第三部 真の小舟 2
腰の辺りまで真っ直ぐに伸びた黒髪が、曇天の薄日に淡く輝いている。
中学生も二年目になった少女は、車の多い表通りをケーキ屋の前で左に折れ、薄暗い路地へと入っていた。
夏休みになったばかりだと言うのに、空も心も、なんて冴えない悲しみに満たされているのだろう。円らな瞳で足下だけを見つめる真結には、夏の熱気や蝉の声も、今は騒がしい嫌悪の対象でしかなかった。
一本目の脇道を、目も上げずに通り過ぎる。
夏休みになるまでは…美鈴と、何処に出かけるのか、そればかり相談していたのに……
……そう、…自分も美鈴も、夏休みをこんな惨めで悲しい時間にするつもりなど、少しも無かったのだ…
だが…どうすることも出来ない……真結には、それもよく分かっているつもりだった。
古びた銭湯を右に見ながら、路地は二筋目の小道へと突き当たる。
その時になって、漸く、真結は漆黒の澄んだ瞳を灰色の空へと向けた。
右手に、寺や家並みの瓦を大きく抱き込みながら、鮮緑の屋根が天に広がっている。浅緑は白い風に優しく愛撫され、無数の枝葉によって柔らかな波紋を描いていた。
その天蓋は威圧感など決して面に出さず、それどころか、繊細なまでの慈愛を醸し出している。
温かな緑葉の波を目にした途端、真結は胸元が熱くなるのを感じていた。
(ううん…まだ…まだよ……)
そう…まだ、涙は見せたくない……
きゅっ! と下唇を噛んで真結が足を早めた瞬間、狭い小道の上に黒く大きな点が一つ生まれる。
その点は次第に数を増やしていき、やがて、真結の上にも天の涙は降りかかっていた。
自らの想いを代わってくれた小雨に身を包まれながら、真結は慈光寺を過ぎると、すぐさま左手に飛び込んでしまう。
十四年間通い続け、すっかりと見慣れてしまった巨木の根元まで来ると、雨粒も翠の天井に遮られ大地までは届かない。
僅かに息を切らせながら、そのまま真結は『大塚の欅』の裏手へと回った。
鬱蒼と茂る森の木々を前に見ながら、柔らかな欅の肌にそっと寄りかかる。
優しく背を受け止めてもらった瞬間、初めて、真結はその頬に涙を零していた…
想いを我慢することも、周りを気にすることも無い。
いつも、この木の許で真結は心のままに振る舞ってきた。
…そして、今も、大きな悲しみを泪と共に訴えていく…
やがてゆっくりと膝を折り、地表に波打つ根の間で、真結は顔を伏せてしまった……
苦しげな嗚咽が、美しく調った唇から溢れ出す。
大地を叩く雨になど負けない重さで、悲痛な想いは風に運ばれ…全ての存在へと静かに受け止められていた……
どれ程の時が流れたのだろう。
しゃくりあげる声も、ゆっくりと潮のように引いていき…やがて一つ、真結は小さく深呼吸をした。
欅にしては凹凸の激しい太い幹へと頭を預けると、掠れた声でそっと囁き始める。
「…あのね…今日、みっちゃんに急に呼び出されたの。…夏休みにね、何処かに行こう、って相談してたから…日程でも決めるのかな、って……そう…思ってた……」
再び、頬に煌きが宿る。
頭上から零れる優しい雨音に励まされ、瞳を閉じると真結は静かに続けていた。
「…急にね、……カナダに引っ越すんだ、って……
みっちゃんも泣いてたのよ…
私、…何も言えなかった…」
そう…あの時は、何も言えなかったのだ。
…こんなに辛くて、悔しくて…悲しい想いも……
「…あなたに、分かるかな…カナダが、どれだけ遠い所なのか…」
電話も、手紙もある。会うことだって、不可能ではない。
だが、そのどれにも「費用」という名の化け物が立ち塞がってくるのだ。中学生の真結にとって、その化け物は乗り越えて行くことが難しいものだった。
いつしか雨は音を消し、時折、天蓋から雫が滴り落ちてくる。『大塚の欅』に護られた小雨の壁の小部屋で、真結は素直に想いを綴り続けた。
「…でもね、私より…みっちゃんの方が辛いはずなの…
大好きな人や、町や、お店や、学校や……
……とっても沢山のものとお別れするんだもん…」
