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宝の小箱  作者: くまミニ
3/22

第一部 宝の小箱 3

「へぇ。由利ちゃんと、同じクラスになったの?」

 家とは違い、インスタントではないコーヒーを受け取りながら、聡美は嬉しそうに児島のおばさんに頷いていた。

「席は、ちょっと離れてるんだけどね」

 少し気取った素振りで、香りを味わってみる。そんな姪の仕草に温かく目を細めながら、『ブルーノ』の店長は尋ねた。

「それで、勉強の方はどう? 少し無理して入ったんでしょ?」

「大丈夫! …って、本当はまだ言えないけどね。でも、由利だっているんだもん。何とかなると思うよ」

「そう。じゃぁ、これからは『あの男の子』を探すのに集中出来るわけね」

 からかう店長の言葉に真っ赤になりながらも、聡美はつんっと澄ましてみせた。

「由利もそればっかり。あれから、ちょっと図書館に行こうかな、って言うと、すぐにからかうんだもん。嫌になっちゃう」

 あの連続十日間の通いが効を奏したのか、聡美は夏休み以降も、しばしば図書館に行っている。勿論、『彼』に逢えるかも知れないという期待もあるが、今では、本を借りること自体が大きな目的だ。

「でも、会いたいんでしょ?」

「…うん」

 優しい深入りに、聡美は素直に頷いていた。

「でもね…何だか、《その時》が来るまで逢えない気がするの。由利にはロマンチストって言われたけど…

 《本当》に、そんな気がするんだもん……」

 遠くを見詰める姿が、随分と大人びて見える。店長はゆっくり瞳を閉じると、小さな吐息を漏らしていた。

「私、やっぱり変なのかな」

 大好きな児島のおばさんの様子に気が付いて、聡美はそっと静かに囁いた。店長はそんな少女へと、ふわっと柔らかな笑顔を向ける。

「違うの。聡美ちゃんは、全然ロマンチストなんかじゃないな、って…そう思ったの。夢を見たり、幻に憧れてるんじゃなくて…そうね。《信頼》してるんでしょうね」

「信頼?」

 きょとんとした表情で見上げる聡美に、店長は大きく頷き、応えていた。

「そう。逢えることを願うんじゃなくて、当然逢えるものとして、その『時間』を待ち続けているのよ」

「そうなのかなぁ……」

 小首を傾げながら、聡美はおばさんの言葉を反芻していた。

 あの男の子とは、たったの二度ばかり逢っただけだ。そんな『彼』に対して、自分自身では、信じる、信じないといったレベルの思いは持っていないつもりだった。ただ…漠然と、そうなるんだろうな、と思っているだけなのだ。

 だが、今、改めてそう言われれば、自分の中の何処かに《信頼》を置いているのかも知れない。だからこそ、諦めてもいないのに、去年の夏ほど焦っていないのだろう。

「どっちにしても、待ちすぎて、肝心のチャンスを逃さないようにしなくちゃね」

「うん。大丈夫よ、きっと」

 自信に満ちた笑顔で、聡美は頷いていた。


 春の光が、まだまだ若葉よりも枯れ枝が目立つ木立の向こうから、ゆっくりと空の旅路を始めようとしている。小鳥達が愛らしくざわめく中、《全て》は黄金色に等しく染め上げられていた。

 その金の矢の一筋が、カーテンの隙間を縫って聡美の穏やかな寝顔を照らし出す。布団からはみ出しているその腕の中では、ベルの止められた目覚まし時計が冷酷にも時を刻み続けていた。

