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宝の小箱  作者: くまミニ
5/22

第一部 宝の小箱 5

 その日、私は美しいたたずまいを見せて広がる湖の南岸を巡り、ヴィンの町へと入っていました。

 私には、帰るべき家などありません。肉親も友も既に亡く、ただ、幼少の頃から諸国を経巡り生きてきた者です。

 鮮赤に染まる傷の焔を振るいもせず、神々に毎朝供物を捧げることもありません。

 聖なる龍が護る妙なる月の雫も私の許では風となり、その煌く光だけでは宿に留まることも適わないのです。

 ですが、私にも詩を愛でる女神さまから戴いたものがあります。

 それがこの声と、清澄な音色を奏でる竪琴です。

 これらのものを携え、私は行く当ても無く、気儘に旅を続けています。

 飄々と街の中や草の原を歩んでは、眸の向く儘に全てを見つめ、空想の敷布を広げるのです。

 一面の白大理石が夕陽に輝く広場の泉で、光の泪が宙を舞う様を認めたなら、その煌く滴を纏う子ども達に私の想いは馳せていきます。

 夕闇が迫り、青闇が集う宵ともなれば、愛を語らう恋人達の優しい囁きを思い微笑みます。

 或いは風に向かい立ち掛かる、孤高の古木を見上げれば、その足下に横たわっている勇気ある人々の哀しい調べに瞳を濡らすのです。

 私は、詩人ではありません。

 ですが、心は詩を求めているのです。

 美しい言の葉と、消え入りそうな儚い音色…それらを私は知りたいのです。

 …えぇ、そうです。

 詩の女神さまの想いを多く心に残す為、私は足の向く先へと歩んでいるのかも知れません……


 そうです。その日も、私の想いは細やかな美を奏でるファロア女神さまの神殿へと誘われていました。

 その御堂から流れ出す、聖女達の声に心惹かれたのです。

 華美な装飾など見られませんが、慎ましやかな祈りと秘めた荘厳さが、この聖なる館には漂っています。

 その慈愛に満ちた衣を纏い、私は自らの心をあらゆる存在へと拡げていきました。

 その間にも、縹渺たる聖女達の祈りは胸の中へと染み渡り、私を更なる『時間』へと誘ってくれます…

 女神さまの神殿の左右には、小さいながらも美しい側廊が並んでいます。

 その要所には、この聖堂で身罷られた高貴な方々の彫刻が静かに佇んでいました。

 清楚な歌声と共に私の足は彷徨い続け、妙なる旋律と共に私の瞳は居並ぶ石像を追い掛けます…

 その時……不意に、私は美しい立柱の影に、一人の立像を認めました。

 半ば隠されているそのたおやかな光に、思わず足を止めてしまったのです。

 白衣を緩やかに纏った、女性の半身が覗いています。

 なんと白皙な脚なのでしょう。

 湖上にたゆたう金紅色の朝靄にも似た、薄い紗の衣がいじらしくその身を遮っています…

 私は、慌てて…そして、ゆっくりと柱に歩み寄りました。

 ……ですが……次には、私は深い失望に捕らわれていたのです。

 今にも動き出しそうな細い腕は、柔らかな光を内側から放つようです。

 大きく開かれたその胸元には、冷たさなど一つも感じさせない輝く鼓動が秘められています。

 ですが……

 …その、蒼海の輝く炎を内に隠す麗しき大地は、頭部を自らの身で支えてはいなかったのです。

 いつしか、聖女達の美妙な調べは虚空に消え入り、私は唯一人、この女性と共に沈黙の中に取り残されていました。

 想いは『時間』と言う名の、目に見えない黄金の流れに彷徨います。

 その銀の風に乗り、私はこの女性の軽やかな舞を捜し当て、自らの心に観ていたのです。

 豊かな金髪が光る風に舞い遊び、星の煌きを辺りに放っています。