『言葉』は途切れる事無く、欅の中へと溶け込んでいく。『音』になるものも、そうでないものも…《全て》を受け入れながら、欅の樹は温かな懐に真結を抱き留めていた。
「…きっと…みっちゃん、負けそうになると思うの……だから、ね…? …私、絶対に手紙を書くから、って……
……大人って、気楽よね。…新しい経験が出来るじゃない、って…若いから、すぐに言葉だって覚えて…向こうでも、友達が出来るよ、って……」
そんなことに、一体、何の魅力があるのだろう? 真結や美鈴にとって大事なことは、今、この瞬間から『大切なもの』、その《全て》の存在を喪失することなのだ。「寂しさ」などと、たった一言で片付けられるものではない。
十四年もの間、ここで、この地で、育ててきた想いを失うのだ……
「みっちゃんね…泣きながら、呟いてた…
『皆があたしに、お前なんて死んでしまえ、って言ってくるみたいなのよ』って……」
言葉を押し出した瞬間、胸の奥をぎゅっと握り潰された気がして…真結は、思わず身を縮めてしまった。
ふと、豊かな黒髪に柔らかな指先が触れる。
吹いていない風に導かれ…真結は少しだけ目を開けると、顔を上げた。
天を貫く樹冠の先で…広くて優しい枝葉が細やかな想いを籠めて、さ緑の光を送り届けてくれる……
「……」
溢れ出す『言葉』を暫く見つめた後、真結は木肌にそっと頬を寄せた。
「…ありがとう……いつも、励ましてくれて」
触れている想いの確かさを感じながら、真結は面にゆっくりと微笑を浮かべていった。
「…うん、…負けたりしない。私も、みっちゃんも……
『気持ち』って、距離や回数じゃないもんね…
《本当》って、そんなもんじゃないもんね……」
再び、風が応えてくれる。静かな葉擦れの囁きも、そっと真結を包んでくれる。
「…あなたが居てくれて、《本当》によかった…ありがとう、いつもいつも、私を慰めてくれて……」
そう、どれだけこの欅に助けてもらったことか…
濡れた視線の先には、懐かしい一本の根が見えている。
それは丁度、土から出た部分が平らになって、横に伸びていた。
幼い頃、独りの時に、よくあの根をテーブル代わりにしてままごとをしていたものだ。お気に入りの黄色いプラスチックの器を持ち出しては、厚く積もった枯葉と土を混ぜ合わせ、見えない誰かに食べてもらっていた。…本当に誰かに食べてもらっている気がして、嬉しくて仕方がなかったことを覚えている…
ままごとをしようとも思い付けないくらいに悲しい時には、ただこの樹の根元まで駆けて来ると、今、こうして座り込んでいるこの場所で、丸くなって泣き続けていたものだ。
たっぷりと昼の光を吸い込んだ枯葉は温かく…ふわっとした香りでいつも真結の小さな体を優しく包み込んでくれていた。かさかさと服の下で動く落ち葉のくすぐったさにも慣れてしまうと、そのままいつしか眠ってしまうことも度々だった。
大好きな『大塚の欅』の下でぐっすりと眠ることほど、辛い出来事を忘れさせてくれるものは無かったのだ……
…様々な過去が、この欅と結びついて真結の目の前に繰り広げられていく。
なんて素敵な思い出だろう……
「…《本当》に、ありがとう……」
この言葉の中に、どれだけの想いが含まれていることか…
その時、不意に、恐ろしい未来を思い浮かべ、真結は心の底からぞっとしてしまった。
…美鈴は、突然、この町と別れることになったのだ。
それが…若しも、自分だったなら……
「…ね、ぇ…私、も……いつか、…あなたと、お別れ、するのかな……」
深い絶望感に襲われる…
絶対に、そんなことになりたくない。
…だが、悔しいことに、自分だけではどうにもならない『力』があることも、真結には分かっていた…
またも、頬を涙が伝い始める。
夏休みも始まったばかりだというのに、どうして、こうも暗く悲しいことばかりが心を過ぎっていくのだろう。
暫く音を消していた雨も、再び強さを増したようだ。
自分の想いに呼応するかのような雨音に、真結は一層激しく欅の幹に縋り付いてしまった。
「…へぇ、これが『大塚の欅』か。本当に、大きいんだな…」
(…え?)