「おい、聡美!」

 突然、大きな音と共にドアが開く。

「お前、今、何時だと思ってるんだ?」

 飛び込んでくるその乱暴な声に軽く伸びをすると、うっすらと聡美はその目を開いていった。

「………? 何よ、お兄ちゃん! 勝手に女の子の部屋に入らないでよ!」

 本気で怒っている聡美に、呆れた視線が返ってきた。

「あのな、そういうことは時計を見てから言えよ。後は、もう知らないからな」

「え? …えぇ!」

 手元に転がっている時計に気付いて、聡美は慌てて跳ね起きていた。

「どうして止まってるのよぉ!」

「自分で止めたんだろ…」

 溜め息と共にドアを閉める兄など、最早聡美の眼中には無かった。朝食はおろか、髪を整える時間すら無いのだ。

「あぁ〜ん、さいてぇ」

 いつもと何一つ変わらない『時間』の中で、空はますます青く輝き、春の日差しを柔らかく受け止めていた。


「やた! まだ始まって…」

 喜びの声が教室に飛び込んだ、その瞬間、ベルが校内に鳴り響く。

 その安心の音色の中、大きく肩を上下させながらも、ほっとした表情で聡美は自分の席へと歩み寄った。

「なぁ、下村」

 そんな聡美を、そっと隣の中川が呼び止める。

「ん?」

 荷物を机に置いて振り向くと、彼は何処か心配そうに囁いてきた。

「坂本の奴、何かあったのか?」

「え?」

 その言葉に慌てて由利の席を見てみると、驚いたことに、いつも大事にしている髪すら整えてきていない。元気そうな素振りさえ見せられず、小さく体を丸めている。

 …随分と泣いたのだろう…目が、赤い…

「由利…」

 急いで近付こうとした時、担任の内山先生が教室へと入ってくる。聡美は不安と心配で一杯になりながらも、一度、席に戻っていた。

(どうしたんだろ…)

 そういえば、毎日のように続いていた電話が、昨夜は一度もかかってこなかった。自分に打ち明ける余裕すらも無い何かが、あったのだろうか……

 いつもよりもずっと長く感じられる先生の話を、聡美は苛々しながらも我慢し続けていた。内山先生は割とお気に入りなのだが、今日は腹立たしく思えてくる。

「では、これで終わります」

 やっと先生が出ていくや否や、聡美は由利の所まで駆け寄っていた。

「どうしたのよ、由利! 何かあったの?」

「…聡美……私……」

 すぅーっと、涙が見開かれた瞳を覆っていく。だが、両手を必死に握り締めると、由利は小さく頭を振った。

「由利…」

「…ごめん…昼休みまで……」

 やっとの思いで呟いている。そんな由利の姿に、聡美は急いで彼女の肩を抱くと言った。

「うん、分かった。分かったよ…」

 体を震わせている由利に、自分自身も泣きそうになりながら、聡美は何度も何度も繰り返し囁いていた……


「…屋上…行こう、か」

 ひたすら待ち続けた昼休みの時間が漸く訪れると、鞄の中から弁当を取り出す事もせずに聡美は由利を誘っていた。

「……うん…」

 やっと落ち着いてきたのか、思っていたよりもしっかりと返事をしてくれる。そんな由利の様子に少し安心すると、聡美は彼女の手を取って教室から抜け出した。

 向かいの校舎に渡り、階段を上っていく。

 その間も、二人は何も喋らなかった。

 明るい喧騒が校舎に広がっていく中、だが聡美には重く静かな自分達の足音しか聞こえてこない…

 その静寂が怖くて、急いで聡美は厚い扉を押し開けていた。

 春先の、穏やかな光が足下を照らし出してくれる。なんて柔らかく、温かな波だろう…

 青く霞んだ空の下に出ると、聡美は音を立てずに扉をそっと閉めてしまった。

 そして、ゆっくりと由利を振り返る……

 その視線に触れた瞬間、由利はその場に頽れていた。

「由利!」

 被さるように抱き締める聡美の腕の中で、由利は声も出さずに泣き始める。

「由利…」

 そっと、腕に力を込める。

 ただ…ただ、ずっと、聡美は待ち続けた。

 春の陽気に包まれたとは言え、建物の影に入ると、時折風が寒さを伴い吹き付けてくる。そんな寒さからも由利を守ってやるように、聡美は唇を噛み締めながら、涙を堪えてずっと抱き締め続けていた。


