番外編 柊七瀬の好敵手
勇吾くんと一緒に過ごした最後の日の夜。「ありがとう」と素っ気ない言葉を最後に彼が事務所を去った後、ほとんど放心状態のようなものだった(らしい)私は、胡桃さんの部屋に呼び出された。なんとなく、部屋中央に置かれたローテーブルの正面に正座する。それから、飲み物入れてくるのでちょっと待っててくださいね、と言われたので、キッチンに向かう胡桃さんを待ちながら部屋の中を観察することにした。
天井まで届く大きな本棚が壁に沿って三つ、中身はほとんど私の知らないような小説。ドアの真正面にある小さな窓の前には、パソコンの乗った引き出し付きの机が置かれている。床に敷かれたラグとカーテン、ベッドは薄桃色で統一されていて、胡桃さんらしい柔らかい印象を受けた。
この部屋にお邪魔するのも何回目だっけ。多分、五回目くらいかな......そんな思考は、鼻腔をくすぐる甘い香りに遮断された。
「お待たせしました。貰い物のピーチティーがあったので一つ入れてみたんですけど、ミルクティーとどっちがいいですか?」
二つの白いカップを乗せたお盆が目の前に置かれる。ピーチティーってどんな感じなんだろう、と思いカップの中身を覗き込むと、薄茶色の液体と透き通った赤色の液体がそれぞれ湯気を発していた。多分この透き通った赤色の方がピーチティーなんだろう。
「ピーチティー、もらおうかな」
特に理由は無かった。ただ、自分の顔を映すその赤い水面がとても綺麗に見えたから、なんとなくで選んだ。それだけ。
「じゃあ、私はミルクティーにしますね」
そう言って胡桃さんが微笑む。お盆から机の上に降ろされたピーチティーのカップが、私の前に置かれた。
いただきます、と呟いてカップを口元で傾けると、予想の数十倍熱い液体が流れ込んできて軽く舌を火傷した。味なんて全然わからなかった。もう少し冷めてから飲もう。そう思い静かにカップを置いた。
「ちなみにそれ、数原くんのお父様からいただいたものなんです」
「え?」
え?というより、ふぇ?に近い音が喉から漏れた。間抜けな音だった。でも、突然そんなこと言われたら誰でも驚くじゃん。え、驚かない?驚くよね?驚くよ?驚くって。一回体験してみて、本当驚くから。
だって、胡桃さんが言う「お父様」っていうのは、「宇月豊人」に他ならないんだから。
そんな奴からもらった物なんて、飲めない。
「あー、違います。私が言った『お父様』っていうのは、七瀬ちゃんが思ってる人じゃないんです」
「それって......宇月豊人じゃないってこと?」
思いついたままの質問を投げかけてはみたけど、私には胡桃さんの言っていることが全く理解できていなかった。
勇吾くんのお父さんと聞いて思い浮かぶ人なんて、私が知っている限り、彼以外にいないのだから。
しかし胡桃さんは両手を合わせて嬉しそうに言う。
「そうなんです。さすが鋭いですね、七瀬ちゃん。実を言うと、宇月豊人は数原くんの本当の父親ではないんです」
「えぇ!?」
今度は間違いなく「えぇ!?」だった。机に両手をついて身を乗り出した反動で、振動したカップががちゃんと音を立てる。
「色々事情があって今は戸籍上の父親ではあるんですけど......本当は、血の繋がった別のお父様がいるんです。私は今その方から依頼を受けていて、そのお礼にとお金とは別で紅茶のギフトセットをいただいたんですよ......割と高いやつでびっくりしました」
胡桃さんは澄ました顔で言う。
「......その人からの依頼って?」
「守備義務があるので、そこは言えません」
「えー」
「なんてね。この状況で、今更秘密も何もありませんよ。第一、数原くんにとって一番心に支えになっていたのは七瀬ちゃんに他ないんでしょうし」
「心の支え......」
公園のブランコでした会話を思い出す。ほとんど自分の話しかできていなかったように思うけど、あの時の私の言葉は勇吾くんにどう届いていたのだろうか。きっとそれは、勇吾くんにとっては慰めにも何にもなっていないんだろうけど、それでも私は、どうにかして彼を笑顔にしてあげたかったんだ。
最初に依頼金をあげたときだってそう。そりゃ、はじめは自分と勇吾くんを重ねて「復讐のため」とか言っちゃっていたけど、本当はそんなこと、どうでもよかった。ただ、彼に力を貸すだけの便宜上の理由が欲しかっただけなんだ。返してくれなくたっていい、感謝なんてしてくれなくたっていい。それで泣きそうな彼が少しでも笑顔になってくれるなら、なんだってよかったんだ。
