第一部 宝の小箱 7
残念ながら、今日は雲が多い。それでも、時折流れてくる青空の帯に太陽の縁が触れた瞬間は、大地の上に斑の泡粒が揺れ動く。
薄く広大な影の帯と、淡く儚い光の帯とに交互に飲み込まれながら、聡美は昨日の図書館での出来事を由利に話していた。
「なぁんだ。聡美の『彼』って、小林君だったんだ。
ふ〜ん…でも、確かに、ちょっと格好良いね」
目に心地好いリズムで立ち並ぶ木々の下、昼食の弁当を開きながら何気無い調子で由利が呟く。
だがその言葉に、聡美は思わず大きな声で叫んでしまった。
「えぇ! どうして、由利が知ってるの?」
本気で驚いている聡美の様子に、由利は目をぱちくりさせながら当然のように応えてきた。
「だって、同じ高校じゃない」
「えぇ〜っ!」
これ以上無いくらいに赤くなった顔で、勢いよくぱっと立ち上がってしまう。
そんな聡美に、呆れながら由利は言った。
「やだ、知らなかったの?」
あまりのショックに、かくかくっと頷くことしか出来ない。
「…ほんと、聡美ってオトボケなんだから、もう!」
「だって…だってぇ」
大袈裟に溜息を吐いている由利の前で、どうにも落ち着かなくて、ただただ右往左往してしまう。
そんな、本気でうろたえている聡美の姿に、思わず由利は吹き出すと手を取って言った。
「ほら、座りなよ。同じ学校で良かったじゃない。もう、わざわざ図書館まで行かなくてもいいんだよ?」
「…でも、…それって複雑ぅ」
一応は座ったものの、今度は胸の動悸が激しくなってきてしまう。その大きな音が気になって、聡美は徒に手を弄んでは、時々胸元に強く押し付けていた。
「そんなところが、『ろまんちすと』なのよ。
いいじゃない。中学校を、首席で卒業するような奴だよ? それなりに運動も出来るし、でも、全然、でしゃばらないし。勿体無いくらいじゃない」
「……私…どうしよう……」
「え?」
覗き込んでくる由利の視線を避けるように、聡美は僅かに濡れた瞳を下に落としてしまった。
『陵史』と言う現実が自分に近付けば近付くほど、逆に『自分』との《差》が広がっていく気がするのだ。きちんとした『自分』を持ち、しかも客観的にその『自分』を分析して…でも、理想ばかりでなく、全体を観ながら《本当》の『自分』を主張出来る……
いや、それだけではない。何をしても、自分は彼には敵わないのだ…
一方的に、彼から『何か』を貰い続けることは、簡単で、それはそれで楽しいものなのかも知れない。だが、そんな一方通行の関係は、聡美には悔しく思えるのだ。
(自分一人で、なんて…ずるいよ……)
だが……今の聡美に、一体何が出来るだろう…
あれだけ『彼』のことを知りたかったのに……今はもう、知らない方が良かったと思い始めている自分に気付いて、聡美は急に怖くなってしまった。
(違う、そんなんじゃない…!)
そう、まだ…まだ、知りたいのだ。自分の中の『自分』は、もっともっと陵史のことを知りたがっている……
「聡美…?」
心配に満ちる声が聞こえる。聡美は静かに顔を上げると、見守る由利へと、震える声を投げかけていた。
「由利…私……陵史君に何もしてあげられないのよ……」
「聡美……」
由利は小さく溜息を吐くと、疎らな雲に覆われた空へと視線を向けた。
「…聡美って、真剣に人を『好き』になるんだね」
「え…?」
細く鋭い裂け目が、純白の膜に浮き上がる。その天の隙間から零れて、斜光が薄暗い空に澄んだ幕を引いていた。幾重もの透明な膜は、雲を背景に濃淡を描き、大地の存在を目映く縁取っている。
「私なんて、ただ、好きになるだけで…一緒に居て、一緒に笑ってたらいいんだ、って…そう思ってた。
…でもね、聡美を見てたら思うのよ。私なんて、まだ子どもなのかな、って。悔しいけど、私、まだ誰も《本当》には『好き』になったことなんて無いんだな、って……」
「そんなこと、ない!」
「聡美…人を『好き』になる形ってね、きっと沢山あると思う。でもね、どんな形をしてても、きっと、誰でも聡美みたいに悩んじゃうのよ…
私ね…本当は、とっても聡美が羨ましいんだぁ」
「由利……」
思わず、俯いてしまう。
そんな聡美に小さく笑いながら、だが真剣な口調で由利は続けた。
「でもね…どんなに悩んでも、それに負けたら終わりじゃない。自信の無い『自分』なんて捨てて、新しい『自分』を探すべきなんじゃない? 私だって、口で言うほど簡単じゃないって分かってるけど…私、他には何もしてあげられないから」
