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宝の小箱  作者: くまミニ
2/22

第一部 宝の小箱 2

 一週間が、瞬く間に通り過ぎる。

 朝からずっと机に齧り付いていた聡美は、軽く伸びをすると立ち上がっていた。

 思えば、あの夏の日に出逢った男の子を想い返す度に、不安定な心のまま幾日も過ごしてしまう。今日だって、そうだ。こんな気持ちで勉強を続けても、本当に身に付いているのかどうか…だが、やらずにいることも、また不安なのだ。

 何故、不安定になるのか……それは、聡美自身でもよく分かっていた。どれだけ時間をかけて考えても、聡美には、自分の進路や夢など思い付かなかったのだ。

 聡美にしても、幼稚園や小学校に通っていた頃には、将来の夢や職業を何かに書いた記憶がある。だがそれは、どれも安易な、憧れとさえも言えないものばかりだ。

「……」

 そっと足を忍ばせると、部屋のドアを静かに開ける。そのまま台所に向かい、聡美はインスタントのコーヒーを用意し始めた。

 …あの日……あの『ブルーノ』で彼と逢った日、聡美は初めて『自分』がとても小さな存在に思えてしまったのだ。

 由利の恋愛話など、自分が本気になれば解決出来そうな問題だ…そう思っていた。だから、真剣ではあったものの、深刻ではなかった。聡美にとって、その問題は『まだ追い付けるもの』だったのだ…

「熱いっ!」

 ぼんやりとマグカップに触れ、思わず聡美は小さく叫んでしまった。指の先を耳たぶで冷ましながら、改めて慎重にコーヒーを持ち上げる。

 それ以上は物音をたてずに、聡美は再び部屋に戻っていた。

 乱雑なままの机の前に座ると…小さく一つ、溜め息が零れ出す。

 ……彼は…そう、自分と同い年のはずだ。だが、聡美にとって、彼は…最早『追い付けないもの』だった……

 追い付いてみたい、とは思う。だが…どうやって?

 何だか、目の前の参考書の山が、無意味なものに見えてくる。勉強そのものの大切さは、聡美にもよく解っているはずなのに…

「あ〜ぁ、…私、今、全然らしくない…」

 元来、物事を難しく考えるのが苦手な性質なのだ。半年近くも悩み続けていること自体、由利からは奇跡だと言われている。

 今更ノートを広げる気にもなれず、頬杖をつくと聡美はマグカップから立ち昇る湯気をじっと見詰めていた。

「…私、幼いのかな……」

 そう呟いた声も仕草も、確かに周りからは愛らしく見えるものだ。そんな周囲に甘えてきたことも、否めないだろう。

 だが、『幼さ』とはそれだけのものではない。

「もう…! すっごく憂鬱!」

 珍しく苛立った口調で言葉が飛び出した瞬間、不意にラジオからCMが流れてきた。

 思わず、びくっ! と体を縮めてしまったが、自分でタイマーをセットしたことを思い出して苦笑してしまう。ここ数年、気に入っている番組なので毎週時間を合わせているのだ。勿論、受験勉強中も息抜きと称して聞くようにしている。

 その番組は、特に珍しい曲や情報が流れるわけではない。ただ、毎週一つのテーマを、それも真剣な悩みや問題を決めては、リスナーやDJが真面目に応えようとする……そんな番組作りが気に入っているのだ。

「ちょっとだけ、やぁすも!」

 ノートや参考書を閉じると、机の脇に積み上げてしまう。ちょっとだけ…にならないことは、聡美自身もよく分かっている。いつもこの番組を聞いた後は、色々と考えさせられるのだ。勉強など、手につくはずがない。

