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宝の小箱  作者: くまミニ
19/22

第三部 真の小舟 1

 マグカップから立ち上る、コーヒーの豊かな香りの向こう側。

 小さなラジオのスピーカーから、柔らかな女性の声が流れ出している。



今週も、『素敵』なことに巡り会えたでしょうか。

今晩は、水口みなぐち 真結です。

今夜は早速、気になるハガキがあったので、読んでみたいと思います。

大阪市に住む、『茜色の夕風』さんからのハガキです。

「今日は、どうしても聞きたいことがあってハガキを書きました。

私は中学一年生なのですが、いつも周りのみんなからは子どもだ、子どもだと言われています。背が低いことも原因かも知れませんが、それよりも、私の考えが幼稚なんだそうです。

確かに、私には他のみんなよりも《ロマンチスト》なところはあります。

白馬の王子さまではありませんが、赤い糸や《偶然》を今でも信じてるんです。

だって、不思議だと思いませんか?

これだけの人の中から、たった一人だけを選んで一緒になるんですよ?

私には、それはとてもスゴイことに思えるんです。

でも、みんなは言います。

《偶然》なんて待ってても、恋人は出来ないよ、って。たくさんの恋人を捨てて、それから結婚するんだ、って。

私には、分かりません。

どうして、そんなに何人もの人を『好き』になれるんでしょう?

私には、『たった一つ』でいいんです。

…でも、きっと、こんなことを疑問に思うからこそ、みんなが子ども扱いするんでしょうね。

お願いです。水口さん、教えてください。

『たった一つ』の《偶然》、奇跡や運命はあるんでしょうか。

そして、それを夢見てもいいんでしょうか。

お願いします。どうか、水口さんの意見を聞かせてください。

変な文章で、ごめんなさい」



 消え入るように、声が途切れる。

 暫しの間、闇の中を穏やかなBGMだけが満たしていた…



…私なら、《偶然》も、奇跡も、運命もあると思います。

ずっと一緒に暮らしていく人との出逢いを言えば、それは確かに『たった一つ』ですし、更にもっと多くの《偶然》が、あらゆるところで、毎日積み重ねられています。

これからするお話は、随分と長くなるので電波に乗せていいのかどうか、迷い続けたのですが……私は、今夜から何週間かに分けて一つのお話をしてみたいと思います。それが嫌だと思われた方は、局の方までどうぞ抗議のハガキを出してください。私自身、まだ迷いがあるので、そのご意見は大切にしたいと思っています。

このお話は、実は私自身のことなのです。

これが直接『茜色の夕風』さんへの応えになっているかどうかは分かりませんが、その手がかりにでもなってくれればと願っています……



 不意に、一陣の風が窓ガラスにぶつかってくる。

 一瞬の静寂の後、彼女の話は始められていた……


 ……………………………………………………


 昨日までの細雪は、小春日和の暖かな日差しに照らされ、その儚い身を大地へと還している。

 天蓋には青く澄んだ中空のみが広がり、風は白雲一つ遊ばせず、緩やかに地平を目指して通り過ぎていった。

「ほら、真結。これが『大塚の欅』よ」

 その風に、まだうら若い母親の声が乗る。続いて、赤ん坊の愛らしい笑い声も、大気の中へと溢れ出していた。

 母親は、そんな首の据わっていない真結に、黒く汚れた立て看板を見せている。

 墨が流れる木板の向こう…そこに、巨大な欅が聳え立っていた。

 ……本当に、大きい。大人が三人がかりで、漸く囲えるほどの大きな幹だ。

「ここにはね、昔から神様が住んでいらっしゃるそうよ」

 優しく真結に話しかけながら、母親は立て看板を回り、巨木の根元へと歩み寄った。

 陽光が柔らかな敷布を広げる根の間に、小さな祠が祀られている。その前には、今でも毎朝、新鮮な草花がそっと静かに添えられていた。

「…でも、まだそんなこと言っても、分かんないわよねぇ」

 同意を求めて覗き込む母親に、赤ん坊はきゅっ! と握り締めた手を僅かに動かしてみせる。

 そんな仕草一つが愛らしく、美しい微笑みが頬に浮かぶ。

 果てなど無い蒼穹から届く冬の光は、欅にしては粗雑な木肌に、斑の影を描き込んでいる。

 赤ん坊が見上げる遙かな先では、細やかな枝の霞が、残った枯れ葉と共に青い空を無数の破片に区切り取っていた。

 高さは、凡そ二十メートルはあるだろうか。何処までも太く真っ直ぐな幹が支えているのは、軽く被さる枝葉の傘だ。その微細な枝の影によるものか、凹凸の激しい幹であっても、その荒々しさよりは柔和な曲線に目が留まる。

 見事な樹へと惜しみない感嘆の視線を送りながら、母親は暫く黙り込んでいた。

 だが、不意に腕の中に動きを感じ、慌てて赤ん坊に目を落とす。

 見れば、真結が欅の裏手に首を向けようと、身を伸ばしている。だが、寂れた村はずれにある『大塚の欅』の裏手は、すぐ山の裾野へと繋がっており、藪以外には何も無いはずだ。

「真結? 何かいるの?」

 母親は欅を囲む塀に沿って裏へと周り、少し辺りを見回してみた。

 だが、別に何も変わった様子は無い。

 隣接する慈光寺の前の僅かな草地から、その先へと続く家並みまで…自分達以外には、誰も見えないのだ。道を挟んである公園にも目を向けてみるが、走り去る背中さえ見当たらない。

「…まさか、森に入るなんてねぇ」

 いや、この辺りの子どもならあり得ることだ。何より、自分がそうだったのだから…

「…ジュッ! ムン…」

 唾と共に吐き出された声に、母親は自分の宝物を見下ろしていた。

 胸元では、赤ん坊がその小さな手を、必死に欅まで伸ばそうとしている。

「どうしたの? 触りたいの?」

 細く柔らかな指先が広がり、『何か』を掴もうとしているのだ。

 愛らしい紅葉が、開いたり閉じたりを繰り返す。

 きょとんとした表情の母親に抱かれて……今、真結はその大きく円らな瞳で、風に遊ぶ豊かな黒髪を認めていた……

 温かな幹に背を預けた少女は、そんな赤ん坊にそっと微笑みかけてくる……

「ッチュ、グッ、ブゥ…」

 言葉にならない『言葉』で尋ねているのに、少女は嬉しそうに『大塚の欅』を見上げるだけで、応えてはくれない。

 ……ザザッ!

 突然、欅の幹が黄金色の泡に包まれ、少女は夏の陽光に輝き出す。

 梢から葉擦れの波が途切れることなく届けられ、赤ん坊は未だ知るはずのない存在に囲まれながら、思わず澄んだ瞳を閉じてしまった。

「あら、もうねんねするの? じゃぁ、初めてのおんもはここまでね」

 母親の言葉に、真結が目を開けてみると…

 ……最早、そこには、冬の青く澄み切った空しか見つからなかった……

 あの少女も消えている。

 覗き込む、母親の柔らかな笑みに、先程の少女の微笑を重ねながら……

 …本当に、赤ん坊は小さく欠伸を零していた。

 きゅっ、と手が丸く閉じられ…やがて、ゆっくりと心地好い眠気が赤ん坊を満たしていく。その黄金色の海に身を委ねながら、真結は母親の胸に頬を寄せていた。

 銀色に煌く風が、美妙な枝の隙間を抜けていく。

 『未来』の青葉を波立たせながら…

 いつまでも…いつまでも……

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