「…ううん。そう言ってくれただけで、…『何か』を探せる気がする。私の中の小箱……まだまだ、引き出しがあるかもね…」
今はまだ、少しだけだが…それでも、明るい微笑みが舞い戻ってくる。そんな聡美が顔を上げた先で、由利は力一杯大きく頷くと、膝の上の弁当箱に手を掛けていた。
「はいっ! じゃぁ、真面目な話はそこまでにして、早く食べちゃお」
「うん!」
薄墨を貫いた斜光の束は、厚く、大きく広がっていき、少しずつ雲が輝きを取り戻していく。
風によって光が流れ、通り過ぎていく木々の下……やがて楽しい笑い声が沸き起こり、その音はあらゆる存在へと届けられていった。
「こっちだよ」
自転車に乗って先を進んでいた陵史が、振り返って脇道を指差している。
聡美が頷くのを確認してから、彼は欅通りの半ばを右に折れていた。
陵史の後を追う聡美の頭上の天蓋は、今ではもう、すっかり晴れ上がっている。だが…胸中の悲しみや苦しみは、未だ霞みとなって黄金の光を翳らせるのだ…
こんなにも近いのに……その間の溝は、なんて大きいのだろう……
そんな自分の気持ちに気付いているのかどうか…陵史の笑顔が、何度も振り返ってくれる。その温かく、柔らかい微笑みは…だが、一層、聡美の心を複雑にするのだ……
「ほら、ここなんだ」
そんな彼の言葉に我に返ると、聡美は慌ててブレーキをかけていた。
キ、キィィーッ!
アスファルトを擦る、甲高い音が響き渡る。
こんな不安定な自分を心配して、見守ってくれている陵史を知りながら……だが、聡美はそんな瞳も無理に無視してしまった……
…行き先の定まらない視線を、目の前の家に振り向ける。そこには、敷地一杯に押し込まれた感じのする家が、豊かな緑で縁取られていた。
陵史は何も尋ねずに、その家の車庫へと入っていく。
(陵史君…)
『彼』の優しさの一つ一つが…どうして、素直に受け入れられないのだろう……
小さく…聞こえないくらいに微かな溜め息を吐くと、聡美も彼に従って車庫の壁に自転車を立てかけた。
車庫の奥にあるドアを開けると、すぐそこが玄関になっている。陵史は先になって戸を引くと、聡美を待っていてくれた。
「さぁ、どうぞ」
この場になって、少し緊張してしまう。
その想いが顔に表れたのだろう、陵史は楽しそうな笑顔で続けてきた。
「大丈夫だよ。今は、誰も居ないんだから」
それはそれで、緊張してしまうのだが……
一呼吸置いて、中に入る。
そんな聡美の様子が可笑しかったのだろう、陵史は思わず噴き出していた。
「何よぉ」
それでも、まだ、口を尖らせるだけの余裕はあるのだ。
「いや、別に。聡美って、本当に素直なんだな、って…そう思っただけだよ」
そう言うと、彼は聡美の手を取って歩き始めている。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
彼の言葉の通り、素直に、聡美は赤く頬を染めてしまった。
彼の手が、とても熱く感じられる。なんて、温かいのだろう…
そのまま手を引かれ、聡美は二階へと上がっていた。
陵史は、階段に一番近いドアを開けると、少し照れくさそうに振り返ってくる。
「ごめん、中は狭いんだ。適当な所に座ってくれていいよ。すぐ、何か飲み物を持ってくるから」
「え? あっ…」
そのまま、陵史は階下に下りていってしまう。
少しの間、ドアの前で躊躇った後、聡美は部屋の中へと入っていた。
「…うわぁ……」
成程、確かに広いとは言えないだろう。
ベッドや机の他に、大きな本棚やパソコン、それに家庭用のコピー機まであるのだ。中央には小さなテーブルが出されてあるが、身動き出来そうなところは、その周辺にしか無かった。
そっと、静かにテーブルの前に座る。男の子の部屋と言うと、どうしても兄の部屋を思い出してしまうが、ここは比較にならないほどきちんと整えられていた。慌てて掃除をした雰囲気でもない。結構、沢山のものがあるのに、何処も乱雑ではないのは、普段からきっと整頓されているからだろう。
陵史が居ないのにじろじろと見たらいけないな、と思いつつも、目は興味津々に動き回ってしまう。
正面の壁には、大きな絵が掛けられている。晩秋の秋の風景を切り取ったものだ。その中心…淡い藍色に霞む家並みへと、一本の道が伸びている。その道が、何だか自分に誘いかけてくれているような気がして、知らず、聡美は立ち上がっていた。
