第一部 宝の小箱 6
陵史が語ったものは、物語と言うよりも詩に近い気がする。ゆったりとしたその口調からか、静寂が語りの間に随分と織り込まれていくのだ。そんな、厳かな雰囲気に圧倒されているのか…子ども達も一言も口にせず、じっと彼を見つめている。
聡美には、とてもこの物語を理解出来たと言い切る自信は無かった。だが、内容が進むにつれ、様々な場面は眼前に見えてくるのだ。
緩やかに波打つ服で身を包んだ聖女達…その礼拝堂からアーチを通して覗く、側廊にある石像の数々…一本の柱の影に隠れた、頭部を失った女性像……
視える場面は、次々と変化していく。こんな光景の一つ一つを言葉に表せたら、どんなに素敵だろう…
《全て》ではないにしろ、彼はそれを試みているのだ……
物語は続いていく。
やがて…
……私は、《真》の詩を知ったのです。
皆が個人で楽しむべき余韻を見守りながら、陵史は暫くの間、黙って立ち尽くしていた。
ふと我に返って、小さく、手を叩く。子ども達の可愛い手が、そんな聡美の想いを大きな波へと変えていく…
「ありがとう」
柔らかな笑顔が自分を真っ直ぐ見つめていることに気付いて、聡美は真っ赤になると俯いてしまった。
「このお話は、とっても難しかったと思う。でも、今は分からなくても、何度も読んでもらいたいんだ。知らない言葉も、一つ一つ調べて、自分の中でお話を創り上げて欲しい…
それがきっと、『本を読む』ってことだからね」
「ねぇ、お兄ちゃん?」
「ん?」
美和が確かめるように陵史を見上げている。
「だから、ぜぇ〜んぶ、良かったんだよね」
彼はそんな小さな女の子の前に腰を屈めると、力強く頷いた。
「そうだよ」
「じゃぁ、いいっ!」
そう明るく叫んで、女の子は嬉しそうに笑い声を上げている。
(そうね…)
彼女には、お話の流れすら分からなかったかも知れない。だが、全てが良かったのだと知ることで、彼女はこの物語を知り始めているのだ。『本を読む』ということは、何も《全て》分かることではない。幼い子ども達でも、幼いなりに『何か』を理解出来ればいいのだ。
その価値は、美和の笑い声に結実している……
聡美は、そう確信していた。
原稿用紙のコピーの奪い合いで、一頻り部屋の中がざわめきに満ちる。
その後になって、漸く、聡美は陵史に近付くことが出来ていた。
「本当に、ごめん。退屈したんじゃないかな」
そう言って見つめてくれる彼に、聡美は小さく、だがしっかりと首を左右に振った。
「ぜぇ〜ん、ぜん! とっても面白かったもん」
にっこりと笑う先で、陵史は正直に照れて赤くなっている。
「…部屋、出ようか」
「うん」
荷物を纏めた彼に並んで、部屋の外へと歩き出す。子ども達がからかいに来るが、それも玄関ホールまでだった。
その足で、陵史は向かいの部屋に入っていく。こちらは、文庫や実用書などが並んでおり、部屋も先程の所よりは大きい。
それに、何より、子どもが殆どいなかった。
「でも、これって童話じゃないね」
空いていた椅子に座るとすぐ、聡美は手にしたコピーを示して言った。
陵史はそんな聡美の言葉に軽く笑い声を上げている。
「そうだね。本当は、今日はこっちを読むはずだったんだ」
そう言いながら、彼は鞄の中から数枚の紙を取り出して見せてくれた。
『オカシナ村の好きな夢』と題されたそれは、きちんとパソコンで打ち込まれている。
ぱらぱらっと見たところ、口調も柔らかく、始めから子ども向けに書かれたものだ。
「どうして変えたの?」
こっちの方が、あの子ども達には良かったと思うのだが…
不思議そうな顔で尋ねると、陵史は優しくふわっと微笑んでくれた。
「聡美がいたからね。あの物語は、聡美に初めて逢った日から、書き始めたものなんだよ」
「え? あっ…」
(やだ、どうしよう……)
胸がどきどきして、真っ直ぐ彼を見ていられなくなる。
彼は、自分をあの石像の女性のように見てくれていたのだろうか……
「…ありがとう」
とにかく何かを言おうとして…だが、今はそれだけしか言えなかった。
