第一部 宝の小箱 9
「ねぇ、おばさんからも何とか言ってよ」
ほとほと困り切った顔で、由利はカウンターの向こうの店長に助けを求めていた。
ここ『ブルーノ』の程好い暗がりには、聡美の悲痛な泣き声が広がっている。
カウンターに突っ伏して哭き続ける姪の姿に、児島のおばさんは一度、静かにその瞳を閉じた。
「そうねぇ…確かに、その小林君も、ちょっと酷いわね」
「もっと、別の言い方があったと思うんだけど…」
「でも、それだけ真剣だったのよ」
店長の言葉に、由利も頷く。
だが、聡美は、そんな言葉を認めたくはなかった。
「でも、聡美ちゃん? 《本当》は、聡美ちゃんにも分かってるんでしょう?
自分のしていたことは、ただの真似事なんだ、って。それを分かっていて、でも認めたくないんじゃない?」
「おばさん!」
そんな言葉では、火に油を注ぐようなものではないか。
由利の抗議に、だが『ブルーノ』の店長は片目を瞑ってみせた。そして、そっと話し続ける。
「真似事が、悪いとは思わないわ。きっと、その小林君も、そこから入ったはずよ。
でも、彼はそれが『真似』なんだ、ってきちんと分かっていたと思うの。その中から、《本当》の『自分』を探し出さなくてはならないんだ、って…
多分、とても悩んだはずよ。沢山の存在の中から、一つ一つ 『自分』に合いそうなものを拾い上げては、以前に持っていたものを照らし合わせていくの。『自分』が納得出来る存在を、少しずつ選んでいって…
でもね、結局は、《本当》に『自分』と一致する存在なんてないのよ。
だから、そこで考えるの。
『自分』は、これらの何処を変えれば、『自分のもの』に出来るのか…
その考えの手がかりは、今迄に拾い集めたパーツの中に、いつのまにか紛れ込んでいるものよ。いいえ、無意識のうちに、そのパーツを変えてしまっていることもあるでしょうね」
ゆったりと、一言一言を区切る度に、柔らかな沈黙が泣き声を包み込む。
上下する小さな肩を抱いている由利も、店長の言葉をただ黙って、だがしっかりと受け止めていた。
「聡美ちゃんにも、小林君の文章を読んで『ここは、この方がいいのに』『これは違うよ』って思う所があったでしょう?
気付いていないかも知れないけど、その時、聡美ちゃんは『自分』の考えを創っているのよ。そんな風に思うことが、どんどんと『自分』を変えていくの。
変わることは、一瞬ではないわ。
一番、今、聡美ちゃんにとって大切なことは、小林君の『言葉』を一つ一つ受け止めて、きちんと聞き返したり、考え込んだりすることなのよ。その行為が、『自分』を変えていくの。
勿論、間違っていると思うなら、そう言えばいいわ。彼の意見が、いつも正しいとは限らないもの。反対してもらうことで、彼自身ももっと大きくなれるのよ。
話を聞いているだけだから断言は出来ないけど、小林君なら、きっと聡美ちゃんの意見にも真剣に応えてくれると思うわ」
「…私……出来ない……」
しゃくりあげる聡美の呟きに、由利は叱るように言った。
「ダメじゃない、聡美! やりもしないで諦めるなんて、全然、らしくないよ。
小林君のこと、分からないままでもいいの? 悔しくないの! いっつも先に進んでるけど、でも、その考えを一つ一つ分かっていけば、それだけ《差》も縮まるんじゃない。
『自分』なんて、きっと自然に変わるんだよ。ううん、小林君のことを、ただ教えてもらうだけじゃなくて…考えて、文句を言って…
そんなことをしてる時にはね、もう、聡美は変わってしまってるのよ」
「そうね。もう、随分と聡美ちゃんは変わってきているわ」
小さく、頭が揺れる。
否定するそんな仕草を愛らしく思いながら、店長は優しい瞳で言った。
「大丈夫。もう、自信を取り戻してもいい頃よ。
すぐに、きっと分かるわ。
これが、新しい『自分』なんだ、って…」
穏やかな日差しが、店内へと流れ込んでくる。
細長い光の帯は、その温もりで辺りを満たし、全てをその身の内へと抱き込んでいた……
今日は、空を見上げても黒い雲しか目に入らない。今にも雨が降ってきそうだ。
憂鬱なその雰囲気に少しむくれながら、聡美は足早に家へ帰ろうとしていた。
あの日以来、図書館の方には行っていない。由利に背中を押されながら何度も考えた末に、やっと自分の行為が『真似事』だと認めた後でも……それでも、聡美は図書館に行く気になれなかった。
勿論、学校でも会おうと思えば逢えるのだが……
逢って、謝りたい気はする。だが同時に…文句も言ってしまいそうで、怖いのだ。
(何よ! 全部、私が悪いみたいじゃない!)