 ラジオを目の前に持ってくると、マグカップのコーヒーだけを相棒に、聡美は聞き慣れた女性DJの声に耳を傾け始めた。



本番中、ぽつりと呟いた言葉に、こんなにも反応があるなんて、改めてこの番組を沢山の人が聞いているんだな、って感動しました。

先週、私は…

……『時間』は、私に何を残してくれたんだろう。

……『時間』に、私は何を残せたんだろう…

って言ったんです。その何気ない言葉に返事を送ってくれた人の中から、今日は『欅通りの風遣い』君のハガキを読んでみたいと思います。



「あっ…」

 心做しか、ラジオに耳を近付けてしまう……

 『欅通りの風遣い』…彼は、ただのリスナーのはずだ。だが、いつも真剣に、幾つもの悩みに応えている。そんな彼の姿勢や心配り、考え方がお気に入りで、聡美はいつしかファンと言ってもいいくらいに『彼』のことを気にしていた。

「ダメだよ、聡美。どんどん、ネクラになっちゃうよ」

 由利は心配してそう言ってくれるのだが、これは聡美にしてみれば少し的が外れていた。そもそも、聡美が聴いているラジオ番組は、今流れているこれ一つだけだし、この番組の内容は決して変なものではないと思っている。本格的に受験勉強を始める前までは、時にはハガキも出していたが、何もおかしな事は書いていない。それでも、何度か放送で読んでもらっているのだ。

 ただ…そう、自分でも少し変かな、って思っているのは……

 『彼』のハガキに緊張してしまうことだろう……



……『時間』は、私に何を残してくれたんだろう。

先週、真結さんはそう言われていましたが、ここに、僕なりに考えた事を書いてみたいと思います。

そもそも、『時間』の一方的な流れは、本質的には、僕達からあらゆるものを奪い去ることしかありません。

ですが、矛盾するようですが、だからこそ残してくれるものもあるのです。

…それが「思い出」と言う名の『過去』です。

「思い出」は、物事の善し悪しに拘らず、その人の心に残った出来事を、『時間』が美しく洗い清めてくれたものです。僕達はその『過去』を足場にして、更なる『時間』の行手を観ることが出来ます。例え、その「思い出」が嫌悪すべきものであっても、それが本人にとって大切なものだからこそ、過去は残り続けているのです。



「そうなのかなぁ……」

 自分にとって、それほど夏の日の出来事は大切なのだろうか…『時間』の流れが、わざわざ残してくれる程のものなのだろうか……

 聡美の目に、一瞬、にっこりと柔らかく笑う『彼』の姿が見えてくる。

 何だか急に慌ててしまい、聡美は意味も無くマグカップに唇を付けていた。



次に、『時間』に僕達は何かを残せるのでしょうか…

恐らく、何枚も送られてきただろうハガキの中には「そんな風に考えること自体、『時間』に囚われている証拠なんだ」と言った内容のものも多かったと思います。

それは、ある意味では真実です。

『時間』に縛られた思いは、《真実》なものへと近付く妨げになります。ですが、人々の多くはその限りある『時間』の中で、流されながら惰性と共に生きていくことしか出来ません。そんな有限の『時間』の中へと、何かを残したい……その思いを弱さと決め付けることなど、決して誰にも出来ないのです。



「そうよ!」

 思わず声に出しながら、聡美は一人大きく頷いていた。

 今、こうして座っている机の引き出しには、小学生最後の日に皆で書いたサイン帳が大事に仕舞ってある。この小さくても温かな冊子こそ、聡美達が『時間』の中へと残そうとしたものだ。『歴史』のように長大で複雑なものではないが、確かに聡美自身の『時間』の中へと残されたものなのだ…



『時間』に何かを残せるのか……この問いに対して、それが形見や記念品、或いは遺志のようなものを指すのであれば、それらは間違いなく人によって残せるものだと言えます。

ですが、きっと真結さんは、そんなことを言いたかったのではないと思います。

普段、こうして何気なく生きている…その一つ一つの行動、それ自身によって、『何か』を残せるのだろうか……

僕なら「残せる」と応えます。

何でもない通りすがりの出会い…ぽつりと漏れた言の葉……そんな普通の生活の一場面が、自分にとっても相手にとっても、とても大切なものとして、お互いの『時間』の中へと残されるのです。その行為の多くは、無意識によるものかも知れません。ですが、そうと気付いていなくても、自分が残した、そして残してもらった『何か』で、僕達は背中を押され歩き続けているのです。