来栖サンはきっとこれも、「偽善」だとか言って嫌うんだろうけど。
「それに、私も助かってるんですよ。私の方の依頼が滞りなく進められたのも、七瀬ちゃんが派手に暴れてくれたからなんです。おかげで、多少無茶な行動をしていても京さんたちに怪しまれずに済みました」
「暴れてくれたって」
私、そんなに暴走してたっけ。いやまぁ、確かに暴れていたと形容するに十分すぎる失態は犯したんだけど。......あぁ、思い出しただけでちょっと頭が。アタマガイタイナー。
そうだ、ピーチティーそろそろ冷めたかな。私は自分の中の誰かに言い訳するかのようにそう心の中でつぶやき、カップに中の赤い液体を覗き込んだ。うん、なんかさっきより湯気が減ってる。......気がする。
そう思い口の中に液体を流し込むと、今度はさっきよりすんなりと舌の上を転がすことができた。上品な甘み(こんなの飲んだことないから知らないけど)と桃の香り(多分)が混ざり合って、なんか高そうな感じだな、と月並みな感想を抱く。温かい液体が喉を通って行って、痛くなった(気がする)頭が少しマシになった。
......と、そこまで馬鹿なことをしてから気づく。
今この人、無茶な行動がどうとか言わなかったか?
「何、胡桃さん、まさか危ないことしたの......?」
「いや、まぁ、ちょっと宇月宅と数原宅に侵入したり監視カメラ仕掛けたり孤児院のチラシ偽装してポストに突っ込んだりいろんな書類をちょちょっといじったりしただけですよ」
「いやめっちゃ犯罪じゃん!」
「うふふ」
胡桃さんは楽しそうに笑う。それはもう、うふふじゃないよ、という小言を引っ込めさせるくらいに楽しそうに。
......忘れていた。こう見えて胡桃さんには、道徳的な正義感や法律を恐れる心が全くないのだった。勿論、息をするように犯罪を犯すだとかそういう危険人物めいた人間ではない。しかし、必要があればスキップでもするかのように、軽々と犯罪の壁を飛び越える。
他人の人生に干渉することを三度の飯より好む、寅松胡桃はそんな人間なのだった。
「......でも、そんなことまでしないとダメな依頼って...... あ」
頭の中で、バラバラだったピースがぱちりとはまるような感覚に襲われた。やっぱこれ私鋭いんじゃないの、と一瞬思ったけど、きっとるっきーならもっと早く真相にたどり着けるんだろうなと結局自分の頭の悪さを実感する羽目になった。だってアイツ、私より四歳も年下なのにめちゃくちゃ賢いんだもん。むかつく。
「その本当のお父さんに、勇吾くんを助けるように依頼されたってこと?」
「ご名答! 数原くんのお母様に孤児院のチラシを送りつけてあぁなるように仕組んだのも、数原宇月両家に監視カメラを設置したのも、それを利用して宇月豊人を犯罪人に仕立て上げ......ごほん、証拠を集めて警察に逮捕してもらえるように仕向けたのも、そのあと未央ちゃんを保護して本当のお父様に受け渡したのも、実はぜーんぶ私なんです!」
そう言うと胡桃さんは急に立ち上がってえっへん、と胸を張った。裏のなさそうな笑みが逆に怖い。眼鏡の奥で自慢げに光る双眸が今までどれだけの悪事を映してきたのかと思うと、背筋に冷たい汗が這うようにぞくっと寒気がした。
「そんな自慢げに言えることじゃないでしょ......うん? 待って待って待って。え、宇月豊人って逮捕されたの!?」
「あー、はい。今日の夕方頃に。丁度、京さんと勇吾くんが宇月家に行った後くらいのことですかね。それまでに集めていた宇月豊人の虐待に関する証拠を提出して、現行犯逮捕されてました。で、その後に事務所のみんなであの動画を見て、七瀬ちゃんが激おこプンプン丸したわけです」
「それは本当に黒歴史だから......」
「......知ってます? あの後京さん、すごい動揺してたんですよ」
「来栖サンが?」
驚いた。あんな金以外に興味のなさそうな非人道人間の来栖サンが私の言葉を気にしていたなんて。てっきり「あんな奴心配したって金にならん」とか言ってるものだとばかり思っていたけど、案外そんなこともないのかもしれない。あれ、もしかしてあの人、わりと真人間?いやいやそんなわけないって。そうだよ、マジであの人はクズ中のクズなんだから。ショートケーキを買ってきたら、他人のイチゴは強奪するくせに自分のはイチゴどころかスポンジの一片すらも分け与えないような意地汚い悪徳守銭奴なんだから。