 雪花石膏の肌は空の下に躍動し、青い草々に囲まれ踊り続けています…

 微かに潤む漆黒の双眸は私の瞳を見つめ、上気した頬には包み込むような優しい微笑みが映し出されているのです……

 …その愛らしく小さな唇は、何かを歌い出しそうに、そっと開かれていきました…………


 女神さまの神殿を出た後も、私の意は女性の姿を追い続けていました。

 ですが、もう二度と、あの石像を見に行くことは無かったのです…

 彼女は、想いの中で私の言葉に耳を傾けてくれます。

 そよ風に揺れる草葉のように、そっと柔らかな笑い声を聞かせてくれるのです……


 数日後、私は大理石が敷き詰められた街道を、東方へと歩いていました。

 芸術と文化の街、リヴィンへと…


 ……………………………………………………


 わたしは、その日もヴィンとリヴィンを結ぶ大理石の街道を歩いていたんです。

 幅広い街道の左右には、純白の円柱が立ち並んでいます。

 その円柱の間では、道行く巡礼者や旅人達を目当てにした店が開かれ、わたしが見たことも無い異国の品々を敷布に広げていました。

 いいえ、もう一つ。

 円柱の間には、店と交互になって、大理石の像も立ってるんです。

 綺麗な台座の上では、ヴィン・リヴィン姉妹国に功のあった方々が、じっとわたし達を見下ろしています。

 …見守ってくれてるんです。


 その時も、いつもの通り、わたしはリヴィンのファロア女神さまの神殿を目指していました。

 その神殿では、今も素晴らしい奇跡が起こると言われています。

 もう…幾度、この地に足を運んだことでしょう……

 わたしの妹は、とても重い病気に罹っています。

 二年前、急に高熱を出した後…少しも体を動かせなくなったんです……

 …村では、もう駄目だと皆に言われてしまいました……

 もっときちんとした町で頼めば、神々にも祈りを捧げてくれるかも知れません。そうすれば、治るのかも知れません…

 でも……わたしには、そんなお金はありませんでした…

 だから、考えたんです。姉として、どんなことが妹にしてあげられるのか…本当に、必死になって考えました。

 そして、お金の有無に関わらず、女神さま御自らの力で奇跡を起こして下さると言う、このリヴィンの聖地に通うことを決めたんです。

 言い伝えは、随分と前に亡くなった母から、何度も聞かされていました。

「苦しんだ時、辛い時。どんな小さな事でも、女神さまは応えて下さるんだよ」

 って。

 神殿の入り口から御神体の前まで続く白い石畳の参道を、膝を突きながら進んでいくんだよ、って。

 正直に言えば、辛いんです。

 炎天下の長い道程を、必死になって、少しずつ進むんですから…でも、妹はもっと苦しんでいるはずです。

 いいえ、苦しいとさえ言えない辛さからすれば、わたしのしていることなんて、本当に小さなものなんです。

 それに、最後に女神さまの優しい、柔らかな微笑みを見た時、わたしは何もかも忘れて笑顔を浮かべることが出来るんです。まるで、子どもに戻ったみたいに、無邪気に笑うことが出来るんです…

 …えぇ。

 わたしは、そんな女神さまの御応えに、救われていたのかも知れません。


 その日も、わたしはリヴィンの街に向かっていました。

 周りの石像も、もう今ではすっかり馴染みになってるんです。

 ……いえ、…そのはずなんですが……

 思わず、わたしは一人の騎士の立像の前で立ち止まってしまいました。

 前には、こんな素敵な方を見た記憶が無いんです。

 騎士にしては細い腕や脚をしていますが、その奥には力が漲っています。厳しくて、少し頬の痩けた面には、でも優しい心が観えてくるんです。長い髪の毛は、首の後ろで一つに纏められ、風に軽く靡いていました。

