ポケットから鍵を取り出し俺に投げてきた。うわっ、と反射的に声を上げてから、自由のきかない両手をなんとか動かしてそれを受け取る。と同時に、「えっコイツ鍵もなく手錠かけたのかよ、怖っ」と隣にいる人型のショートヘアが本当に人間なのか疑わしくなった。
しかし呆気にとられている時間すら勿体無いことも事実なので、もたもたと手間取りつつも手錠を外す。
自由になった手首を数回ぶらぶらと振っていると、くるりと椅子が回転して「るっきー」がこちらに向き直っていた。
「えっと......宇月勇吾、だっけ?」
「るっきー、依頼人とターゲット混ざってる」
「あ、ごめん」
なんでそこ間違えるんだよ。
すると見かねたショートヘア(コイツに見かねられたら終わりのような気しかしないけど)が「るっきー」に紙の束を渡す。多分、さっき寅松が来栖に渡していたのと同じもの。
「るっきー」は資料と俺の顔を何度か見比べてから静かに頷くと、回転椅子から立ち上がった。
「改めて、依頼人の数原勇吾はあんたで間違いなさそうだね。俺は佐咲瑠希。一応ここで機械とか電子関係のことを受け持ってる。
で、このあんたに手錠をかけてた馬鹿が柊 七瀬」
言動からして、どうやら「るっきー」......佐咲は、見た目よりもいくらか常識的な人物と見受けられた。で、一見コミュニケーション能力の高そうな柊のほうが、多分馬鹿。初対面(俺がタックルして行ったとはいえ)の相手に迷いなく手錠をかけるなんて、並大抵の人間になせる技ではないのだろうし。
で、気を取り直して本題は——俺が、とんでもないミスを犯したということ。
当初の目的であるスリは失敗に終わり、それどころか金を払う対象の組織に連れ込まれてしまっている。スリをするために柊にぶつかった、なんてことまでバレてしまったら、それこそ一巻の終わりだ。
どうにかして誤魔化して、形成を立て直さないと。
「で、勇吾はなんで七瀬にぶつかりに行ったわけ? 流石の七瀬だって、事故ってレベルの接触くらいじゃ手錠なんてかけないでしょ。何か目的があったんなら、話してみれば」
どくりと心臓が跳ねた。
佐咲の言葉の続きにはきっと、「そうするまで帰さない」という強い意志が込められている。これは俺の憶測じゃない、佐咲自身の目が何よりも雄弁に語っている。
どうする。考えろ、思考しろ。どうすればコイツらを動かすことができる。どうすれば、未央を救うことができる。
——と、その時。
「勇吾くん、君、お金ないんでしょ」
柊が人差し指の先でくるくると手錠を回しながら、そう言った。真正面から濁りのない瞳に見つめられて、理由のない恐怖と焦燥感に駆られた。心臓がうるさい。でも黙っていたら余計に怪しまれる。額に滲んだ汗がこぼれ落ちる前にせめて何か言っておこうと、俺は考えなしに口を開いた。
「金は、ある」
「うっそだぁ」
しかし俺が必死で絞り出した言葉は一瞬で否定された。こういう時だけ勘が鋭いタイプなのだろうか。柊も嫌な奴だ。
「そんなぼろぼろの服着てそんな泣きそうな顔してる子が、10万なんて大金、持ってるわけないじゃん」
柊はにこりと微笑むと、まるで子供をあやすかのような口調でこう言った。
「大丈夫。私は来栖サンみたく金銭至上主義ってわけじゃないから。他人のため、復讐のためとあらば、お金なんていくらでも貸してあげるよ」
勿論、そんな甘い誘い文句を鵜呑みにする俺ではなかったし、柊のその、なんとなく来栖を遠回しに否定するような言い回しも気になったけど。
こんな状況で、手段を選んでいる暇もなかったから。
——俺は、柊の提案に乗ることにした。