そんな思いがあることも、事実なのだ。
何だか、ますます不機嫌になってしまう。素直でない自分が可愛くなくて、聡美の心は一層沈んでしまった。
そんな聡美に追い打ちをかけるように、大きな雨粒が頭上からぶつかってくる。
次の瞬間、激しい雨音が辺りを包み込んでいた。
「もう! 皆で私を苛めるんだからぁ!」
思わずそんなことを叫びながら、聡美は鞄を頭に乗せて走り出していた。
瞬く間に、雨は白いカーテンで聡美を周囲のものから覆い隠してしまう。よく見慣れているはずの帰り道が、まるで違う場所に感じられる。迷子になったみたいだ。
(あの角を曲がれば…)
見覚えのあるブロック塀が、一瞬、雨の幕の向こうに覗く。あと、もう少しで……
そう思った瞬間、聡美は何かに躓いていた。
まるでボールか何かのように、勢いよく、前へと飛び出す。
「あれ?」
そんな言葉を呟いた時には、聡美は激しく路面に叩きつけられていた。
ふぅ…っと……
……気が…遠く、なる………
こんな、アスファルトの上では、轢かれてしまう…直後なのか、暫くしてからなのかは分からないが、ふとそんなことを思い始める。
だが、意志も身体も、そんな思いに付いてきてはくれない。
「…おいっ!」
(……?)
「大丈夫か?」
随分と遠い所で、誰かが叫んでいる。倒れている聡美に気付いてくれたらしい。
優しく、そっと体が持ち上げられる。
「おい、聡美! しっかりしろ!」
(しっかりしてるわよぉ!)
…と叫んだつもりなのだが、声にはなっていないらしい。
薄い感覚で、雨に濡れていないことは分かる。背中には冷たい…コンクリートだろうか。
上半身を起こしながら、何度か呼び掛けてくれる…
その声や、周りの物音が少しずつ判別出来るようになってきて…漸く、意志と身体が微かに動き始めていた。
うっすらと、目を開けていく。
考えていたよりもずっと近くに、心配と不安、恐怖に満ちた男の子の顔があった。
「見えるか?」
「う、ん…」
ぼんやりと応えた後で…ふと、その声に聞き覚えがあることに気が付く。
(…?)
慌ててもう一度、しっかりと焦点を合わす。
瞬間、聡美は思わず悲鳴に似た叫び声を上げていた。
「陵史君!」
一気に、頬が赤くなってしまう。
どうして、こんな反応だけはスムーズに起こるのだろう…もう少し、鼓動も小さくなって欲しい。こんなに近くにいるのに、聞こえてしまうではないか……
「ど、どうして…」
そんな焦りを知られたくなくて、聡美は懸命に声を探していた。
「どうして、って…家に帰るところだよ。ほら、すぐそこに図書館が見えるじゃないか」
「えぇっ!」
本気で、聡美は驚いてしまった。
雨宿りが出来るようにと運んでくれていた軒下からは、確かに欅に囲まれた図書館が見えている。
(私、どうして……)
「そんなことより、何処か痛くないか? 見えるところには、打ち身と擦り傷しか無かったんだけど…」
「え? あ、うん…大丈夫みたい…」
彼が拭いてくれたのだろう。もう乾いている手足には、じんじんと低く響く痛みがあるものの、何とか動かせそうに思える。意識の方も、次第にはっきりとしてきている。
「立ち上がれるか?」
「うん」
差し伸べてくれる指先を素直に取ると、聡美はゆっくりと立ち上がろうとして……
「きゃっ!」
途端に、右足首からずきっ! と激痛が突き上げてくる。
再び倒れそうになった聡美を両手で支えると、陵史はそっと壁に立たせてくれた。