あの人とはなんか、根本的なところにある何かが合わないんだよなぁ。初めて出会った時から、ずっとそう思ってきたんだ。まぁ、そんなに長い付き合いってわけでもないんだけど。来栖サンとの付き合いなら、私よりかは帷くんの方が長いんだろうし。あと胡桃さん。
......でも正直、悪いことしたなぁ、とは思っていたりする。
「はい。口には出してませんでしたけど、うわぁやばいことしちゃった、やらかした、みたいな表情してましたね。......全く、素直じゃないんですから」
そう言う胡桃さんの口調には、どうしたって拭いきれない信用や愛情みたいなものが滲んでしまっている。普段の口調からわかる、胡桃さんは来栖サンのことが大好きなのだ。それが恋愛的なものなのかどうかはともかくとしても、胡桃さんが来栖サンに向ける目線は、私たちに向けるそれとは少し違っているのだ。
来栖サンが「やばい」と思っているなんてにわかには信じ難いけど、それでも胡桃さんが言うならきっとそうなのだろう。
「はぁ......謝るかなぁ」
「ま、あんな言い方した京さんも悪いんですけどね。七瀬ちゃんの方から先に謝ってもらえたら、あの人もきっと何か言ってくれると思いますよ」
「......だといいんだけどね」
すっかり冷めてしまったピーチティーをぐびっと飲み干して(勿体無い飲み方しちゃったな)立ち上がる。正直気は乗らない。全く乗らない。腰も足も頭も重たかった。でも、なんだかこのまま放っておくと永遠に溝が空いたままになってしまうような気がして、いや別にあの人と距離を詰めたいとは一ミリたりとも思ってないんだけど、まぁ仕方ないから、意地はった子供っぽい来栖サンに謝るチャンスをあげるために仕方なく、というこちらも十分に子供っぽい理由から私は思い腰を上げたのだった。
「胡桃さん、ピーチティー、美味しかったよ。ありがとう」
「いえいえ。健闘を祈ってます」
ぐっ、と親指を立てた胡桃さんに見送られながら、私はあの憎たらしい悪徳守銭奴にこうべを垂れに行くのであった。
事務所のリビング(リビング?)の中央にある二つのソファ、入口側に設置された方に奴はいた。
いつ見てもムカつく顔してるなぁ、という言葉は喉元で引っ込めてその対面のソファに腰掛ける。なんとなくの臨戦態勢。多分無意識だけど睨んじゃってると思う。
先に口を開いたのは来栖サンだった。
「何の用だよ、クソガキ」
あー、怒ってる。いつも以上に態度が悪い。いつもなら「何の用だ」だけで済んでるのに、今日は「クソガキ」まで付いてきてやがる。なに、塩対応のハッピーセット?いつもの営業スマイルはどうしたよ?あの胡散臭い営業スマイルはどうしたよ?なになに、余裕ないんですか?
......この人相手だと気を抜いたらついつい煽りそうになるな。気をつけよう。
「いやー......あのー......」
意図せず言葉尻が濁る。謝りたくないな、という本心が前面に出てきてしまっている。どうした柊七瀬、謝るんだろ。
うっわー、嫌だなぁ......。
「......さっきは、ごめんなさい、でした」
「は?」
「は?」
「いやこっちが『は?』だわ」
「いやいや謝ってんのに『は?』って何?」
「いや逆に何急に逆に何急に」
「はぁ!? うっわー謝って損したー!」
「これだから感情で動く馬鹿は」
「これだから金で動く悪徳人は!」
「本当、これから先も柊とは仲良くできそうにないわ」
「私からも同じことを言わせてもらうよ......」
来栖サンは、口調がコロコロ変わる。
それは仕事上、いろんな自分を演じる必要があるから。
すましたような敬語。馬鹿にしたような軽口。どれも全部、彼であることに違いはない。
でも、彼とこうして素の言葉で口喧嘩をすることができるのは私しかいないんじゃないかと、密かに思っていたりもする。
——本当、この人とは仲良くなれそうにないや。
そう思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、口元が緩んだような気がした。