表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宝の小箱  作者: くまミニ
6/22

第一部 宝の小箱 6

 陵史が語ったものは、物語と言うよりも詩に近い気がする。ゆったりとしたその口調からか、静寂が語りの間に随分と織り込まれていくのだ。そんな、厳かな雰囲気に圧倒されているのか…子ども達も一言も口にせず、じっと彼を見つめている。

 聡美には、とてもこの物語を理解出来たと言い切る自信は無かった。だが、内容が進むにつれ、様々な場面は眼前に見えてくるのだ。

 緩やかに波打つ服で身を包んだ聖女達…その礼拝堂からアーチを通して覗く、側廊にある石像の数々…一本の柱の影に隠れた、頭部を失った女性像……

 視える場面は、次々と変化していく。こんな光景の一つ一つを言葉に表せたら、どんなに素敵だろう…

 《全て》ではないにしろ、彼はそれを試みているのだ……

 物語は続いていく。

 やがて…



 ……私は、《真》の詩を知ったのです。




 皆が個人で楽しむべき余韻を見守りながら、陵史は暫くの間、黙って立ち尽くしていた。

 ふと我に返って、小さく、手を叩く。子ども達の可愛い手が、そんな聡美の想いを大きな波へと変えていく…

「ありがとう」

 柔らかな笑顔が自分を真っ直ぐ見つめていることに気付いて、聡美は真っ赤になると俯いてしまった。

「このお話は、とっても難しかったと思う。でも、今は分からなくても、何度も読んでもらいたいんだ。知らない言葉も、一つ一つ調べて、自分の中でお話を創り上げて欲しい…

 それがきっと、『本を読む』ってことだからね」

「ねぇ、お兄ちゃん?」

「ん?」

 美和が確かめるように陵史を見上げている。

「だから、ぜぇ〜んぶ、良かったんだよね」

 彼はそんな小さな女の子の前に腰を屈めると、力強く頷いた。

「そうだよ」

「じゃぁ、いいっ!」

 そう明るく叫んで、女の子は嬉しそうに笑い声を上げている。

(そうね…)

 彼女には、お話の流れすら分からなかったかも知れない。だが、全てが良かったのだと知ることで、彼女はこの物語を知り始めているのだ。『本を読む』ということは、何も《全て》分かることではない。幼い子ども達でも、幼いなりに『何か』を理解出来ればいいのだ。

 その価値は、美和の笑い声に結実している……

 聡美は、そう確信していた。


 原稿用紙のコピーの奪い合いで、一頻り部屋の中がざわめきに満ちる。

 その後になって、漸く、聡美は陵史に近付くことが出来ていた。

「本当に、ごめん。退屈したんじゃないかな」

 そう言って見つめてくれる彼に、聡美は小さく、だがしっかりと首を左右に振った。

「ぜぇ〜ん、ぜん! とっても面白かったもん」

 にっこりと笑う先で、陵史は正直に照れて赤くなっている。

「…部屋、出ようか」

「うん」

 荷物を纏めた彼に並んで、部屋の外へと歩き出す。子ども達がからかいに来るが、それも玄関ホールまでだった。

 その足で、陵史は向かいの部屋に入っていく。こちらは、文庫や実用書などが並んでおり、部屋も先程の所よりは大きい。

 それに、何より、子どもが殆どいなかった。

「でも、これって童話じゃないね」

 空いていた椅子に座るとすぐ、聡美は手にしたコピーを示して言った。

 陵史はそんな聡美の言葉に軽く笑い声を上げている。

「そうだね。本当は、今日はこっちを読むはずだったんだ」

 そう言いながら、彼は鞄の中から数枚の紙を取り出して見せてくれた。

 『オカシナ村の好きな夢』と題されたそれは、きちんとパソコンで打ち込まれている。

 ぱらぱらっと見たところ、口調も柔らかく、始めから子ども向けに書かれたものだ。

「どうして変えたの?」

 こっちの方が、あの子ども達には良かったと思うのだが…

 不思議そうな顔で尋ねると、陵史は優しくふわっと微笑んでくれた。

「聡美がいたからね。あの物語は、聡美に初めて逢った日から、書き始めたものなんだよ」

「え? あっ…」

(やだ、どうしよう……)