絵の傍まで近付き、もっと詳しく見ようとしたのだが…近寄ると、それだけ粗雑な部分も目に映り、ただの「紙の上の絵」に変わってしまう。
急いでもう一度退がると、聡美は黙ってその『絵』の中を覗き込んでいた。
…カチ……
不意に、足下で音がする。驚いて落とした視線の先では、ティーカップを置こうとした陵史が苦笑いを浮かべていた。
「ごめん、音を立てないようにしたつもりなんだけど…」
「う、ううん。私の方こそ、勝手にじろじろ見ちゃって…ごめんなさい」
恥ずかしいところを見られた気がして、赤くなってしまう。
「いいんだよ。聡美に隠すものなんて無いからね。あの絵、気に入った?」
腰を下ろしてカップを受け取りながら、小さく聡美は頷いた。
「うん…。あの絵、不思議ね。淡く霞んだ家の中で、今、どんな出来事が始まってるのかなぁ、って……そんな風に見えてくるんだもん」
「へぇ…やっぱり、あんなハガキを出すだけのことはあるね」
陵史は嬉しそうに笑っている。そんな彼に、聡美は真っ赤になりながらも怒ってみせた。
「そんなこと、言わないでよ! 私なんて、何気なく書いてただけで…陵史君みたいに、上手く表現だって出来てないんだから」
聡美の言葉に、陵史は頷きながら静かに応えていた。
「それが良かったんだよ。何気なく通り過ぎてしまう物事を、一部でもいいから書き残すことって、本当はとても難しいからね」
「そうなのかなぁ」
何だか、まるで実感が無い。
「少なくとも、俺には聡美みたいな文章は書けないよ」
そんなことは無いと思うのだが、笑いかけてくれる彼を見ていると、そうも言えなくなる。陵史は、本当にそう想ってくれているのだ。例え、買い被りであっても…
「ありがとう…」
だから、聡美にはこれだけしか呟けなかった。
少しの間、沈黙が部屋の中を支配する。その静寂に身を委ねながら、上手に淹れられた紅茶を一口含むと、聡美は改めて周りを見回していた。
本棚の中は児童書ばかりだろうと思っていたのだが、何やら難しそうな名前の背表紙も結構並んでいる。児童書との比率は半分ずつくらいだろうか。大きな本棚の隅には、コミックも見えている。
それが目に入った時、正直に、聡美はほっとしていた。『彼』にしても、まるっきり自分達と違ったりはしないのだ…
ガラス戸の向こうには、他にも何枚かの小さな絵ハガキや、良く出来た陶器の少女達が見えている。
「こんな人形や、あの絵にしたって…高かったでしょ?」
パソコンやコピー機だってあるのだ。一体、どれだけのお金を使ったのだろう。
「全部、アルバイト料が化けたんだけどね」
「そうなの?」
「《本当》に欲しいものは、やっぱり、自分の手で買いたいからね」
「ふ〜ん…」
(私なら、親に出してもらうけどなぁ…)
絵や人形はともかく、パソコンやコピー機は本当に必要なら親に頼ってしまうだろう。
「ねぇ…なんか、オバサンみたいでやなんだけど…あの絵で、どれくらいするの?」
一番心に残る晩秋の風景画を示すと、陵史は軽く笑いながら、それでも気にせずに答えてくれた。
「三万、だったと思うよ」
「えぇ!」
思わず、聡美は叫んでしまった。たかが絵の為に…そう思う気持ちが、心の何処かにあるのだ。そして、そんなことを思う自分が醜く感じられ、視線を下に落としてしまう…
聡美の叫びに、陵史は真剣な顔で応えていた。
「《本当》に必要なものなら、俺はどれだけお金をかけてもいいと思うよ。絵だけじゃない。あの陶器の人形だって、金額に表せないくらいの沢山の『物語』を、俺にそっと教えてくれるからね」
「……ごめぇん…」
自分が、とても小さく思えてしまう…
身を縮めている聡美に気付いて、陵史は慌てて謝ってきた。
「あっ、ごめん。俺、いつも自分の考えだけを話してしまうんだ。聡美には、聡美の考えがあるはずなのに…」
「ううん!」
急いで顔を上げると、大きく頭を振る。
「私なんて、何も考えてないもん。…やっぱり、陵史君、凄いよ。文章を書いてるからかなぁ…『自分』って中心があるみたい」
「そうかな。…まぁ、確かに『何か』を書いていれば、それだけ考えることも多くなるけどね」
そう言って立ち上がると、陵史は机の上からノートの山とコピー用紙の束を運んできた。
「うわぁ…このノート、何冊くらいあるの?」
「二十冊くらいかな。勿論、途中までしか出来てないのもあるけど。
で、こっちがパソコンから打ち出したものなんだ。俺、字が汚いから、きっとこっちの方が読み易いと思うよ」
差し出されるものを、ぱらぱらと捲ってみる。
