第一部 宝の小箱 8
あれから一週間。
聡美は毎日気に入ったものを選んでは、文章に纏めようと頑張っていた。陵史とも、ずっと逢わずにいる。今度出逢う時は、一通りこの文章が出来上がった時と決めたのだ。
お気に入りの出来事は、意外と簡単に、それも毎日きちんと見付けられた。
若葉が陽光に煌く夕暮れ時の静けさや、碧く透明なイヌフグリの群生。傾きかけた穏やかな春の光に抱かれ、シロツメグサを摘んでいる二人の少女……
だが、難しく書こうとするためか、なかなか鉛筆が動かない。映像は、すぐに心の中に浮かぶのだが……語彙が少なすぎるのだろうか…
ハガキを書いていた頃は『自分の言葉』だったことも忘れ、聡美は今、辞書を片手に悪戦苦闘していた。
そもそも、長い間ノートを前に座り続けることも難しいのだ。誘惑は幾らでもある。
そして、何より気になるのが、借りてきた陵史の文章だった。
『彼のような』美しい言葉を探し…『彼のように』一つの情景から何かを紡ぎ出そうとしたり……
苦しめば苦しむほど、陵史が凄い人のように思えてくる。ノートにたった二ページ書くだけでも、自分はこんなにも苦労しているのに…
《本当》に、悔しかったのだ。
だから、中途半端に逃げるつもりはなかった。どんなものでもいい。一生懸命、取り敢えずは最後まで書いてみよう……それが、聡美の目標だった。
それでも、時々は脇に置いてある陵史の作品に目を通してしまう。そこに書かれた考えや意見に一つ一つ頷いたり、少しだけ首を傾げたり…自分だったら、こう思うだろうな、と主人公に替わって台詞を考えることもあった。
「…絵があったら、もっといいのに……」
いつも、そう思う。素晴らしい文章だと思うのだが、聡美には雰囲気が堅すぎる気がするのだ。小さなカットでも、思考や想念の適度なクッションになるのに…
そんなことを考えていると、時々、勝手に聡美の鉛筆はノートに落書きを始めていた。
陵史の文章を思い浮かべては、気儘に線を流していく。そんな自分に気付くと、慌てて落書きを消してしまうのだが…いつのまにか登場人物の顔や声までもが固定されているのに気付いて、聡美は知らず真っ赤になってしまった。
(やだ! 私、また遊んでるぅ)
急いで落書きを消しては文章を練り、少し休んではまた落書きをして……
必死になって頑張ったのに…何処か落ち着かない気分で、それでも今日、聡美は一通りノートを書き上げていた。
読み終えた彼の作品もノートと共に鞄に入れ、すぐに図書館へと自転車を走らせる。
陵史のものには程遠いが、自分なりに一生懸命やったのだ。文章を書いていて、考えてしまうことも多かった。まだ新しい『自分』は見付けられないが、このまま続けてみれば、変われそうな気がする……
そんな報告をしたくて、聡美は欅並木の下を全力で走り続けていた。
いつもの部屋に入ってみると、机に向かって何かをメモしている陵史の姿が見えてくる。邪魔をしないようにそっと足音を忍ばせて近寄ると、そのまま黙って聡美は向かいの椅子を引いた。
「……?」
それでも、何かの気配を感じたのだろう。陵史がふっと、顔を上げる。そんな彼に、聡美は静かに微笑むと囁きかけていた。
「いいの、そのまま続けて。私、待ってるから」
「ありがとう」
柔らかい笑みを返してくれる。聡美が小さく頷くと、陵史は再びメモに戻ってしまった。
そんな様子を暫く見守った後、傍に並ぶ棚から本を選ぶ。
読み進んでいくにつれ、物語の情景が次第にはっきりとした輪郭を描き始める。陵史と出逢ってから、何だか以前よりもその光景の『色』が鮮やかになった気がするのだが…絵本を読むようになったからだろうか…?