長くなりましたが、最後に纏めるとすればこうでしょうか。


……『時間』は、私に何を残してくれたんだろう。

『時間』は、私に「思い出」を残してくれます。

……『時間』に、私は何を残せたんだろう…

『時間』に、私は「想い」を残せるのです……



「ふ〜ん…」

(何だか、宗教みたいね)

 そんな事を考えてしまったが、これは自分の中での「逃げ」なのかも知れない。

(…だったら、あの時も……)

 ……自分は、『何か』を残してもらったのだろうか…

 自分も『彼』に『何か』を残せたのだったら嬉しいな、っと少しだけ思ってしまう。そんな自分に気付いて、聡美は何故か再び慌ててしまった。

 夏休みの想い出の中で、もう一つ、絶対に忘れられないものがある。残してもらったと聡美が思っている……だが、実際には聡美自身が自分の『時間』の中に残した『何か』へと、意識が緩やかに流れ込もうとした時……

 不意に、女性DJの声が耳に飛び込んできた。



少し短くしましたが、この『欅通りの風遣い』君のハガキが、多くの内容を代表してくれていると思います。

『欅通りの風遣い』君は、最後にこう付け加えています。


近頃、『風の小道』さんのハガキが紹介されませんが、局の方にも届いていないのでしょうか。



「え?」

 ぱっ! とラジオを両手で掴んでしまう。

 一言も聞き漏らすことの無いように、聡美は耳を押し付けると息を潜め、集中した。



彼女の素直な視点が好きだったのですが、もしもリスナーでなくなったのなら残念です。


そうですね。私も、この頃『風の小道』さんのハガキを見ていません。彼女の小鳥や空の話は好きだったんですが…

『風の小道』さんも、『欅通りの風遣い』君と同じ中学三年生ですから、きっと受験勉強で忙しいのでしょう。私は、そうだと信じています。



 …ラジオを持つ指先が、目に見えるほどに大きく震えている。

 どうしても、聡美には体の震えを止めることが出来なかった。自分でも、顔を赤くしているのが分かる……

(どうしよう…私、こんなにドキドキしてる……)

 どんな些細な悩みでも真摯になって応えてくれる、そんな姿勢や優しさが大好きな『彼』が、聡美のペンネームを覚えていてくれたのだ。しかも、そのハガキの内容まで褒めてもらえたなんて…

 あれらのハガキこそ、聡美が何気無くペンを取って書いて送ったものだ。それを、こんなにも、いつまでも覚えていてもらえたなんて……

 まさか、自分が『彼』の『時間』の中に、『何か』を残しているとは思いもしなかった。

 ……だが…そう。

 同時に、彼が受験生だったことは、聡美にはとても衝撃だった。

 自分には、絶対に『彼』のような応えは書けない。勿論、書こうとしたことも無いのだが、あんな内容を考え付くことすら自分には出来ないだろう。

 ペンネームを折角覚えてもらっても、これでは『彼』との隙間はどんどん拡がってしまうだけではないか…

 コトッ…

 ラジオを机の上に置くと、聡美は椅子に深く座り直していた。

 …がっくりと、肩を落とす。

 もう、ラジオからの声も聞こえない。喜びが深い喪失感に変わろうとした瞬間、ふと、閉じられた瞼の裏に光が揺らめいた。

 あの、夏の日に出逢った男の子が笑い掛けてくれる…

 …柔らかな笑顔に導かれるまま、聡美の心は眩しい夏の光へと赴いていた。


 ……………………………………………………


「あ〜ぁ、やっぱり違うのかなぁ」

 普段、あまり図書館になど入ったことがないせいか、妙にこの静寂が落ち着かない。

「ねぇ、聡美。もう十日目だよ? きっと、違う町の子なんだよ」

 さすがに、由利もうんざりしている。そんな彼女の言葉にも、聡美はもう黙って頷くしか出来なかった。

 児島のおばさんの店で逢った翌日から、毎日、聡美は図書館に通い続けていた。どうしても、もう一度あの男の子に逢いたくて、仕方がなかったのだ。逢って、もっと色々なことを聞いてみたい…