 今迄は、無かったんでしょうか。

 でも、それにしては雨に打たれた痕があります…

 わたしは、胸の中のざわめきに戸惑いながらも、その方の台座におずおずと近付きました。

 そっと、彫り込まれた名前を読みます。

「エスタール…」

 口にした途端、わたしの中に『何か』が大きく広がっていきます。

 なんて素敵な響きでしょう…この方には、他の名前など付けようがありません…

 そのまま、わたしは暫くエスタール殿の前で佇んでいました。

 でも、不意に、優しい風が頬を愛撫して通り過ぎていったんです。

 その瞬間、わたしは苦しんでいる妹のことを思い出しました。

 わたしは、己のことのみに夢中になっていた自分が恥ずかしくて…本当に、消えてしまいたくなりました。

 また、リヴィンの街に向かって歩き出します。

 エスタール殿の御姿を、この胸に仕舞い込んで……


 ……………………………………………………


 リヴィンの街中へと入った後も、私は歩みを止めませんでした。

 『何か』が、私を誘ってくれるのです。

 辺りを包み込む光の波が、私の視線を行く手にのみ向けさせます。

 銀色の風の乙女達はさんざめく笑い声と共に、私の背中を柔らかな手で押してくれます。

 そして、大地に夢見る陽気な小人達は、私の前から小石を運び去ってくれました。

 目に見えなくとも、確かに存在する方々の麗しき腕に導かれ、いつしか私は素晴らしい女神さまの聖地へと足を踏み入れていました。

 大きな円柱に支えられた門からは、幅広い雪白の道が、女神さまの御許まで続いています。

 その、なんと美しい微笑み! 《全て》をその豊かな胸元に抱き、怯える存在を護り導いて下さる女神さまの御前で、畏れ多くも、暫し私は見惚れずにはいられませんでした。

 不意に、愛らしい微風が、私の心に語りかけてきます。

 丸く、小さな指先が、振り向かせようとしているのです。

 私の眸は、女神さまの優美な微笑みから離れ、後ろに伸びる穢れなき参道へと向けられました。

 今、そこには、山の脚の女神が唯独り、こちらへと膝を突きながら近付いてきています。

 貧しくも清らかな白衣が、俯きながら一心に祈るその女性の姿を、優しく…柔らかく隠しているのです……

 その腕の白さ…

 薄い靄に包まれる、仄かで儚げなその身…

 そよ風と戯れる、海の光に煌く髪……!

 ……私は、茫然と立ち尽くしていました。

 …そうです…私は、ヴィンの街で出逢った女性を、今、この瞳に映していたのです!

 突然、その女性が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめてきました。

 澄んだ漆黒の瞳が、驚きで見開かれています…

 そして……

 …その唇からは、私の名前が零れ出したのです……

「エスタール殿?」

 と…………


 ……………………………………………………


 今、私はあの女性の家へと駆けています。


 あの女性は、両の頬にその白く透き通った指先を添え、窓辺の花に囁いていることでしょう。

 その時に零れるものは、幸せに満ちた溜息なのでしょうか…

 それとも…切なく、辛い吐息なのでしょうか……


 あの女性は、いつも無邪気に笑ってくれます。

 ですが…今迄は、その奥に青く揺らめく悲しみの深い影が潜んでいたのです。その影を取り除く為なら、私はどのような辛苦にも耐えることでしょう…


 いつか、あの女性の赤く染まる柔らかな頬に、本当の、心からの微笑みは訪れるのでしょうか…

 …私は、それが知りたいのです……


 愛らしい唇は、いつも私に心地好い言の葉を送り届けてくれます。

 ですが…微かに開いたその花弁に、私は長く甘い…優しい口付けでしか応えることが出来なかったのです…


 …私には、何が出来るのでしょうか……



 今、私はあの女性の家へと駆けています。

 …道を重ねる申し出と共に……


 あの女性の溜息に、喜びは満ちてくれるでしょうか……


 誰が、それを為し得るのでしょう…


 …一体、誰が……





 翌年、私達は、少しずつ体が動き始めた義妹と共に、ヴィンとリヴィン、二つの街の女神さまの御許を訪れていました…



 ……私は、《真》の詩を知ったのです。

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