Ep,10 決意の拒絶
当たり前、の概念がわからなくなった。幸せなのが普通なのか? まず、どこからが幸せなんだ?
右足のスニーカーの先でざりざりと地面を削りながら考える。七瀬が悲しそうに言った言葉が真実なら、俺は今、「当たり前」からどれだけ外れていることになるんだろう。俺だけじゃない、未央もだ。なんとなく俺たちが不幸だということは自分に言い聞かせて理解してきたつもりだったけど、それを具体的な数値に表そうとしたら、一体どれほどのものになるんだろう。普通の基準がわからない。物差しのゼロの目盛りが、どうしても見えないんだ。
もしかしたら、今の俺たちはもうとっくに、普通の人生に戻ることができるラインから外れているんじゃないか? そう思うと、虚しさに似た絶望感がそっと胸を満たすようだった。いつの間にか、削っていた地面の色が少し濃く変わっている。掘り起こした土をスニーカーの側面で寄せるようにして被せ誤魔化した。そういえば、昔未央と一緒にこうしてよく泥団子を作ったものである。俺が作った泥団子はすぐに割れてしまったけど、何故か未央は泥団子を作るのがとても上手だった。あぁ、その時は確か親戚のおじさんも一緒に遊んでくれていたんだっけ。名前は知らないけど父さんと同じくらいの歳で、両親が家にいない日にうちに来ては、決して高くはないけど美味しいお菓子をくれたおじさん。俺たちの誕生日には、玄関の前にケーキを置いてくれていたおじさん。なぜ両親から隠れてそんなことをしていたのかはわからないけど、とても優しいおじさんだった。そのおじさんとも、最近は——未央が父さんから虐待を受けていると聞いた頃くらいから、長らく会えていない。
おじさん、元気にしてるかな。そんなことを考えながら俺は七瀬に問いかける。
「普通って、どこからが普通なんだ?」
自分で言っておいて、なんだか馬鹿らしい質問のように思えた。
七瀬は少し悩むようにして言う。
「普通とか常識とかって、本当はわかりやすい基準なんてないんだよね......『当たり前』だってそう。私が言ったことだけど、私自身もあんまりわかってなかったりする。でも、勇吾くんが今苦しんでるのが普通じゃないってことはわかる。よくよく考えてみたら変な話だよね。『普通』はわからないのに『普通じゃない』はわかるなんてさ。みんなそんなもんなのかな? 私が馬鹿だからわかってないだけ?」
おどけるような口調だった。質問の答えとしてはあんまり成立していないけど、それでも七瀬なりに真剣に考えてくれたということはわかる。
いい奴なんだ。最初から、今の今まで。
「ほんと、みんなが楽しく生きられたらいいのにね......あ、電話かかってきた」
そう言って七瀬はショートパンツのポケットからスマホを取り出す。指紋認証でロックが解除された液晶画面には、「胡桃さん」と表示されていた。きっと俺に関する話だと思ったのだろう、七瀬は席を外すことなく通話ボタンを押し電話に出る。
「もしもし胡桃さん......え、緊急事態? それ勇吾くんにも聞かせた方がいいやつ? わかった待ってスピーカーにするね」
スピーカーってどういう意味?そう聞く間もなく液晶画面が操作され、寅松の「はい」という声が聞こえてきた。あ、そういうことか。耳に当てなくても声が聞こえるなんて、便利な機能だな。
「したよ」
「じゃあ話しますね。驚かないで聞いて欲しいんですけど、数原くんの母親が事務所に来ました」
「......え?」
あまりにあっさりと発されたその言葉に思わず固まる。声を出せた七瀬はまだいい方で、俺は息まで止めて硬直していた。それから数秒遅れて嘘だろ、と呟く。スマホの液晶画面が、酷く恐ろしいもののように見えた。
母さんが来たら、終わる。別に母さんは父さんの味方じゃないけど、というか離婚したから多分嫌いなんだろうけど、それでも、母さんに見つかったら終わる。そんな気がした。
「来たって......なんでそんなことに......」
戸惑いつつもそう質問できるだけ、七瀬は冷静だった。
「さっき見せた孤児院に送る書類、ありますよね。あれに子供の誕生日と血液型を書く欄があるらしいんですけど、覚えてないらしくって。本人に直接聞こうとして来た、と言っています」
「親が子供の誕生日を覚えてないなんてこと、あるの......?」
「まぁ、子供を孤児院に送ろうとする母親ですからねぇ。信じられない話ではないでしょう」
「でも、それならなんで勇吾くんの居る場所がわかったの?」
「家に数原くんが書いた電話番号のメモがあったと言っていました。それを見て電話してきたんでしょう。一応こちらもビジネスなので場所を聞かれて教えないというわけにはいきませんし。ちなみにその時電話に出たのは京さんでした」
七瀬が沈黙した。あの野郎とんでもないことしやがって、と言うような目だった。
寅松は続ける。
「今は京さんが彼女の相手をしています。あの詐欺師スキルを生かして機嫌をとっているようです......しかし持ってもあと十数分かと。彼女、机の上に出した書類、片付ける気配ないですし」
「胡桃さんは今どうしてるの? ていうか、来栖サンに勇吾くんの血液型とか伝えてもらうんじゃダメなの? 資料あるんでしょ?」
「私は今対策を練っているところです。京さんから言ってもらうのはダメでしょうねぇ、子供記入欄に直筆サインと親指の印が必要っぽいですから。なので数原くんが来ないと多分彼女は帰りません」
「そんな......」
どうする、と七瀬が目で聞いてきた。俺はもちろん行きたくない。本当は、あの人と会うのだって嫌だ。でも、俺が行かないと依頼が進まない。俺が行かないと、未央が助からない。
じゃあ、どうするべきか。
簡単な選択だった。
「行く」
「......行くって、そんなの」
「行く」
「でも」
「俺が行くしか、ないんだ」
俺を見る七瀬の瞳が、戸惑うように揺れた。きっとこの選択は正解じゃない。行かないのも正解じゃない。わかってる。こんな散々な状況に正解なんて存在するわけがないんだ。しかしだからこそ、俺は考えなくちゃいけない。救いたいもののために、今自分は何をすべきなのか。何をするのが最善なのか。
今更自分の身なんて案じていられるわけがない。だって俺は、最初から狂っていたんだから。
だいたい、未央と一緒にいたいなんてとんだ我儘だったんだ。未央が救かればそれでいい。
それでいい。
これは自分に言い聞かせてるんじゃない。自分の信念を再確認した、それだけなんだ。
だから、辛いなんて、寂しいなんてそんな感情、これっぽっちも抱いてなんか、ないんだ。
「......大丈夫だよ、七瀬。依頼内容は最初から、未央を救けることだけだったんだから。それに七瀬は、俺の為に怒ってくれた。嬉しかった。それだけで十分なんだよ。本当に、十分なんだよ」
「......勇吾くん」
じゃあなんで泣いてるの、と七瀬は言った。慌てて頬に手を当ててみると、濡れていた。言われるまで気付かなかった。
こんなの、気付かないままでよかったのに。
「......関係ないじゃん。放っといてよ」
俺はできるだけ冷たい言い方になるように努めた。自分は依頼人で、七瀬はそれを請け負ったに過ぎない。そう胸に深く刻み込むように、拒絶するように。こうでもしないと、優しい七瀬は俺を心配してしまうだろうから。
こうでもしないと俺は、ありもしない希望にすがろうとしてしまいそうだったから。