第三部 真の小舟 3
緩やかな静寂は、BGMによって更に深みを漂わせる。
温もりと想いに満ちた静謐の《時》…
やがて、穏やかな女性の声が電波に乗り、闇の中へと滑り出していた。
それから、私は毎日『大塚の欅』の下で『夢』を見ていました。
彼の名前は、何と言うのでしょう? あのハンカチには、イニシャルもありませんでした。…えぇ、ハンカチはきちんとアイロンをあてて、仕舞い込んでいます。いつか、また逢えた日に返せるように……
普段から空想好きだった私は、果てることの無い夢を、密かに見続けていたのです。
『大塚の欅』のように、太く強い芯を持っていながらも、枝葉の先のように繊細な思いやりを示してくれる……そんな『彼』のことばかりを、私は毎日、心の中に想い描いていました…
私は『茜色の夕風』さんのように、奇跡を特別信じていたわけではありません。確かに彼との出逢いは《偶然》でしたが、次に再び逢えることは《必然》だと思っていたんです。そんな想いに、私は少しも疑問を抱きませんでした……
…今ではもう、どうしてそこまで信じていられたのかは分かりません。『大塚の欅』という、話を聞いてくれる存在が傍に居てくれたからでしょうか。それとも、いつも観ていた『夢』のためでしょうか…
でも、『茜色の夕風』さん。
これだけは、今の私にも言えるんです。
…信じていた『夢』……それが《本当》だったんだ、って……
『彼』との再会は、私にとっては『当たり前』の出来事だったので、特別な感じはしませんでしたが…確かに、あれは《偶然》であり、奇跡であり、運命だったのかも知れません……
淡々とした、それでいて豊かな感情を秘める声は、再び過去を語り始める。
ガラス窓の向こう、金色の星が優しく瞬き、風に揺らめいている。
眩い星辰は、流れる女性の声に合わせ、自らもそっと囁き出していた。
……………………………………………………
中学も三年生になってから、今日、初めて息をすることが出来た気がする。
真結は深く椅子に腰掛けなおすと、大きく伸びをしていた。
やっと、夏休みになったのだ。
夏期講習も始まり、毎日決まった分だけ勉強しようとは思っているものの…学校に行かないだけでも、十分、気休めになるものだ。
「ほんと、みんな、人が変わったみたいなんだもん」
少し、頬を膨らませる。
なにも、休み時間にまで、参考書を広げる必要は無いと思うのだ。折角、学校に通っていても、何だか背中を押され続けているみたいで息が苦しくなる。
全てが自分の周りで勝手に流れ始め、その川の中で必死に手足をばたつかせているのだ。
美鈴がいない今、すっかり真結は学校嫌いになってしまっていた。
とは言っても、進学を取り止めるほどの勇気も無い。そもそも、将来…いや、今でさえ、何をやりたいかなど分からないのだ。逃げでもいい、『何か』を見付ける為だけに、真結は進学を選んでいた。
そんな真結にとって、進学先の学校の選択など、それほど重要なものではない。
やってみたいクラブがあることと、周りに木が多いこと。
そして何より、大好きな『大塚の欅』から離れずに済むのであれば、学校など何処でも同じだった。
そんな考えなので、一学期最後の面接でも、担任の青木先生から呆れたように言われたのだ。
「水口は、本当に欲が無いなぁ」
その口調を真似て声に出した後、真結はつんっ! と澄ましてしまった。
大学進学率の高い、自分とほぼ同じ偏差値の学校に行くことが『欲』なのだろうか。
どんな学校でも、入ってからの自分次第で、勉強も生活も変えられるのだ。
あの学校だから、こんな生徒になるだろう…そんな考え方は、酷い偏見だと思う。
「嫌だなぁ…どうして、受験なんてあるんだろう?」
滅多に愚痴などこぼさない真結も、近頃は棘のある言葉ばかりを口にしてしまう。
それに気付いている自分も、それを抑えられない自分も、また嫌なのだ。
元来、真結はそれほど勉強が嫌いなわけではない。新しい知識を自分のものにしていくこと、そして、それを誰かに伝えられること…それは、とても素晴らしい力だと思う。だが、偏差値を目標とするだけの勉強は、どうしても好きになれなかった。
もっとも、そんな自分の偏差値など、真結は見たことが無い。模擬試験には出席させられるが、いつも本気で問題を解いたことも無い。その為に、校内では上位の真結も、模擬試験の結果はかなりの下位になっていた。
そんな真結を面白がったり、不思議そうに見るクラスメイトもいる。
…いや、殆どのクラスメイトが、そんな目で見てくるのだ……
「あぁ〜っ! もう、イヤッ!」
何だか、友達のことまで悪く言ってしまいそうだ。
全ての気持ちを振り払うかのように、勢いよく真結は立ち上がっていた。
そう、楽しいことを考えよう。
何と言っても、八月のお盆には美鈴が一度戻ってきてくれるのだ。
去年の夏休みに悩んでいたほどには、彼女も苦しんではいないらしい。二週間に一度届く手紙や、電話の内容も、最近は明るく楽しいものになってきている。
《本当》に寂しさから解放されたのか…そうは、絶対に思わない。一度受けた傷は、やはり『傷』のままで残るのだ。だが、それを少しでも忘れられる時間が持てるのなら……
近頃の美鈴の様子は、真結にとってとても嬉しいものだった。
窓から覗く綺麗に晴れ渡った青空も、そんな自分に悦びの笑みを向けてくれる。
熱いくらいの風と虫達の騒々しい声を全身で受け止めると、真結は一人大きく頷いていた。
少し早いが、『大塚の欅』に逢いに行こう。
今日は、もう勉強など出来そうにない。こんな時に机に向かっていても、何も出来ないことは真結自身が一番よく知っている。
「それに、私が勉強するのよ。勉強が、私にそれを押し付けるんじゃないの」
茶目っ気を出して机の上のノートに怒ってみせると、明るく笑い声を上げて真結は部屋を飛び出していた。
お気に入りの靴を履いて、玄関の戸を引く。
もわっ、とした真夏の空気に抱き込まれながら、真結は光に溢れる道の上を駆け始めた。
庭に並ぶ木々のどれもが、それぞれの緑で光と影を描き出している。全てが強い日射でくっきりとその姿を浮き立たせ、白雲一つ遊ばない蒼穹の下、真結の周りに流れていた。
いつもの小道にぶつかる頃、左手に大きな欅の葉群が見えてくる。
色褪せた屋根瓦と白塗りの土塀を丸く覆いながら、その枝葉は《全て》を優しく抱え、護ってくれていた。
…ふと、足を止める。
風の乙女たちが描いている緑と白の波模様の中に、刹那、『何か』が重なった気がしたのだ。
……いや、確かに、胸中から黄金の海が溢れ出してくる。
その、水面には……
(…あっ!)