「…聡美……」

「大丈夫? 由利…」

 漸く、震えが小さくなっていく中、由利が微かに頷いてくれる。

 それから更に暫く待っていると、やがて、腕の中から掠れた声が零れてきた。

「寛君のこと…」

「片岡君、どうかしたの?」

「…昨日…もう……

 ……別れよう…って…………」

「えぇ? 何よ、それ! 本当なの? 由利」

 激しい口調で確かめてくる聡美に、由利はそっと頷いた。

「だって…だって、あいつから告白してきたんじゃない」

「……今の高校で…もっと、好きな子が……出来たんだ、って……」

「そんな……!」

 言いたいことは、沢山ある。だが、それらが言葉にならないほど、聡美は本当に心から憤りを感じていた。

「勝手すぎるよ! そんなの、絶対に許せない」

 立ち上がって今にも動き出しそうな聡美の腕を、だが由利はしっかりと掴んでいた。

 落とした視線の先で、悲しみに染まる瞳が、じっと自分を見上げてくる…

「もう、いいよ…誰か、他に好きな子がいる……そんな寛君と…私、もう…平気で話せないよ……」

「でも、好きなんでしょ?」

「…もう…いい……」

(よくないよ! 由利、しっかりして!)

 そう叫びそうになるのを、聡美は必死になって抑えていた。由利の涙に濡れた顔には、その言葉はとても厳しく思えたのだ。

 怒りに満ちる心を押さえ付け、一つ、大きく深呼吸をする。

 そして、俯く由利に向かって、ゆっくりと聡美は口を開いていた。

「…分かった。もう、何も言わない」

「……うん…」

「……きっと、本当に由利が好きになる人は、あいつじゃなかったのよ。…それに、そんな勝手な奴なんだもん…別れて、良かったのかも知れないよ……

 …今は辛いけど……泣きたいだけ泣いてしまったら…それで、終わってもいいと思う…」

 もっと、もっと何か言いたいのだが……

 …どうしても、『他人』のようにしか言えない自分が、情けなくなってくる。

「ごめんね、由利…私、何も出来そうにないの…」

 泣きそうになりながら……いや、本当に目を瞬かせながら、聡美は呟いていた。

「ううん…ありがとう……」

 由利はそう囁くと、そっと体から力を抜いた。

 そのまま、聡美の細い腕に全てを委ねてしまう……

 いつしか陽が滑り、二人の上からは影も追い払われている。太陽は目映い光を降り注ぎ、その温もりは二人の体と心に柔らかく染み渡っていた。


 その日、聡美は由利を家の前まで送り届けていた。

 別に、何を話すわけでもない。いや、一言も口にはしないのだ。

 だが、少しでも長く一緒にいたい……

 時に、沈黙は素晴らしい『言葉』となる。由利にとっても、聡美にとっても、今必要なのはその『沈黙』だった。

「…じゃぁね」

「……うん…」

 結局、高校を出てから声にして交えた会話は、これだけだった。

 由利が家の中へと入っていくのを見届けると、聡美は急いで来た道を戻っていた。聡美の住むマンションは、由利の家とは少し方向が違っているのだ。

 道端に躍る春の日差しは、そっと瞬き聡美の視線を誘ってくる。だが…その淡い光は、今の聡美にはくすんでいるものとしか映らなかった。

 マンションの薄汚れた灰色の階段を駆け上り、所々に錆の浮いた冷たいドアを開ける。

 聡美は自分の部屋まで直行すると、荷物を全部机の上に放り投げ、すぐに着替えを始めていた。

 脱ぎ捨てた制服には目もくれず、借りていた本を鞄に詰め込む。

 そして、そのまま、聡美は再び玄関から飛び出してしまった。

(…お願い……)

 ずっと……そう、昼過ぎから、ずっと…聡美は心の中で繰り返していた…

(……今日、逢いに来て……)