 胸がどきどきして、真っ直ぐ彼を見ていられなくなる。

 彼は、自分をあの石像の女性のように見てくれていたのだろうか……

「…ありがとう」

 とにかく何かを言おうとして…だが、今はそれだけしか言えなかった。

 少しの間、沈黙が二人を包み込む。だが、それは決して重荷ではない。温かく、そっと…二人を共に抱き込んでくれる存在なのだ。

「…あの…ごめんね、私、本当にはよく分からなかったの。でも…場面だけは次々見えて…まるでね、絵本みたいに話が見えてきたのよ」

 暫くしてそう告白すると、陵史は笑いながら頷いていた。

「それでいいんだよ。物語なんて、読む人に分かる範囲で無理せず理解すればいいんだ。若しかすると、明日読めば、この話も全く違った印象を受けるかも知れない。でも、それは、読んでいる聡美が、それだけの『時間』を生きてきた証なんだと思うよ」

「ありがとう。今は、面白かった、って…それだけしか言えないけど、このコピー、何度も読んで考えてみるからね」

 小さく頷くその瞳が、とても澄んで見える。聡美は、どうしても頬が赤くなるのを止められなかった。

 彼がどんなことでも深く考え、自分よりもずっと高い所にいられるのは、こんな風に文章を書いているからだろうか。

 もしもそうだとしたら…もっともっと、彼の書いたものを読んでみたい。日記を覗くみたいで、気後れする部分もあるが…それ以上に、彼のことを知りたくて仕方が無いのだ。

 彼の文章を読めば、少しは《差》を縮められるかも知れない…

「ねぇ、陵史君。他にも、何か書いてるの?」

「あぁ、書いてるよ。途中で止まってるのも入れたら、結構、沢山あると思う」

「途中で止めることもあるの?」

 驚いて問い掛けると、彼は少し困った顔で言った。

「いや、止めるって言うか…『休む』んだよ。文を書くにも、時期があるからね。その物語を書く為の『時間』が、きちんと決まってるんだ」

「ふ〜ん…」

 その辺りは、聡美にはよく分からない。

「ねぇ、何でもいいから、読ませてくれない?」

「いいよ。ただ、何でも、ってのは無理だから…

 明日、俺の家に来るかい?」

「うん!」

 と勢い良く応えたものの、一瞬、聡美は考えてしまった。

 同じ年頃の男の子の家に行くことに、何処か躊躇いを感じたのだ。少なくとも、世間一般の常識からは、あまり好ましいものではないのかも知れない…

 だが、そこまでで聡美は考えることを止めてしまった。世間一般の常識が、いつも自分達に正しく当てはまるものではないのだ。今の聡美は、彼の家に行く事に、何の心配も不安も無い。

 何と言われようと、それが聡美の《真実》だった。

「じゃぁ、明日、またここで」

「え? あっちの部屋じゃないの?」

 きょとんとして聡美がそう言うと、陵史は微かに苦笑いを浮かべて言った。

「あっちだと、知ってる子どもが多すぎるからね」

「…そうね。ほんと、人気者なんだから」

 陵史は恥ずかしそうに、だが《本当》に嬉しそうに笑っている。

 何処か、嫉妬にも似た憧れと共に、聡美はそんな彼を見詰め続けていた。


「もう、ここでいいよ」

「大丈夫だよね?」

「もっちろん!」

 自転車のサドルに跨りながら、聡美は大きく頷いてみせた。

 辺りは、もうすっかり暗くなっている。だが、マンションとは五十メートルも離れてないのだ。

「明日、図書館で待ってるよ」

「…うん」

 何だか、こうして彼と話をしていることが、夢のように思えてくる。

 去年の夏休みから、ずっとずっと…そう、《本当》にずっと逢いたかった『彼』が、こんなにも傍にいてくれるのだ…

「じゃぁ。気を付けて!」

 何度想い描いたか分からない、柔らかな笑顔が背を向けて遠ざかっていく。

 その時、急に聡美は思い出して叫んでいた。

「あっ! ちょっと待って!」

 彼が、立ち止まって振り返る。

「名前! 名前を教えて欲しいの」

 そう…ずっと、知らなかったのだ。

「俺、小林陵史!」

「ありがとう! 陵史君…」

 大きく手を振ってくれる。

 再び背を向けた彼が、並木の向こうに隠れてしまうまで…長い間、聡美は見送っていた。

(…ありがとう……)

 心の中で呟いた後、大きく息を吸い込んで家の方へと向き直る。

 清爽な春の大気に包まれ、すぐに聡美は力強く自転車を漕ぎ始めていた。

 微かな宝珠が鏤められた天空の下…透き通った風で胸中が満たされる。

 《全て》に喜びを見出しながら、やがて聡美はマンションの中へと入っていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