「捻挫かな…どうする? すぐ近くに、病院があるけど」
「う、ううん! 大丈夫…」
「じゃないかも知れないだろ? 一応、診てもらった方がいいよ」
「………うん……」
真剣な陵史の言葉に、聡美は俯いてしまった。
こんなに生意気な自分を、《本当》に心配してくれる…
急いで二人の荷物を纏めている陵史の姿を、壁に凭れながら、聡美はじっと見つめていた。
…知らずに、涙が込み上げてくる……
「よし。じゃぁ…」
立ち上がってそう言いかけた陵史に、聡美はふっと倒れ込んでいた。
「おい! 聡美?」
心配する声を嬉しく思いながら、聡美はそっと囁いていた。
「ありがとう…あんな、酷いことを言ったのに…私……」
「……謝るのは、俺の方だよ。あれから、何回後悔したか…
…ごめん……」
静かなその言葉に、聡美は声を上げて泣き出してしまった……
雨の勢いは少しも弱まらず、激しい音を立てて路上を叩き続けている。
だが、陵史の耳には、聡美の泣き声だけがいつまでも…いつまでも、響き渡っていた……
「良かったじゃない。捻挫一つで仲直り出来たんだから」
「良くなぁい!」
見舞いに来てくれた由利に、聡美は怒ってみせた。
幸い、何処にも異状は見つからなかった。ただ、念の為に二、三日は家に居るよう言われただけで、すぐ治るそうだ。
「それで、わざわざ家まで送ってもらったんでしょ? 肩を貸してもらって」
「由利! 私はタクシーでいい、って言ったんだからね?」
「でも、最後までは断れなかったのよねぇ」
「もう、いいっ!」
赤くなって口を尖らせた聡美に、由利は笑い出している。
だが、すぐに真面目な顔に戻ると尋ねてきた。
「でも、本当に良かったじゃない。すぐに描いてみる?」
「う〜ん…でも、改めて頼まれたら、描けないのよ」
家まで送ってもらった時、陵史は聡美のノートを返してくれたのだ。彼は、あのノートをいつでも渡せるようにと、肌身離さず持っていてくれたらしい。
そのノートの一番最後のページに、聡美が消し忘れた落書きが残っていたのだ。すぐにその場面が自分の作品のものだと気付いた陵史に、別れ際、聡美は挿絵を描いてくれるように頼まれてしまっていた。
「私だって、絵があったらいいなぁ、って思ってたけど…まさか、自分で描くなんて思ってもみなかったし…」
「文句を言わないの! これで、小箱の鍵が見つかったんだから」
「えぇ?」
きょとんと見上げると、由利は呆れて溜息を吐いている。
「ほんと、聡美ってオトボケなんだから。もう、新しい事が始まってるじゃない。『絵』って、正直に『自分』が出てくるし、一気に小林君との《差》なんて無くなるかもよ?」
「そうかなぁ…」
「ほら、しっかりしろ!」
軽く頭を小突かれる。温かな笑顔で見守ってくれる由利に、聡美は少しはにかんで…だが、しっかりと頷いてみせた。
「……うんっ!」
ところが、それからが大変だった。
落書きをしていたくらいなので、描きたい場面と構図はすぐに決まるのだが、背景や小物がなかなか思い浮かばない。空想の世界なので、くっきりと輪郭が固定されないのだ。
衣装などは、本を調べたり映像を探せば、それなりに相応しいものを選べる。だが、例えば、絵では曖昧に隠されている、その衣装を纏う女性の手袋や靴はどんなものだろう? 背景になる建物や、壁に掛けられた絵画は? 庭に咲く花や木々の姿は?