内容は、童話も含めたファンタジーが多いようだ。ファンタジーと言っても、巷で人気のある剣や魔法や学園ものばかりでないのが彼らしい。
何冊も見せてもらってから、ふと聡美は気が付いて尋ねていた。
「ねぇ、挿絵って無いの?」
その言葉に、陵史は困ったように笑ってくる。
「本当なら、必要なんだろうね。特に童話なんて、絵の印象が一番大事かも知れない。でも、俺、見る方は好きでも、描く方はまるっきり駄目なんだ。これでも、随分と練習はしたんだけどね」
「そうなんだ…なぁんだ。陵史君にも、苦手なものってあるのね」
また少し、ほっとする。それを感じたかのように、『彼』は片目を瞑ってみせた。
「安心した?」
「え…?」
恥ずかしさと嬉しさで、さぁっと頬が赤くなる。『彼』には知られていないと思っていたのに…
「……うん。…とっても、安心した!」
はにかみながらも、弾む口振りが素直に飛び出してしまう。そんな聡美を見て、陵史は思わず吹き出していた。
聡美も釣られて笑い出してしまう。そのまま暫くの間、二人は共に大きな声で笑いあっていた。
部屋の中の存在が、全て明るく輝いて見える。素敵な存在に囲まれて…何より、陵史が目の前で笑ってくれているのを感じながら、聡美はそっと心の中で決めてしまっていた。
『彼』にも、苦手なものはあるのだ。全てに完璧で、いつも孤高の世界に住んでいる人間なんて一人もいない。
…だったら、まだ『彼』に近付けるかも知れない……
聡美は、家に帰ったら、すぐにでも文章を書いてみるつもりだった。折角、陵史にも褒められたのだ。文章を書くことで、『彼』と同じように『自分』を……新しい『自分』を見付けられるかも知れない……
奇妙なくらいにすっかりと落ち着いた気分で、聡美は陵史を見詰め続けていた……
「じゃぁ、これを借りるね。暫くは、図書館にも行けなくなるけど…」
「大丈夫。その《時》が来れば、きっと逢えるよ。
…今迄みたいにね」
「うん!」
勿論、探そうと思えば校内で逢うことも出来るのだ。だが、聡美はそんなことをするつもりはない。きっと、『彼』もそうだろう。
「本当に、送らなくてもいいのかな」
「うん、平気よ。じゃぁね!」
少し自転車を押してから、陵史に向かって大きく手を振る。応えてくれる彼に笑いかけた後、聡美は家に向かって走り始めていた。
曲がり角の直前で振り返ると、陵史がずっと見守ってくれている。
(私だって…)
いつか、彼の役に立って、彼を見守ることが出来るかも知れない。今はまだ、『自分』に自信なんて無いけれど…絶対に、『彼』と並んでみせる。
(一人で頑張るなんて、許さないんだから!)
涼しい夜風に吹かれながら、聡美は知らず、素敵な笑顔を溢していた。
その風の一筋が、開いていた鞄の隙間に入り込んでしまう。欅の木の下で慌てて自転車を止めると、聡美は半ば飛び出していた紙を押さえ、きちんと鞄を閉じようとした。
ふと、押さえた紙に視線が向かう。どうやら、陵史から借りた冊子に挟まっていたらしい。
急いでその紙を抜き出すと、聡美は近くの街灯の下で広げていた。
「…詩?」
綺麗に印刷されたものだ。その頭には、聡美の名前が刻まれてある…
(……?)
あの人は 小さな背中を向けて 佇んでいた
温かな静寂をその身に纏い だが決して振り返らずに……
私には 分からなかった
……その《影》が 誰であるのか を…
そう……
ゆっくりと振り向いてくれる その時までは……
薄墨が 抱え込んだ《影》を 手放してくれる
淡いその身を微かに震わせ やがて《光》に変わりゆく……
私には 分かっていた
……その《光》を 待ち望んでいたと…
そう……
その人が 心の黄金と一つになると……
もう 独りで旅を続けることは無い
時の舟が吹き寄せてくれた その人を見付けたのだから…
そう……
私はもう 独りではない………
「陵史君…」
嬉しくて……泣きそうになってしまう。
そう…絶対に、独りではない。絶対に、独りになんてさせない……
「私…きっと、《光》になってみせる」
今でも、陵史は聡美のことを《光》として認めてくれているのだ。だが、それだけでは聡美自身が許せない。もっともっと…『彼』に相応しい『自分』があるはず……
それを見付けた時、初めて、《本当》に自分はこの詩を受け取ることが出来るのだろう……
ゆっくりと…大切に、紙を折り畳んで仕舞い込む。
そのまま、少しだけ閉じた鞄を見つめた後、聡美は再びペダルを踏み始めていた。