雨粒が傘で弾ける音と共に、小道の方から不意に声が聞こえてきた。
思いもかけない出来事に頬を上げると、真結はそっと静かに欅の向こう側を覗き見た。
…ザッ、ザザァァー…
遙か頭上の緑葉が、風も無いのに騒ぎ出す。
降り注ぐその音色に包まれて、小さな立て看板の傍に一人の少年が立ち尽くしていた。
…自分と同じくらいの年だろうか。
傘と雨の為に、はっきりと顔は見えない…
(あっ…!)
直後、真結は真っ直ぐ、彼の黒く澄んだ瞳を見つめ返してしまっていた。
少年にしては、大きな瞳をしている。
綺麗な輝きを宿すその双眸に見つめられて、真結は知らず指先に力を籠めると、欅の幹に縋り付いてしまった。
胸の奥では、まだ葉擦れの音が続いている…
…いや。…その歌声は更に一層力強く、速く…そして、温かく胸中を満たしてくれていた。
どれくらいの時間が流れたのか…よく分からない。
互いの瞳の奥を覗き込んだまま、二人は共に、その深奥で黄金と銀の海を認め合っていた……
だが突然、その彼の瞳が、ふっ…と翳る。
真結が気付いた時には、既に彼は自分の目の前で軽く腰を屈め、ハンカチを差し出してくれていた。
「え? …あっ、あの……
…ありがとう……」
そう言えば、ずっと哭き続けていたのだ。…随分と、酷い顔になっていることだろう。
恥ずかしさで頬を上気させると、慌てて真結はハンカチを受け取っていた。
この巨木の下では、雨も降りかからないのだが…彼は、黙って傘を差し掛けてくれている。
そんな彼の気遣いを、真結は素直に喜んでいた。
急いで頬の涙を拭うと、立ち上がり、微笑みかける。
「ありがとう…」
もう一度、今度は落ち着いて『言葉』を紡ぐ。
長く美妙な黒髪を背に流し、嬉しそうな微笑みを浮かべた真結の姿に、初めて彼も照れた顔で口を開いていた。
「よかったよ。怪我をしたわけじゃないんだね」
「うん…」
柔らかな口調に応えながら、改めて真結ははにかんだ瞳で目の前の少年を眺めていた。
こうして立ってみると、自分よりも少しだけ背が高い。肩幅もわりとあって、大柄な感じを受けるのだが…Tシャツから覗いている腕は、細く、筋肉質に締まっている。
それに…何よりも、その柔和な表情と優しい声がとても印象的だった。
…何故か、先程よりも話し辛くなって…貸してもらったハンカチを両手で握り締めると、真結は僅かに俯いてしまった。
「えっ、と…この樹、凄いね。傘もいらないんだな…」
無理に話題を作るように、彼が傘を閉じながら呟いている。
「…気に入った?」
今、初めて逢ったばかりで……本当に、初めてなのに…
…まだ少し、『彼』と一緒にいたい……
何故だろう…?
円らな瞳で彼をもう一度見上げると、真結は分からないままにそっと話しかけていた。
「あぁ、とっても。
俺、欅の樹がこんなにも大きくなるなんて知らなかったよ。ガイドブックだけだと、やっぱり分からないこともあるんだね」
彼がこの『大塚の欅』を気に入ってくれたことが、無性に嬉しい。
その想いの儘に、真結の頬には笑みが溢れていた。
だが次の瞬間、きょとんとした表情で彼に尋ねる。
「ガイドブックに、載ってたの?」
地元に住んでいても、知らない若者は多いのだ。祠に花を添えるのも、真結以外には近所のお年寄りばかり。ましてや、観光で来る人など、真結は今迄に見たことも聞いたことも無かった。
「そうなんだ。ただし、二十年前のものだけどね」
「え?」
物問いたげな視線に照れながら、それでも彼は頷き返してくれた。
「両親が子どもの頃のガイドブックなんだよ。
今はもう、無くなってしまった道や風景も多いけど、新しいガイドブックには無い、隠れた宝物も見付けられるからね。
この『大塚の欅』みたいに…」
穏やかな視線が、頭上を彷徨う。
「悩んでいる時に、こんな素敵な宝物と巡り会えることくらい、嬉しいことは無いよ。この気分が忘れられないから、またこのガイドブックを広げて歩き回るんだ…」
「ふ〜ん…」
同じくらいの年頃で、そんな旅をしている人がいることに、真結は素直に驚いていた。