 児島のおばさんが言っていた《信頼》……その『力』は、由利の姿に自らを重ねた聡美の胸中で、大きく揺らいでいるのだ。

(逢いたいの…どうしても…逢いたいのよ……)

 こんな形で逢いたいと願うなど、今迄予想だにしていなかった。だが、今日はここ数ヶ月の間でも、一番『彼』との出逢いを切望している。

 今日、逢えなければ……

 …もう、二度と逢えないかも知れない……

 毎日のように会っていた二人が…あれほど簡単に離れてしまうのだ…

 ましてや、たった二度の出逢いなど……

「…私…もう、イヤ……」

 中学校最後の夏休みからずっと思い続けていた悩みや混乱、不安が一気に押し寄せてくる。いつもなら、大好きなおばさんの店で泣いているかも知れないが…

 今、聡美に必要な存在は、おばさんではなく『彼』だった。

 見事な欅の並木が続く道を、半ば走るような足取りで急ぐ。赤茶けた煉瓦の壁が鮮緑と薄墨の間から見えてきた瞬間、不意に聡美の目に熱いものが込み上げてきた。

 だが、まだ…まだ、泣くことは出来ない。

 必死に歯をくいしばって、図書館の中へと入っていく。

 明るい日差しの下から急に薄暗いホールへと飛び込んだ為か、濃厚な暗闇がそこここに漂っている気がする。その闇の濃淡や、支配的な沈黙の中に自分の心が見えるようで、聡美は逃げるように右手の開かれたドアへと駆け込んでしまった。

 温かな色彩と光に包まれ、少しだけ落ち着きを取り戻す。何とか震える体を抑えつけると、聡美はまずは借りていた本をカウンターで返却した。

 …そして…振り返って探そうと……

 ……だが、足は動こうとはしなかった。

 ……怖いのだ……もしも、今日、逢えなかったら……

 もう、二度と逢えないかも知れない…もう、何度も繰り返す想いが聡美の心で叫んでいる。たった二度顔を合わせたくらいで、名前すら知らないのだ。本当に、自分の事を知ってくれているのかも分からない…

 …いや、知らない方が自然だろう……

 『彼』にとって、自分は別に『特別』でも何でもなかったのかも知れない。聡美自身が想っているほどには、『彼』は自分を想ってくれていないのかも知れない……

 昨日まで確かだった想いが、今日のたった一つの出来事で、全て崩れてしまいそうになっている……

(…しっかりしなくちゃ!)

 精一杯の力でそう励ましてみるものの、体の震えは大きくなろうとする。

 それでも、途轍もない力を使って近くのテーブルまで歩いていくと、聡美は倒れるように座り込んでいた。落ち着こう…そう思い、願うのだが、不安と恐怖は一層胸の中で大きく強くなってくる。

(どうしよう…私…どうしよう……)

「逢いたいよ……」

 小さく口中で呟くと、聡美はテーブルの上に顔を伏せてしまった。

 静かな空間が、重圧となって小さな肩にのしかかってくる。考えたくもない嫌な光景が、閉じられた瞼に次々と浮かんでは消えていく…

 カタッ…

 そっと、すぐ隣の椅子が動く。図書館の人が、不審に思って座ったのだろうか。

 だが、そうだとしても、聡美には最早どうでもいいことだった。例えどんな迷惑をかけたところで、今日『彼』と逢えなければ、もう二度と図書館まで来ることも無いのだから……

 瞼の裏の闇を背に、にっこりと優しく笑いかけてくれる……周りの存在など忘れ、聡美は想い出にしがみついていた。

(…お願い……)

「下村さん…」

 不意に、心配に満ちた囁きが耳の中へと飛び込んでくる。

(…!)