 いや……本当に、逢いたいのかは…よく分からない。今にしても、そうだ。由利の言葉に、少しだけほっとしているのだから……

 もう一度、今日はこれで最後にしようと、薄暗いホールを横切って児童書が並ぶ部屋へと向かう。十日目にもなると、二人は堂々と胸を張ってこの部屋に入ることも出来るようになっていた。可愛らしい幼稚園児が絵本を広げる中へ入ることが、始めの間はとても恥ずかしかったのだ。何も、恥ずかしがる理由など無いのに…

 あの男の子は、こんな小さな子ども達に囲まれて、その小さな子ども達が読むのと同じ本を読みながら、ずっと座っていられるのだろうか……

 ……結局、その日も男の子の姿を見かけることはなかった。

 考えてみれば、今もこの暑い日差しの中で、彼は図面を片手に歩き回っているのかも知れない。例え、どれだけ本と子どもが好きであっても、頼まれた仕事を途中で投げ出したりはしないだろう。

「でも、聡美。どうして、そんなに会いたいの? まさか、好きになったんじゃないでしょうね」

 横に並んで自転車を押しながら、遠慮がちに由利が尋ねてくる。

「そんなんじゃないわよ!」

 少しばかり頬を染めながら、大急ぎで聡美は否定していた。

 そして、そのまま暫く黙った後で、ゆっくりと付け加える。

「どうしてか…なんて、分かんない……

 でも、知りたいじゃない? どうして、そんな先のことまでも自信を持って言えるのか…どうなるか、未来なんて分かるはずないのに…

 このままじゃ、私、自分が間違ってる気がして悔しいのよ」

 そう、未来なんて分かるはずがない……だが、分からない未来だからこそ、自分自身で創ることも出来るのではないか……

 一瞬、胸を過ぎった考えに、自分自身で驚いてしまう。

 真夏の陽光に灼かれながら、もう少し聡美が考えてみようとした時、由利の言葉が耳に飛び込んできた。

「でもね、聡美。叶うかどうかも分からない夢を、そんなにはっきり言うことが凄いものなの? だって、そんなの潰れても当然じゃない。夢と仕事は別だと思うよ。だから、大学出るまでに仕事をみんな探すんじゃない」

 ちらっと浮かんでいた思いも忘れ、聡美は賛成するように小さく頷こうとした。

 …だが、それが出来そうにない。

 大学を出るまでに仕事を見付ける…それは、後、何年間か逃げ続けることではないのか……

 ふと目を向けた先で、黒いくらいの青空から照り付ける日差しを受け、アスファルトが微かに揺らめいている。緩やかな坂を上りながら、セミ達の賑やかな音楽に身を包まれた時……

(あっ…!)

 不意に、一陣の風が背後から吹き抜けていく。

 思わず、聡美は顔を高く上げていた。柔らかな欅並木の緑葉の向こう、純白の雲が美しく輝き、広がっている。白雲を照らすその鋭い光は、頭上の繊細な葉群を縫って、大地に漣を描き出していた。

「きっとね……」

 自分を囲む素敵な存在、その一つ一つを目で丹念に追いながら、聡美はそっと呟いていた。

「あの子は、そんなことも知ってると思うの。でも、それでもやろうとしてるのよ。

 …きっとね、その強さを知りたいんだと思う」

「ふ〜ん…でも、その強さって、しんどいもんだと思うよ」

「……うん」

 だが、それでもいい。知ってみたい。

 この夏の一瞬が煌いているように、あの男の子の目も輝いていたのだ。あの瞳を、もう一度見てみたい。

 そして…柔らかく笑いかけてもらいたい……

 それだけで、聡美には『強さ』が分かる気がしていた。

 欅が、無限の空に向かって葉擦れの歌を奏でている。その豊かな音色の下を、少し黙り込みながら、二人は共に並んで潜り抜けていった。


 由利と別れ、マンションに帰り着くとすぐに、聡美は服を着替え始めていた。

(私、バカみたい……)