ほんの些細なことなのに、全く資料が見つからない時には投げ出したくもなる。由利もおばさんも、そして陵史自身も雰囲気が合えばいいと言ってくれるのだが…それに甘えたくもなかったのだ。折角見つけた引き出しを、聡美は全部開けてみるまで諦めたくはなかった。
素敵な絵本のように、日常生活が窺える小物を描きたい。恐らく、その多くは誰も気に留めないだろうが…だが、気にも留めないということは、違和感が無いということなのだ。それは、読み手が空想の世界を《現実》として受け入れる第一歩だった。
(どんな樹があるのかなぁ…)
この世界で同じような気候を探して…事典の中の絵を、こう変形させて……
……………………………………………………………………
…最初に借りた冊子の下書きが出来た頃には、もう梅雨も半ばを過ぎてしまっていた。
別に待ち合わせの時間を決めているわけでもないが、鉛筆描きの下絵を鞄に入れて聡美は図書館へと向かった。
今日、陵史が居るという確証は無い。だが、逢える『時間』には、必ず『彼』と出逢えることを聡美は知っていた。
欅の緑が、雨に打たれて優しい曲を奏でている。水溜りに描かれる無数の波紋や、傘が披露する陽気な歌声を楽しみながら、聡美はすっかり治ってしまった足を軽く弾ませていた。
また、以前のように、この『絵』についても言われるかも知れない。だが、別に構わない気がする。それで、二人が納得するまで互いに言い合えばいいのだ。そうすれば、きっともっと素敵なものが出来上がるだろう。
まずは、ここに『自分』の想いと考えを《全て》描いてみた。それがもっと素晴らしい方向に変化したり、この中に更に『彼』の想いと考えを描き込めるのなら、それはとても素敵なことではないか……
雨に煙る中、図書館に入り、いつもの部屋を覗く。
そこでは、当然そうであるかのように、陵史が本を読んでいて……
…そう……待ってくれているのだ……
そっと足を忍ばせたのだが、気付いて陵史が顔を上げる。そして、彼も不思議なことではないかのように、柔らかく微笑みかけてくれた。
この微笑みと優しい瞳……ずっと…ずっと、聡美が見ていたいもの……
「…いい?」
今でもまだ、胸の鼓動は高まってしまう。
「いいよ」
読んでいた本を閉じると、陵史は静かに隣の椅子を引いてくれた。
黙って、その席に腰を下ろす。
「雨の中、大変だったろう?」
陵史が大きな鞄を見てそう言うと、聡美は大きく頭を振っていた。
「ぜぇん、ぜん! …隆史君に逢える『時間』が来たんだもん。雨でも雪でも、関係ないわ」
そう、周りがどんな状況であれ、その『時間』には全てが素敵なものへと変わるのだ。
そっと見上げると、彼も少し照れた顔をしている。暫くの間、互いに見詰め合った後…二人はそっと笑い声を上げた。
「…そうだね。折角の『時間』、大切にしないと」
「そうよ」
聡美は、力一杯頷いていた。
雨の音が、大きな窓越しに聞こえてくる。その心地好い音色の中、鞄に手を伸ばすと、聡美は中からスケッチブックを取り出した。
「もしかして、そんな大きな紙に描いたのかい?」
「ううん。折れないように、挟んできたのよ」
そう言いながら、聡美は自分の決めた挿絵を一枚一枚、丁寧に陵史の前に並べていった。
下絵とは言え、細部まできちんと鉛筆で描き込んである。実は、絵など美術の授業でしか学んだことの無い聡美には、ペンなどを使うことがとても不安だったのだ。その不安を少しでも軽くしようと、下絵は必要以上に細かく描かれている。
「う〜ん…」
「…どう?」
心配になって、小さく尋ねてしまう。そんな聡美の想いに気付いたのだろう、すぐに陵史は素敵な笑顔で応えてくれた。
「とても素敵な絵だよ。本当に…自分の文章が、こんな世界を聡美に見せていたなんてね…」
「じゃぁ、これを基にしてもいい?」
再び絵に見入っている陵史の様子に、正直にほっとしながら聡美は言った。
「それよりも、この絵をこのまま使った方がいいんじゃないかな。鉛筆の優しい線が、素晴らしい雰囲気を出してると思うよ」
「え? そうかなぁ…」
そう言われて改めて見てみると、確かにこの下絵の方が『絵』としては生きているかも知れない。鉛筆の濃淡が醸し出す雰囲気は、少なくとも自分にはペンや他の画材で表現することなど出来ないだろう。
「……そうね。その方がいいかもね」
「よし、じゃぁ、決まり。
聡美。まだ絵を描きたいと思ってるなら、今度は童話を頼みたいんだ。子ども達に読む時、絵を一緒に見てもらおうと思ってね」
「紙芝居みたいに?」
「そう。そして、絵本みたいに。今の子ども達には、絵もとても大事な文章だからね」
「うん。やってみようよ。
…でも、隆史君って、本当に、子どものことを話す時、優しい目をするのね…」
「そう…かな?」
照れながら頭を掻いている彼に、聡美は悪戯っぽく笑ってみせた。
「そうよ。私、妬いてるもん」
「おいおい」
そんな言葉に、二人とも顔を見合わせると笑い出してしまった。
自分で言ったことなのに、頬が熱くなってしまう。そんな聡美を見て、陵史は一人、微かに頷いていた。
聡美自身は気付いていないかも知れないが…
……彼女は、今や、陵史の《光》そのものだった……