Ep,1 奴隷少女を解放せよ
「いやぁ、人生カスタマーセンターなんて言っちゃってますけどね、こんな重要な依頼が来ることってほとんど無いんですよ。大抵は迷惑電話か通販のかけ間違い。毎日毎日、ほんと嫌になっちゃいますよ」
——そんな呑気に話している場合じゃないんだよ、という言葉は、なんとか喉元で引っ込めて。
都会の端っこにあるありふれたビルの三階で、俺は来栖京と名乗る男に笑顔を向けられていた。身に纏う清潔感と先ほど渡された名刺のこともあり、なんとなく営業マンに似た印象を抱く。
呑気ににこにこしやがって、きっと楽して生きてきたんだろうな、と思った。
「それで、本日はどのようなご要件で?」
「......要、件は」
驚きで言葉が詰まる。焦りで冷や汗が額に滲んだ。
確かにコイツの声は電話に出た奴のものとは違うけれど、だから俺が直接要件を話したのはコイツじゃないんだろうけれど、それでもてっきり、仲間内で情報の共有くらいはしてあるものだとばかり思っていたから。
これをまた一から話せば、どれほど時間がかかる?
その間に未央は、どれほどの拷問を受ける?
壁に滲んだ血がフラッシュバックして、吐き気がした。
「京さん、これ」
かすかに聞き覚えのある声と、視界の端で揺れる薄桃色の長髪。吐き気を抑えてそれを見上げると、どうやらその女性は来栖にとある資料を渡しに来ていたらしい。
かろうじて見えた紙束の一番上には、俺と未央の顔写真が印刷されていた。なるほど、知っている声だと思えば、コイツが俺の電話に出た相手だったというわけだ。
確か、寅松胡桃と言っていたか。
「ありがとう。......えー、と」
来栖は卓上に置かれた資料に軽く目を通し、「失礼。ご要望は大方把握しました」と続ける。
「ご依頼主はあなた、数原勇吾様と、ご兄妹の未央様。ターゲットは宇月豊人様。
依頼内容は、『宇月豊人に奴隷にされている妹を救けて欲しい』——これでお間違いないでしょうか」
幸い、理解力は人並み以上にはあるらしく、来栖は俺達の現状を一瞬で把握した。簡潔に述べてくれたおかげで、俺としても今一度敵意を確かにできて一石二鳥だ。
「あぁ。宇月豊人に関しては、傷つけても殺しても構わない。未央を救けだしてくれさえすれば、それでいい。金だっていくらでも払う。だから、一刻も早く未央を救けてやってほしい」
今自分が発した言葉に、嘘は一欠片も含まれていない。
俺は未央と、妹と、もう一度普通の日々を過ごしたいだけなんだ。
そのためなら、誰が死んだって構わない。
「ではまぁ、お支払いに関しては後々精算させていただくとして......とりあえず頭金で10万円ほど頂けますか? できれば今日明日中に」
来栖はにこりと微笑むと、茶色い封筒を差し出してきた。きっと、これに10万入れて渡せ、ということなのだろう。少々金にがめついような気もするが仕方ない、未央のためだ。奥のドアの方から小さく「うわっ」と聞こえてきたような気もするけれど仕方ない、未央のためだ。
貯めてきたお年玉でギリギリ払えるだろうか。それでも無理なら......スリでもなんでもすればいい。犯罪だとか捕まるだとか、そういうことは今、どうでもいいのだ。
警察が俺を相手にしてくれないのだったら、俺だって警察の言うことなんて聞かない。それだけだ。
「わかった」
「ご決断が早くて助かります。しかしこちらとしては頭金を受け取らないことには動けないので、頭金の用意も早急にお願いいたします」
「え」
今すぐ動いてはもらえないのか。それだけを頼りにこんなふざけた場所までやって来たのに。やっぱり俺の判断は間違っていたのだろうか。
しかし、ここで一からやり直すことこそが一番のタイムロスなのだということを、俺は知っている。
——仕方ない、か。
「......わかった。今すぐにでも用意する。今日中だと、何時までなら対応してもらえるんだ?」
「深夜2時ごろくらいまでなら。翌朝だと別の者——あそこにいる胡桃、寅松胡桃が対応すると思います」
言われて寅松にちらりと視線を送ると、軽く会釈された。先程は気付かなかったけれど、赤縁の眼鏡をしている。普通に、というかそれなりに綺麗な人だ。
こんな状況じゃなかったら、俺も人並みに恋なんてしていたのだろうか。ふと考えて馬鹿らしくなった。
「じゃあ、頭金ができ次第電話する」
要件は済んだ。一刻も早く頭金を作らねばと立ち上がり出入り口に向かって歩き出す。尻に残ったソファの感覚に違和感を覚えていると、来栖も立ち上がり俺の後ろを歩いていることに気づいた。見送りなんてしなくていいのに。やっぱり営業マンじゃないか、と思う。
万が一電話番号を忘れた時のために、ズボンのポケットに入れた名刺を確認してから、俺はドアノブに手をかけた。握る手に少し力を加える。ちゃりん、とドアに付けられた鈴が鳴った。
「では、本日のご利用、誠にありがとうございました。頭金の件、首を長くしてお待ちしております」
真面目そうな性格がにじみ出た、斜め45度の見事な礼。
「......ありがとう」
心にも無い礼を告げて、俺はこのふざけたオフィスを出た。
見慣れた景色に温かみなんてものは微塵も感じない。生い茂る街路樹の葉、談笑する小学生達、ゆっくりと流れる時間。この街を構成する全ての要素が、不幸な俺達を嘲笑っているようにしか見えなかった。
「数原」と書かれた表札に軽くため息をこぼし、我が家の惨状を想像する。否応無く想像してしまう。
数分の葛藤の末、意を決してドアノブに力を込めると、案の定鍵はかかっていなかった。不用心なのはいつものことなので今更言及したりはしない。
ただ、つん、と鼻腔を刺す異臭に、本日2度目の吐き気を催した。
「......ただいま」
なんとなくつぶやいてみた。もちろん返事なんて返ってこない。
とはいえ靴は玄関にあるので母さんは家にいる。赤のハイヒールなんて似合わないんだから、いい加減履くのをやめてほしいと思った。まぁこれもいつものことだから何も言えないけど。
生ゴミだらけの床をなんとか踏み分けてリビングへ向かう。ゴミ袋に入っているのはまだいい方、ひどいものなんてそのまま床に投げ捨てられている。今日も廊下のど真ん中にコンビニ弁当のゴミが新入荷していた。
リビングに入る。
電気のスイッチを押す。つかない。
そういえば電気は昨日止められたんだった。
まぁ、まだギリギリ見える暗さだし、と自分に言い聞かせ、薄暗い部屋の中目を凝らし母親の姿を探す。
すると、端っこの方にいた。
見慣れた厚化粧と派手な服、そのままの格好で泥のように眠る母親の姿が、そこにあった。
それ自体は見慣れた光景だから問題ない。
問題ないのだ。
しかしただ一つ、たった一つ、この部屋の中で異質さを放っている物があった。
母親のそばに転がっている、高価そうな赤い鞄。
嫌な予感がした。
恐る恐る鞄に近付き値札を見ると、そこには「9万円」と書かれていた。
もう一度、母親のそばをよく見渡す。
嫌な予感がした。
嫌な予感が当たった。
俺が毎年お年玉を入れて貯めていたポチ袋が、空になった状態で母親の手に握られていた。