間違いない。
一年前に出逢った『彼』が、笑いかけてくれているのだ……
「……逢えるかな…」
その呟きは、疑問ではない。期待でも願いでもなく…《真実》だった。
小道を折れた途端、『大塚の欅』の前に、リュックを背負った一人の少年の姿が飛び込んでくる。
…絶対に、見間違えたりしない。
少しも変わっていない、『彼』だ……
本当に、一年間も逢わなかったのだろうか。つい昨日、別れたばかりのような気がする…
真結は喜びに胸を震わせながら、歩調を緩め、そっと静かに微笑んでいた。
その時、まだ遠くの自分を見付け、『彼』が大きく手を振ってきてくれる。
…こんなにも離れているのに、柔らかな笑顔が見えるようだ……
『彼』も、自分を探してくれていたのだろうか。
もう一度、逢いたいと想ってくれていたのだろうか…
手を振り返して応える真結に、『彼』は何度も頷いてくれている。
「やぁ、また逢えたね」
近付くと、優しい瞳が迎えてくれた…
「うん。一応は、一年ぶりなのにね」
真結の言葉に、そっと瞳を細めてくれる。
「本当に、まるで昨日のことみたいだ。
あれから何回かここに来たけど、一度も会えなくて…君のことを、欅の精だ、って思ったことまであったんだよ。
だけど、こうして逢えたら…そんな一年間もの時間なんて、何処かに消えてしまってるんだ」
「私も、そう。泣いてたのが、昨日のことみたい…」
そう言うと、ふと気が付いて、真結は恥ずかしそうに頬を染めてしまった。
「その…ごめんなさい。ハンカチ、まだ返してないね…」
「いいよ。また、いつか逢えた時で、ね」
「うん!」
嬉しくなって、大きく頷いてしまう。
その勢いに、思わず顔を見合わせると、次には二人とも噴き出していた。
(そうよね……まだ…まだ、これからもきっと逢えるもんね…)
明るい声が、夏の眩しい大気の中へと溶け込むと、『彼』は少し悪戯っぽく真結に片目を瞑ってみせた。
「何だか、君と逢うと愚痴も零せないな。
本当は、俺、今日はこの欅に慰めてもらうつもりだったんだ。
受験勉強や、受験そのものが作り出す流れに、ちょっとうんざりしてたからね」
「私も、そうなの。何だか、周りにいる人を皆、悪く言ってしまいそうで…慌てて、参考書とノートから逃げ出してきたのよ」
真結の言葉に、『彼』は頷いて言った。
「俺もだよ。何だか、どんどん性格が悪くなりそうなんだ」
「そうなの? でも、あなたの性格が悪くなってる頃には、きっと私なんて極悪人になってるわ」
大袈裟に溜息を吐く仕草に、再び笑い声が沸き起こる。
頭上から零れてくる、無数の光の泡を身に纏いながら…二人は心からの笑いを楽しんでいた。
…久し振りに、笑った気がする。
何でもない小さな言葉でも、同じ想いがあれば、それは黄金の光を帯びて輝き出す……
……本当に…この一瞬、同じ想いで『彼』と笑い合えるなんて…なんて素敵なんだろう……
真剣な顔に戻り、真結が口を開きかけた時…『彼』はそれを遮ると先に『言葉』を紡いだ。
「ありがとう…また、逢ってくれて……」
黒く澄んだ瞳が、真っ直ぐに自分を見つめてくる。
その想いを正面から受け止めながら、真結も静かに囁いていた。
「私こそ……ありがとう……」
それ以上は何も言えず…二人は共に、そっと静かに手を差し伸べていた。
細い光が揺らめく中で、指先はしっかりと互いの手を握り締める。
…『彼』の指先から、温かな『言葉』が流れ込んでくるのを、真結は喜びと共に受け止めていた……
《真》の喜びは、二人の面に美しい微笑を映し出す。
いつまでも、いつまでも……
二人は立ち尽くしたまま、手を重ね合わせていた……