 その声にはっと顔を上げると、聡美は隣の席に目を向けた。

「…あなた……!」

「しっ!」

 思わず叫びそうになった聡美を、鋭く制してくる。慌てて口を手で塞ぎながら、もう一度、確かめるように聡美は目の前の男の子を見詰めていた。

 麦藁帽子を被ってはいないものの…見間違えるはずもない。去年の夏休みに出逢った、あの『彼』だ……

 その『彼』は、聡美の視線に照れた表情を見せると、小さく耳元で囁いてきた。

「外に出ようか。話したいことがあるから…」

 話したいことなら、自分にも沢山ある。尋ねたいことは、もっと多いかも知れない…

 何度も何度も急いで頷く聡美に、温かな笑い声を少し漏らすと、『彼』は先に立って児童書が並ぶ部屋を出て行こうとした。

 すぐに、聡美もその後を追う。

 今はそれほど薄暗く感じないホールに出ると、赤くなってぎこちない素振りをしている聡美に、『彼』は振り返って言った。

「すぐこの上に公園があるんだ。そこに行こうか」

「…うん」

 何だか、夢でも見ているような気がする。何ヶ月も逢わなかったことなど、嘘のようだ。しかも、これがまだ三度目の出逢い…

 先程までの揺らぎなど、今は何処にも見えなかった。いや、それどころか、以前よりも更に強く確かな力が、心の中に築き上げられている。

 風除室を抜け、図書館の外へと歩き出す。そのまま左手に進むとすぐに低い丘が現れ、『彼』はそこにある階段をゆっくりと上っていった。

 じっとその後ろ姿を見ながら、聡美もついて上っていく。図書館を出てから、二人とも全く口を開いていない。沢山の事を言いたくて…だが、何から…どうやって切り出せばいいのか分からないのだ……

「あの…」

「え?」

 遠慮がちに話しかけた聡美を、足を止めて振り返ってくれる。その『彼』を前に、聡美は自然と言葉を押し出していた。

「今日は、絶対に逢いたかったの…

 ずっと、ずっと……逢いたいと思って…ここまで、来てた……」

「そうなんだ…ごめん。俺に、もう少し勇気があれば、もっと前に声をかけられたんだけど…」

 恥ずかしそうにそう言うと、『彼』は手招きをして先に階段を上り切ってしまう。そんな『彼』に追い付くと、聡美は横に並んで歩き出していた。

「今日は、いつもの下村さんと違ってたからね。思わず、声をかけたんだ」

「…今日は、って?」

 不思議そうな瞳で聡美が見上げると、『彼』は目を逸らせながら苦笑いをして言った。

「その…本当は、去年の夏休みから、ずっと下村さんを図書館で見かけてたんだ。あの喫茶店で逢ってから、毎日、ここまで来てくれただろう? 俺もアルバイトの時間を切り詰めて、どんな本を読んでるのかな、って…

 その…ごめん。どうしても知りたかったから…友達に、名前だけ訊いてもらったんだよ…」

「そんなの、ずるいよ! 私なんて、あなたのこと、何も知らなくて…

 ずっと…ずっと……逢いたかったのに……」

 可愛く口を尖らせてしまう。そんな聡美に、『彼』は困ったように笑みを浮かべていた。

「本当に、ごめん。でも、たった二回しか逢ってないし、図書館の中でも見かけない方が多かったから…ずっと迷ってたんだ」

「あんなに凄いこと、考えてたんでしょ? なのに、迷うなんて…」

「凄いこと?」

 問い返してくる『彼』に、聡美は力強く頷いた。

「子どものことや、司書のこと」

「あぁ…それは、俺一人のことだからね。でも、これは違うんだ。何よりも、下村さんのことを一番に考えるべきだったからね」

 そんなことを、真剣に言ってくれるのだ。決して、口先だけではない…

「ずるいよぉ…一人だけで、良い格好するんだもん…」

 頬を赤く染め上げながら、伏し目がちに聡美は囁いていた。

「じゃぁ、これからは…その、下村さんにも手伝ってもらうよ」

 会話が繋がっているのかどうか…だが、二人とも、これ以上は上手く言えなかったのだ。

 それでも、少しは互いに分かり合えた気がする…

(きっと、この人も…)