 少し、そんな自分の行為に呆れてしまう…

 だが、聡美は手を止めようとはしなかった。本当は、随分と真剣なのだ。

 十日前、あの男の子と逢った時の服装を身に着けると、聡美は誰もいない玄関から外に飛び出していた。

 今から、あの『ブルーノ』に行くつもりだった。

 万に一つの確率でもいい。いや…逢えないだろう……分かっている……

 だが、聡美はこうせずにはいられなかったのだ。

 そのまま、再び強烈な日差しの下に駆け出すと、聡美は隣接するマンションの角へと足早に歩き始めた。自転車は乗りたくない。あの日も、自分は歩いておばさんに会いに行ったのだから…

「え〜いっ!」

 不意に、先の方で幼い女の子の声がする。聞き覚えのある、近所の子どもの声だ。

 別に、気にも留めずに棟の向こう側へと回ろうとした瞬間、大人びた男の子の声が聡美の耳に飛び込んできた。

「あっ! う〜ん、取られたか」

 思わず、凍り付いたように足が止まる。

 ……間違えるはずもない。ずっと…そう、ずっと、探し続けていた声なのだ。

 動けない…聡美には、ただ、大きくなる鼓動を抑えるように、胸元に組んだ両手を押し付けることしか出来なかった。

「えへ、もう、あたしのもんだよぉ」

「う〜ん…」

 動きたい…覗いてみたい……そう、自分は『彼』に逢いたかったのだ……

 …だが、……それでも…見つかりたくない……

(何してるのよ、聡美…!)

 きゅっと手を握り締める。

 ……そう、もう二度と、こんなチャンスは無いかも知れないのだ。

 そっと…そっと、足音を立てずに、建物の影から覗き込む。一瞬、こっちを向いていたらどうしようかとも思ったが、幸か不幸か、見覚えのある麦藁帽子は聡美に背を向けて腰を下ろしていた。

 階段前の植え込みに座り、休憩していたらしい。傍には、あの黒いケースと缶ジュースが置かれている。その彼の周りに二人、小学二年生くらいの女の子が、一人は図面の一枚を振り回して飛び跳ね、もう一人はすぐ横で面白そうに彼を見詰めていた。

 彼自身は、大袈裟に腕を組んで悩んでいるらしい。

 だが、ふと顔を上げると、彼は横に立っていた女の子に困り切った口調で話しかけていた。

「あんなこと言ってるけど、どうしようか」

 その言葉に、幼い女の子の方も困ったように笑っている。それもそうだろう。自分だって、図面を振り回す女の子と同じで、彼をからかいに来ているのだ。

 怒りもせずに友達に相談しようとしている彼を見て、少し離れていた女の子の方も立ち尽くす。その瞬間、彼は立ち上がると、図面を持った女の子へと駆け寄っていた。

「わっ?」

 慌てて逃げようとした時には既に遅く、女の子はしっかりと両手で捕まえられてしまった。

「ほら、やっぱりこれはお兄ちゃんのだな」

「ずるぅ〜いっ!」

 腰に手を当てて脹れている幼い子どもを見て、彼は心の底から楽しそうに笑っている。

「ふんっ! っだ」

「あはは。まだまだ、修行が足りないな」

 悪戯っぽく片目を瞑ると、『彼』は取り戻した図面を黒いケースの中に仕舞い込んでしまった。

「さてと、仕事、仕事」

 そう言うと、まだ可愛く口を尖らせている二人の小さな女の子に、『彼』はにっこりと優しく笑いかけた。

 だがその時、ふと思い出したように『彼』はその二人に尋ねていた。

「そうだ。この向こうのお家って、誰も住んでないのかな」

「うん。誰もいないよ」

 割と、あっさり答えてくれる。そんな二人の頭を軽く叩くと、『彼』は柔らかな口調で言った。

「そうか、ありがとう。じゃぁね」

「うん。ばいばぁい!」

 大声で叫ぶと、幼い子ども達は手を繋いで向こうの公園へと走り出していく。

 『彼』は、一人でそんな女の子達を見送ると、残った缶ジュースを飲み干してしまった。


 ずっと覗いていた聡美は、今すぐ出て行くべきかどうか、少し躊躇っていた。

 何だか、前に逢った時とは随分と印象が違って見える。だが…やっぱり、以前と同じ『彼』なのだ。

 僅かの間、身を引くと壁に凭れ、視線を落としてしまう。

(………えいっ!)