少しの間、沈黙が二人を包み込む。だが、それは決して重荷ではない。温かく、そっと…二人を共に抱き込んでくれる存在なのだ。
「…あの…ごめんね、私、本当にはよく分からなかったの。でも…場面だけは次々見えて…まるでね、絵本みたいに話が見えてきたのよ」
暫くしてそう告白すると、陵史は笑いながら頷いていた。
「それでいいんだよ。物語なんて、読む人に分かる範囲で無理せず理解すればいいんだ。若しかすると、明日読めば、この話も全く違った印象を受けるかも知れない。でも、それは、読んでいる聡美が、それだけの『時間』を生きてきた証なんだと思うよ」
「ありがとう。今は、面白かった、って…それだけしか言えないけど、このコピー、何度も読んで考えてみるからね」
小さく頷くその瞳が、とても澄んで見える。聡美は、どうしても頬が赤くなるのを止められなかった。
彼がどんなことでも深く考え、自分よりもずっと高い所にいられるのは、こんな風に文章を書いているからだろうか。
もしもそうだとしたら…もっともっと、彼の書いたものを読んでみたい。日記を覗くみたいで、気後れする部分もあるが…それ以上に、彼のことを知りたくて仕方が無いのだ。
彼の文章を読めば、少しは《差》を縮められるかも知れない…
「ねぇ、陵史君。他にも、何か書いてるの?」
「あぁ、書いてるよ。途中で止まってるのも入れたら、結構、沢山あると思う」
「途中で止めることもあるの?」
驚いて問い掛けると、彼は少し困った顔で言った。
「いや、止めるって言うか…『休む』んだよ。文を書くにも、時期があるからね。その物語を書く為の『時間』が、きちんと決まってるんだ」
「ふ〜ん…」
その辺りは、聡美にはよく分からない。
「ねぇ、何でもいいから、読ませてくれない?」
「いいよ。ただ、何でも、ってのは無理だから…
明日、俺の家に来るかい?」
「うん!」
と勢い良く応えたものの、一瞬、聡美は考えてしまった。
同じ年頃の男の子の家に行くことに、何処か躊躇いを感じたのだ。少なくとも、世間一般の常識からは、あまり好ましいものではないのかも知れない…
だが、そこまでで聡美は考えることを止めてしまった。世間一般の常識が、いつも自分達に正しく当てはまるものではないのだ。今の聡美は、彼の家に行く事に、何の心配も不安も無い。
何と言われようと、それが聡美の《真実》だった。
「じゃぁ、明日、またここで」
「え? あっちの部屋じゃないの?」
きょとんとして聡美がそう言うと、陵史は微かに苦笑いを浮かべて言った。
「あっちだと、知ってる子どもが多すぎるからね」
「…そうね。ほんと、人気者なんだから」
陵史は恥ずかしそうに、だが《本当》に嬉しそうに笑っている。
何処か、嫉妬にも似た憧れと共に、聡美はそんな彼を見詰め続けていた。
「もう、ここでいいよ」
「大丈夫だよね?」
「もっちろん!」
自転車のサドルに跨りながら、聡美は大きく頷いてみせた。
辺りは、もうすっかり暗くなっている。だが、マンションとは五十メートルも離れてないのだ。
「明日、図書館で待ってるよ」
「…うん」
何だか、こうして彼と話をしていることが、夢のように思えてくる。
去年の夏休みから、ずっとずっと…そう、《本当》にずっと逢いたかった『彼』が、こんなにも傍にいてくれるのだ…
「じゃぁ。気を付けて!」
何度想い描いたか分からない、柔らかな笑顔が背を向けて遠ざかっていく。
その時、急に聡美は思い出して叫んでいた。
「あっ! ちょっと待って!」
彼が、立ち止まって振り返る。
「名前! 名前を教えて欲しいの」
そう…ずっと、知らなかったのだ。
「俺、小林陵史!」
「ありがとう! 陵史君…」
大きく手を振ってくれる。
再び背を向けた彼が、並木の向こうに隠れてしまうまで…長い間、聡美は見送っていた。
(…ありがとう……)
心の中で呟いた後、大きく息を吸い込んで家の方へと向き直る。
清爽な春の大気に包まれ、すぐに聡美は力強く自転車を漕ぎ始めていた。
微かな宝珠が鏤められた天空の下…透き通った風で胸中が満たされる。
《全て》に喜びを見出しながら、やがて聡美はマンションの中へと入っていった。