Ep,11 エンドレスゲームオーバー
徐々にと都会の色を帯びて明るくなる夜道を数分歩いた。さっき見た七瀬のスマホには10:25と表示されていたので、今はもう三十分を過ぎている頃だろう。
あの人に会って、書類にサインでもなんでもして、それから奴らに依頼を解決してもらう。依頼解決のために俺が必要というわけではないので、特に支障も出ないはずだ。未央を救けられたかどうかの連絡も、孤児院の住所か何かを連中に知らせておけば問題ない。
ほら、俺が孤児院に送られたって、未央を救けることは可能なんだ。
だから俺は迷いなく歩みを進める。
握りしめた拳には、汗が滲んでいた。
よくあるビルを三階まで階段で上がって、見慣れ始めたドアを開ける。しかしもうこのドアノブを握るのはこれで最後。寂しいというわけではないけど、今までより少しゆっくりとドアを開いた。
すると、いた。
年齢にそぐわない派手なワンピースを着て、高価そうな赤いハイヒールを履いた、数原理沙がそこにいた。
ドアと真向かいの方向に置かれたソファに腰掛け紅茶をすすっていたその人は、俺の姿を見るなり「こんな時間まで何してたの」と普通の母親のような台詞を吐いた。何を今更母親ぶって、と言いたくなるが、なんとか喉元で抑え込む。反抗しちゃダメだ。今の俺にできるのは、一刻も早くこの人を家に帰らせることだけなんだから。
「ごめんなさい」
それだけ言って俺はその人の正面に置かれたソファに座る。なんでもいいからとにかく早く、この時間を終わらせたかった。
当の本人も本当に息子の行動が気になって聞いたわけではなかったらしく、俺の返答になっていない返事も、特に気にすることなく続けた。
「この書類にサインして。あと指でハンコ押して」
どこまでも事務的で淡々としたその口調に、少し腹が立った。やっぱりこの人は、俺のことなんてどうでもいいと思っている。きっと孤児院送りの話だって、この人にとって俺が邪魔だったからそうしたに過ぎないんだろう。子供のお年玉を使ってまで高級バックを買うような人間なんだから、十分にあり得る話だ。
俺の目的は未央を救けること。腹のなかで回る怒りを押し込めるように、何度もそう心の中でつぶやく。ここで俺がヘマをしたら、もう一生未央は救からないかもしれない。こんな人相手にいちいち感情を動かす必要はない。そう思いながら静かに深呼吸すると、少しだけ心が落ち着いた。
机の上に置かれたボールペンで書類に名前を書く。数原という苗字を書くのもこれで最後になるのかもしれないと思ったけど、寂しさなんてものは微塵も感じなかった。というかむしろこんな苗字、今すぐにでも捨ててやりたいくらいだった。「本人記入欄」と印刷された血液型やら誕生日やらその他諸々を書くスペースにも迷うことなくペン先を滑らせる。自分の誕生日を覚えられていないことにショックを受ける、なんて真っ当な感情も、今の俺は有していなかった。さっき公園で聞いたときだってそうだった。あぁ、まぁ、そういうことだよなと、なんの躊躇もなく受け入れられてしまう自分がいた。
その時わかった。あの人が異常なように、俺も異常なんだと。——そんなことを考えながら、無言で差し出された朱肉に親指を押し付ける。それから紙にぎゅっと数秒押し当てて離すと、紅白の細かいうずが浮かび上がった。
「これでいい?」
俺が聞くとその人は無言で書類をカバンにしまった。それは記憶に新しい、真っ赤なカバンだった。
「じゃ、また書類通ったら呼びに来るから」
「うん」
またね、も、じゃあね、も無く。その人はやはり淡々と事務的にそれだけ告げて、腰を上げた。そしてドアに向かって歩き出すのと同時に、奥の部屋から出てきた来栖も追いかけるようにドアに向かった。相変わらずの黒スーツに営業スマイル。
「ありがとうございました」
そう言って来栖は斜め45度の礼をする。あの人は少しだけぺこりと頭を下げて出て行った。あの愛想の悪さを俺も引き継いでいるのかと思うと、あまりいい気はしなかった。
がちゃりとドアが閉まるのと同時に、部屋の空気が少しだけ弛緩する。中でも、一番の豹変ぶりを見せたのは来栖だった。
俺の真向かいのソファにどかっと腰掛け、大きなため息を一つ。
「あぁぁぁぁ、疲れた! あぁいうタイプ、大っ嫌いなんだよ!」
堰を切ったように流れ出す愚痴、悪口。来栖にも苦手なタイプなんてものがあるのか、と正直少し安心した。
奴は寅松が入れてきたアイスコーヒーを一気に飲み干すと、八つ当たりのように机にグラスを叩きつけた。がちゃり、だんっ。グラスの中で氷がぶつかり合う音と、机にガラスが叩きつけられた音が同時に鳴る。冷たい液体を胃に流し込んだことで少しは落ち着いたようだが、まだ右足の貧乏ゆすりが収まっていなかった。
俺はソファから立ち上がる。来栖の怒りの矛先が俺に向いたりなんてしたらそれこそいい迷惑なので、大人しく離れておくという判断だ。しかしどうだろう、勢いで立ち上がったはいいものの、その後の行動を全く考えていなかった俺である。
......家に、帰ろうか。嫌だけど。七瀬にもあんなこと言っちゃったわけだし。
そう思ってなんとなく、七瀬の方を見た。
すると七瀬は、迷っているようでいて寂しがっているような、戸惑っているようでいて心配しているような、そんな目を俺に合わせてきた。
なんなんだよ、今更俺にどうしろって言うんだよ。
「......ゆ」
「七瀬ちゃん」
そんな七瀬に声をかけたのは、寅松だった。赤眼鏡の奥で光る、柔らかさの中に強い意志を秘めた双眸。多分俺があんな目で真っ直ぐ見つめられたら、全てを見透かされてしまうだろう。そう思わせるに足りる瞳だった。
「大丈夫ですから」
俺に聞こえるようにしたのかどうかはわからないけど、その声は数メートル離れていてもはっきりと聞こえるほどの音量だった。
何が大丈夫なんだよ。
ふわっと微笑む寅松の表情が今は、腹立たしくて仕方なかった。
未央のためならなんでもしようと思って、死に物狂いでやっと見つけたおかしな組織に縋ってしまうほどの精神状態だった俺の気持ちなんか。そんな組織の一員に信じられないほどに優しくされて、信頼してしまいそうになった俺の気持ちなんか。なんとか絞り出した最後の意地でそれを跳ね除けて、自分の人生さえも棒に振る決意をした俺の気持ちなんか。
——お前らにわかるはず、ないだろ。
それから数日間の出来事については、できるだけ事務的に、感情を押し殺して述べていこうと思う。願わくばあの人のように、感情が死滅したような話し方になるように努めよう。
なんて大層なことを言ったって別に、スケジュールが目白押しというわけではなかったのだけど。
俺の今の状況を述べるのには、たった数行で足りる。
数原勇吾は、無事孤児院に送られましたとさ。ちゃんちゃん。
勿論あのおかしな連中には事前に孤児院の住所や電話番号は伝えてあるので問題ない。
問題ない。
そう、問題ないんだ。
これから俺が死にたくなるほど他人から苛まれようとも、今までの暮らしなんて比にならないくらいの苦しい生活が永遠に続こうとも、それらは全て問題ないことなんだ。
まぁ、それでも一つ残念な点を挙げるとするならば。
どれだけ悲惨な人生になったって、死なない限り日々は延々と続いていく、ということだろうか。
彼の人生は、まだ終わっていません。