 怖がってしまう心を必死になって抑え込むと、建物の影から身を押し出し、瞳を上げる……

 ところが、最早そこには『彼』の姿など何処にも見えなくなっていた。

「えぇ? そんなぁ…」

 慌てて『彼』がさっきまで座っていた植え込みへと走り寄り、周りを見渡してみる。だが、何処にも…停まっている車の陰にすら、人っ子一人見当たらないのだ。

 あまりのショックに、聡美はぺたんっ、と植え込みの傍に座り込んでしまった。

(ついさっきまで……ここに、こうして…座ってたのに……)

 どうして、自分はすぐに飛び出さなかったのだろう……

「もうっ!」

 両の拳を握り締めると、力一杯、膝に叩き付ける。

(……やっぱり…もう、逢えないのかな…)

 思えば、『彼』の名前すら知らないのだ。全ては《偶然》に頼るしかない。

「ついてないなぁ…」

 こうして座り込んでしまうと、どんどんと弱気になってくる。どれだけ自分の周りに目映い光が満ち溢れ、どれだけセミ達が声を限りに叫んでいても、今の聡美の心は夏から程遠い気分で一杯だった。

「えいっ! キックだぁ」

 突然、目の前の階段から、小さな子どもの声が聞こえてくる。続いて、どっと湧き上がる幼い歓声に驚いて、聡美は立ち上がるとマンションの中を覗き込もうとした。

(……!)

 不意に、暗がりから、誰かが飛び出してくる。

 慌てて身を引いた聡美のすぐ前で…まるで何事も無かったかのように『彼』が笑いながら立ち止まっていた。

「え?」

 思いもしなかった状況に、体が硬直してしまう。息をすることも出来なくなりそうだ…

「ん?」

 そんな聡美に気が付いて、『彼』はにっこりと笑い掛けてくれた。

「やぁ、下村さん」

「え? えぇ? ど、どうして名前を知ってるのよ!」

 思わず怒鳴ってしまった聡美に、『彼』は少し困った顔で頭に手を当てていた。

「まぁ、それは…いや、やっぱり、恥ずかしいから言えないな」

「何よ、それ! ねぇ…」

 そう言い掛けた時、不意に後ろからクラクションが聞こえてくる。慌ててその車に向かって手を振ると、『彼』は急いで聡美に言った。

「ごめん、怒らせたみたいだね。でも、俺だって必死になって調べたんだ。

 また、逢いたかったから…」

「…え?」

 早口で話す『彼』と、一瞬、目が合ってしまう。それが何故か気恥ずかしくて、二人ともすぐに目を逸らしてしまった。

(やだ、どうしよう…)

 抑えようとすればするほど、鼓動は大きくなっていく。頬が熱を帯び、赤くなってくるのが自分でも分かるのだ。

「あの…じゃぁ、俺、もう行かなくちゃいけないから」

「え? あっ、えっと…」

「じゃぁな!」

 慌てて口を開こうとした聡美に、大きく手を振って駆け出していく。

「ちょっと待ってよ! 私のことだけ知ってるなんて、ずるぅいっ!」

 必死に叫ぶ聡美に、一度、『彼』は嬉しそうな笑顔を向けてくれた。

 だが、次には車に乗り込み、すぐさまエンジン音は遠ざかってしまう…

 本当に、言葉が聞こえたかどうかは分からない。ただ、自分の中の気持ちを、少しは伝えられた気がする。

「…今度逢ったら、絶対、許さないんだから」

 そう、今度逢ったら……

 喜びに満ちる囁きは、白銀の風に運ばれ天空を巡る。

 今日、今のこの素敵な出来事を早く伝えようと、聡美は『ブルーノ』に向かって走り始めていた。

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