「よし、終わった」
空想の時間に遊んでいた聡美の耳に、不意にそんな言葉が飛び込んでくる。
急いで本を閉じると、聡美は優しく微笑みかけてくれる陵史に目を向けた。
「それ、宿題?」
「いや、今度の作品に使おうと思ってね。それより、本当にごめん。随分と待たせてしまって」
「ううん、いいよ。
はい、これ。ありがとう」
鞄の中から彼の作品を取り出して渡すと、陵史は恥ずかしそうに少し頭を掻いて言った。
「感想は、聞きたくない気がするなぁ。やっぱり、自分の中を覗かれてるみたいで、照れるから…」
「私だって! 日記をこっそり見てるみたいで、ちょっとどきどきしてるもん。
でも…読んで良かったと思う。少しくらいは、陵史君のことを知ることが出来たんだもんね」
そう…まだまだ、本当に少しだけなのだろう…だが、「少し」は「無」ではないのだ。
そんな聡美の言葉に、陵史は小さく笑い声を上げるだけだった。
「それで…その、…陵史君?」
「ん?」
「これ…えっと……
……読んでみてほしいの」
そう呟きながら取り出したノートを、聡美は真っ赤になりながら彼に差し出していた。
「……これは?」
不思議そうな面持ちで受け取る陵史に、聡美はゆっくりと…考えるようにしながら言葉を紡いでいた。
「陵史君の詩、読んでね…私も《光》になりたいな、って……ううん。私、自分で分かってる。
…私、まだ《光》になんてなってないのよ……」
「聡美……」
真剣な瞳で否定しようとする陵史を、聡美は真っ直ぐ見詰めて遮った。
「だから…私も相応しくなろう、って……『自分』を見付けたくて、陵史君みたいに文章を書いてみたの…」
「それが、このノートなんだね…」
こくんっ、と頷くと、彼は重ねて尋ねてきた。
「ここで読んでもいいのかな」
一瞬、迷ってしまう。恥じらい、恐怖、期待……全てを飲み込んで、聡美はもう一度、黙って頷いていた。
真面目な表情でノートを開くと、陵史は文字の一つ一つを丹念に追い始める。そんな彼の姿を正視出来なくて…
聡美は先程まで読んでいた本を、再び手に取っていた。
だが、文字を読むことなどまるで出来ない。同じ行を何度も何度も読み返して、それでも何が書いてあるのか頭に入ってこないのだ。心の中はすっかり動転していて、今すぐこの場から逃げ出したいくらいだった。
それでも…必死になって、聡美はその席に留まり続けていた。
やがて、ノートを閉じる小さな音が、普段の何倍もの大きさで耳を貫いてくる。
聡美が恐々と上目遣いに見てみると、そこには陵史の厳しい顔があった。
「…多分、はっきり言った方がいいと思う」
そんな低い言葉に、聡美はびくっと体を震わせてしまった。
「俺は、聡美の『何か』を捉える視点はとても凄いと思ってる。でも、その素晴らしい力を、こんな文章で穢したらいけないよ。聡美は、感じ取った情景を無理に言葉で説明しようとして、その視点を歪めてしまってる。しかも、そこから抽象的な考えを取り出して、無理に意味を付加しようとしてるんだ。
確かに、文章を書いて『何か』を考えることは、『自分』を高める行為だと思うよ。でも、それは一つの方法、手段でしかないんだ。絶対に、目的じゃないんだよ。
きっと、このノートは苦労して書いたと思う。でも、『何か』を考えること、それ自体はそんなに難しいものじゃない。こんなことは言いたくないけど…聡美は、俺の真似をしてるだけなんだ。
無理に俺の鍵を差し込んで、引き出しを抉じ開けようとしてるんだよ……」
その言葉を聞いた瞬間、ぱっと勢いよく聡美は立ち上がり、陵史を睨み付けていた。
悔し涙で、その瞳が濡れている。
「そんなに言わないでよ! 私だって、陵史君の為になりたくて…必死で頑張ったのに…なのに……!」
図書館中に響き渡っていることも意に介さず、聡美は力一杯、叫んでいた。
…悔しかった…本当に、悔しかった……
「聡美…『自分』を探すのは、俺の為じゃない。聡美自身の為なんだよ」
そうかも知れない…そうかも知れない……
…だが、今はその静かな口振りが、一層癪に障るのだ。
「いつもいつも、ずるいよ! そうやって、一人で先に行くんだもん!
もう、いい。帰る!」
激しい勢いで鞄を手にすると、聡美は部屋の外へと駆け出してしまった。
背後で、慌てて立ち上がる音がするが、振り返る素振りなど見せない。
そのまま、図書館を出てしまう。
「聡美!」
陵史の叫び声を後ろに残したまま…
……自転車は、夕暮れの中を走り去ってしまった……