だが、そんな想いで一人そぞろ歩くことも、素敵なものかも知れない。
きっと、彼にとってその楽しみは、自分がこうして欅に励ましてもらっていることと同じくらい、大切な意味を持っているのだろう。
「…やっぱり、変かな、俺」
沈黙を誤解して呟く彼に、大急ぎで真結は頭を振っていた。
「ううん、御免なさい。本当に素敵だな、って思ったから…」
「ありがとう」
再び笑顔が戻り、自分を優しく見つめてくれる。
その瞳に応えるように頬を赤らめながら、真結も微笑を深めて言った。
「じゃぁ、この『大塚の欅』も宝物になるのね」
「…一番の宝物になると思うよ。
来年は高校受験で嫌になるくらい苦しむだろうし、きっと、何度もここまで来るだろうね」
「あっ…」
それなら、彼は自分と同じ中学二年生なのだ。
……たった一つのことを知るだけで、心が弾んでくる…
もっと、もっと『彼』のことが知りたい…いや、知らずに…このまま……
「どうしたんだい?」
自分の想いに戸惑う真結へと、心配そうに声を掛けてくる。
「う、ううん。…何でもないの。私も、来年は受験生だから…」
「そうなんだ。じゃぁ、君も二年生なんだね」
心から嬉しそうに笑っている。
『彼』も、自分のことを知って喜んでくれているのだ…
高まり、響いてくる胸中の黄金色のうねりに負けそうで…真結は、一層、彼のハンカチを握り締めてしまった。
二人とも、暫く黙り込んでしまう。
その沈黙もまた、優しくて…真結はそっと瞳を閉じてしまった。
今、気付けば、雨音が小さくなっている。
風も出てきたようだ。
黒髪に指を絡め通り過ぎる白銀の乙女達に背を押されながら、真結はそっと心のままに囁いていた。
「…ありがとう……」
瞳を開けて見上げると、彼は驚いた顔をしていたが…すぐに優しい微笑みを浮かべ、そっと…静かに返してくれた。
「俺の方こそ…ありがとう」
大きな手が差し出される。
真結は躊躇いもせず、その手の中に指を滑り込ませると、しっかりと握り締めていた。
「俺、今日はもう、帰らないといけないんだ。
でも、必ず、またこの『大塚の欅』に戻ってくるよ」
「うん…」
口にはしなくても、真結にはよく分かっていた。
また、いつかここで遭える…
…必ず……
「それと…どんな悲しみが君を苦しめているのか、残念だけど、俺には分からない…
…でも、…こんなことしか言えないけど……元気を出して、微笑んでいて欲しいんだ。
大丈夫…どんな悲しい時にも、君にはこの樹が居てくれるんだからね」
「…ありがとう……」
真っ赤になって、少し俯きながら…真結は胸の中で続けていた。
(…あなたも、居てくれるんだもんね……)
「それじゃぁ……」
「…うん!」
互いに笑みを交わらせる。
切れ始めた雲間から射す斑な光を背に負いながら、二人はもう一度、しっかりと手を握り合っていた。
温かな指先が…ゆっくりと、離れていく。
…少し、寂しい気がする。
(ううん! 大丈夫…)
そう。この『温もり』は、決して離れたりしないのだ……
不意に聞こえてきた蝉の声と、暑さを刻一刻と取り戻す陽光に抱かれながら、彼が遠ざかっていく。
思えば、名前すらも聞いていない。
だが、出逢いそのものに比べれば、名前など、真結には些細なものに思えるのだ。
駅へ向かって道を折れる直前、彼は一度だけ振り返り、大きく励ますように手を振ってきてくれた。
嬉しくなって真結が応えるのを見届けて、彼の姿は視界から消えてしまう…
ふと気付くと、しっかりとまだ、彼のハンカチを握り締めている。
飾り気の無い、だが優しい想いに満ちたこの手の中の温もりも、再会を約束してくれている気がして…
…そっと、真結はそのハンカチを胸元に押し付けていた。
…ザザッ、ザザァァ………
大きな波の音が、緑の天井から零れ落ちてくる。
無数の色合いに染まり、所々では閃光を放っている天蓋を見上げながら、真結は小さく囁いていた。
「…本当ね……『彼』、あなたみたい……」
その言葉に、ただ、欅は葉擦れで応えるだけだった……