 自分と同じように想い、感じているのだろう。きちんとした『声』にするのは、時を置いてからでも構わないではないか。

 丘の上には幅広いタイル敷きの道が伸びており、左右に木々と街灯が交互に配されてある。道の中央に点在するモニュメントを経巡りながら、二人はやがて芝生に囲まれた噴水の許へと近付いていった。

 傾き始めた日の光を受け、水の粒が目映く照り輝いている。水面を跳ねる途切れない音色に耳を澄ませながら、二人は傍のベンチに腰を下ろし、飛沫越しの涼風を受け止めていた。

 少し、沈黙が横たわる。

 …やがて、聡美は話し出していた。

「今日は、《本当》に逢いたかった…私、あなたに逢ってから、『自分』に自信なんて持てなくて……もしも、こうして逢わなかったら…

 …私、あなたのことまで、《信頼》出来なくなってたと思う……」

 その時、自分は何を信じていけるのだろう……

 小さな、殆ど独り言のような呟きに、『彼』は直接には応えてこなかった。

「…今日のこと、話してくれるかい」

「うん…」

 たった二回だけ…それも、殆ど通りすがりでしかない『彼』を、どうして自身以上に支えとしているのだろう……

 聡美には、自分のことでありながら、その理由など少しも分からなかった。

 …いや、理由など無いのかも知れない。……ただ、そこには《事実》だけがあるのだ。

 なら、それは最も《真実》に近いのかも知れない……

 途切れがちになりながらも、聡美は由利のことを話し続けていた。不思議と、涙は出てこない。悔しさも、怒りも、悲しみも…涙など見せなくとも、『彼』にはきちんと伝わっていくような気がした。

(そうよ…きっと、この人が私と『同じ』だから…)

「ふ〜ん…それは、腹が立つな」

「でしょ? でもね…由利は、もういいから、って…そう言うのよ」

 一瞥してみると、隣で『彼』はきゅっと口を固く結び、真剣な表情で考え込んでいる。その瞳がとても厳しく思え、聡美は急いで目を逸らしてしまった。

 胸の奥で、どんどんと鼓動は大きくなっていく。その音をごまかすように、聡美は慌てて付け足していた。

「男の人って、勝手だな、って…」

「…だから、俺もそうかも知れない、って思ったんだろう?」

 微笑みながらそう言ってくる『彼』に、聡美は急いで大きく頭を振った。

「違うぅ! そんなんじゃ、ないよ」

「いいんだよ。気にしてないから。俺だって、きっと不安になると思うよ」

「……」

 さっきは思わず叫んでしまったが、確かに、自分は不安だったのだ。だからこそ、今日は絶対に『彼』と逢いたくて…

「その、由利って子のことだけど…」

「あっ、うん…」

「俺も、下村さんの言うとおりだと思うよ。ただ、彼女が、まだ彼のことを好きなままでいたい、って言ったら、俺はきっとそれには反対しないと思う」

「どうして? 早く忘れた方がいいでしょ?」

「人の気持ちって、そんなに簡単じゃないよ。その人のことを好きだ、って思ったら、理由や立場なんて関係なく、好きになってしまうことだってあるんだ。

 いや、そうじゃないかも知れない。きっと、理由の分かる好きなんて、《本当》の『好き』じゃないんだよ」

「うっ……う〜ん…」

 胸元で腕を組むと、聡美は考え込んでしまった。だが、考えるまでもないのだ。つい先程、自分自身、理由の無い想いを認めたではないか。

「…やっぱり、凄いなぁ。私なんて、絶対、そんなこと言えないもん」

 本当に、随分と『彼』との間には《差》があるように思えてくる。それが、とても悔しかった。

 そんな聡美に、ゆっくりと『彼』は言った。

「俺は、自分を凄いなんて思ってないよ。その証拠に下村さんだって、今の俺の言葉を考えて、少しは賛成してくれたんだろう?」

「少しどころか、全部賛成してるよ」

「ありがとう。でも、ほら。下村さんだって、同じ事を考えることは出来るんだよ。今はまだ、きっかけがあって初めて出てくるのかも知れないけど、基本は下村さんの中にちゃんと入ってるんだ」

「でも、それって宝の持ち腐れぇ」

 憮然としている聡美に、だが『彼』は柔らかな笑みと共に応えていた。

「違うよ。宝の詰まった小箱だよ。いつでも、好きな時にその中から取り出せるんだ。ただ、その引き出しの鍵を自分で見付けるか、他人から受け取るかの違いがあるだけなんだよ」

 その言葉に、聡美は思わずぷっと噴き出してしまった。

「まるで、何処かのラジオ番組みたい」

 彼女のお気に入りの番組が、『宝の小箱』と言う名前なのだ。

 だが、驚いたことに、『彼』の方も聡美の言葉に笑いながら頷いているではないか。

「『宝の小箱』か。あれはいい番組だよな」

「聞いてるの?」

「あぁ、ハガキも出してるよ」

 聡美の勢いに気圧されながらも、『彼』はそう答えている。

 心の遠くで、小さな光が見えた気がする。どんなことでも真剣に考え、応えてくれる…それも、同い年なのだ……

 だが、どう言えばいいのだろう? あの人のハガキが好きだから…そうだったらいいな、っと思い込んでいるだけなのかも知れない……

「下村さん?」

 突然黙り込んでしまった聡美に、静かに囁きかけてくれる。視線を上げた先には、柔らかな笑顔が見えていた。

 そう…この笑顔が…この瞳が、胸中から離れないのだ……

「あの…その…」

「ん?」

「間違ってたら、ごめんね。もしかして…『欅通りの風遣い』君じゃない?」

 聡美は、半分怯えながら『彼』を見つめていた。

「へぇ、よく覚えてるね。そうだよ。『欅通りの風遣い』は、俺のペンネームなんだ。ほら、図書館前の通りが欅並木になってるだろう? 俺の家もあの近くだから、欅に因んだ名前にしたんだよ。

 でも、本当によく覚えてたね」

「そりゃそうよ!」

 ぱっと立ち上がりながら、これ以上ないくらいに頬を上気させると聡美は言った。

「だって、凄い常連じゃない。私、あなたの文章がとても『好き』で、だから、あの番組も欠かさず聞いてるんだもん。どんな悩みにも、問題にも、きちんと応えてくれるし…素敵だな、って……

 冬には、私のこと、心配してくれて……」

「え? …あっ、じゃぁ『風の小道』ってペンネームは…」

 今度は『彼』が驚く番だった。聡美は何度も頷いて、続けている。

「うん! 私のことなの」

「そうなんだ。…へぇ、偶然ってあるんだね」

「うわぁ〜、何だか信じられない。私、今日一日、色んな事がありすぎて混乱してるぅ」

 『彼』の前を、意味も無く往復してしまう。じっとなどしていられないのだ。

 そんな聡美を温かく見守りながら、ふと『彼』は呟いていた。

「でも…偶然なんかじゃないのかも知れない。偶然なんて、必然と変わらないんだ…君を見てると、そう思えてくる」

「え? もう! 難しいこと言って、一人で納得しないでよ。私、どうなってるのか分かんないんだから!」

「…そうだな。ゆっくり、考えていこう」

 そう言って立ち上がると、『彼』は急に、落ち着かない聡美の手を握り締めてきた。

「え? あっ、え!」

 思わず、足を止めてしまう。

 自分でも、熱いくらいに赤くなっているのが分かるのだ。鼓動など、絶対に外まで聞こえてるに違いない。

「ほら、図書館まで競争だ!」

「えぇ?」

 少しの間手を引いてくれた後で、『彼』は聡美を放してしまう。

「ちょっと! 待ってよぉ」

 慌てて叫びながら、聡美はそんな『彼』を急いで追いかけ始めていた。

 明るい笑い声が、茜色に染まり夕暮れの中へと広がっていく。風はその温もりを抱え、空を巡り何処までも流れていった。


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