第二部 光の小道 6
暑かったにも関わらず、昼の間に眠ってしまったからだろうか。
夜更けになっても、真琴は少しも眠れそうになかった。
……いや。昨夜のアキラの言葉が、心に残ったまま離れないのだ。
こんなにも、自分が無力だとは思わなかった…弥生の悩みには、結構、真剣に応えることも出来るのだが……
真琴は、趣味として星を見ることも面白そうだと思い始めていた。月食・日食の素晴らしさから、光害の問題。流星の儚さから、惑星の模様の変化まで。『彼』からは色々と、少しずつだが聞かせてもらったのだ。そのどれもが不思議さと計算式が入り交じる、奇妙な…そして、だからこそ、わくわくするようなことばかりだった。
だが……アキラ自身は、その趣味を失おうとしている。…決して、それを望んでなどいないのに…『彼』は、『大切なもの』を見失っているのだ。
…真琴が共有したいと願う、『大切なもの』を………
深い溜息が、机の上を滑る。
…弥生なら、何と応えるだろうか…彼女も、読書という『大切なもの』を失いかけたことがあったのだろうか……
電話をすれば、すぐにでも確かめられるのだが、何だか真琴は気が進まなかった。
この問題に、そんなにも簡単に答を出していいのだろうか…?
確かに、弥生なら心から心配して答えてくれるだろう。だが……『大切なもの』を探す自分にとって、この悩みは一人で考えるべきなのかも知れない…
今、ここで考えなくては…自分が折角『大切なもの』を見つけ出しても、すぐに失ってしまうかも知れないのだ……
あまり考え事が得意ではない真琴は、落ち着かずに椅子の上で体を揺すると、目で『何か』を探していた。
夜中に、こうして一人で考えていることが、何だか苦痛に思えてくる。
…逃げているのかも知れない。どうしても見つけ出さなくてはならない落し物が見つからず、パニックを起こしそうになっているのだ…
ふと、本棚の上のラジオが目にとまる。
洋楽の新譜の情報を聞くくらいで、もっぱらレンタルに頼っている真琴にとって、ラジオは縁の遠い存在だった。
だが、今は何でもいい。少なくとも、人が話している声を聞くだけでも、落ち着けるはずだ。
机に下ろして何気無く電源を入れると、AM放送が流れ出す。何かをぶつけて、FMから切り替わっていたらしい。FM放送を聞き慣れた耳にはくぐもって聞こえる女性DJの声が、白い光の中へと溢れ出してくる…
今週も、『素敵』なことに巡り会えたでしょうか。
こんばんは、水口 真結です。
今日は、早速、先週の悩みに対する応えを読んでみたいと思います。
本当に沢山のハガキが届いたのですが、その中でも、やっぱり『欅通りの風遣い』君のものが一番まとまっている気がするので、代表して彼の手紙を読んでいきます。
(何よ、この番組)
今迄に聞いたことの無いDJの声だ。内容も重苦しいものらしいので、真琴はFMにチューナーを合わせようとして…
大好きだったはずなのに、趣味を楽しめなくなった……
先週、『銀の月』さんはそう書かれていましたが…
「えっ!」
思わず手を止めると、真琴はラジオを凝視してしまった。
硬直したまま動けずにいると、静かな女性の声がゆっくりと耳の中に流れ込んでくる……
…同じような思いは、本当に『大切』な趣味を持つ人なら、誰でも体験するものだと思います。
『銀の月』さんは、自分自身が悪いのだと責めていましたが、決してそうではありません。
僕自身の経験が適切かどうかは分かりませんが、一つの例だと思ってください。
僕は、童話やファンタジーを書くことを趣味にしています。それこそ、本当に大切で、何ものにも代えられないものです。
ですが…それだけ『大切』だからこそ、僕も一時期ですが、「執筆」に囚われてしまったことがあるのです。
誰の目も気にせず始めたはずなのに、目には見えない『何か』が気になって、途中で止めることが出来なくなってしまったのです。
今になってみれば、それは『趣味が僕を使って童話を書かせていたんだ』と言えることが出来ます。
趣味を持つことは素晴らしいものです。それは『自分』を自身に示してくれるものですし、その『自分』を一層確かなものへと育ててくれるものです。
ですが…ここで、はっきりとさせておくべきことがあります。
それは、『僕が趣味を持っている』ということです。
趣味を大切にし過ぎた為に、主従関係を逆転させてしまった時、人は趣味に囚われ、『自分』を見失う倦怠感の中へと押し流されてしまいます。
『銀の月』さんも、『大切』だからこそ、悩んでいるのです。それは誰を責めるべきものでもなく、ましてや自分自身を追い詰めるべきものでもありません。
…そして、これを乗り越えてこそ、得られる『大切なもの』もあるのです。
「……」
きゅっ! と口を一文字に引き結んだまま、真琴は黙り続けていた。
この手紙の一言ひとことを聞き漏らすまいと、《全て》の心で、女性DJから届く想いを受け止めていく…
…その倦怠期は、ほぼ一年間、僕を苦しめました。
どうして、それを克服出来たのか…少しでも彼女の慰めになるなら、数少ない経験の一つですが、ここに書いてみたいと思います。
まず僕は、今まで書き続けてきた長編を、何が何でもそのまま書いていこうとしました。毎日毎日、必死になって言葉を押し出しては、文章に綴ろうとしたんです。
ですが、勿論、そんな文章に自分が納得出来るはずもなく、何度も同じ箇所を直そうとしては、結局一番始めの文章に戻ったりしていました。
そして…とうとう、文章を書くのが嫌になり、僕は完全にペンを置いてしまったのです。
(…えっ!)
思わず、身を乗り出してしまう。
それでは…『大切なもの』を見捨ててしまうことになるのではないか。
……『シルヴィー』の店先に掛けられた写真パネルと、アキラの顔がラジオの前に浮かび上がってくる…
…まるで、救いを求めるように、真琴は耳を傾け続けた。
一ヶ月くらいでしょうか…僕はまるで文章を書く気になれませんでした。
ですが、その間にも、自分の中から何かが出てこようとするのです。『大切なもの』を失った悲しみが、その『何か』にしがみつこうとして……
…僕は、本当に迷っていました。ですが、分かってもいたのです。
『まだ、《時》は来ていない。今、ここで甘い汁に手を触れた瞬間、僕は趣味の奴隷になってしまうのだろう』と。
正直に書けば、誘惑に負けてペンを走らせたこともあります。けれども、すぐに苦しくなって、続けることは出来ませんでした。
それがある日……『何か』のきっかけで、もう一度書こうと思い立ったのです。
残念ながら、その印象を具体的には書けそうにありませんし、そのきっかけは決して『銀の月』さんの例にはならないと思います。
心が真っ白になった時、自分の好きな存在が、その中へと入り込み…そして、『何か』に触れるのです。
薄墨の雲を背に広がる黄金の光と淡い虹に励まされるのか、素敵な雨音と子ども達のはしゃぎ声に背を押されるのか……
…そのきっかけは、無意識的な《偶然》によって与えられるものでしょう。
その瞬間、趣味を得たいという願いが激しく泡立つことを止め、不意に胸中に凪が訪れ……そして、《本当》の存在を得ることが出来るのです。
『銀の月』さん。
趣味は、忘れてしまってもいいのです。
絶対に、自分を責めてはいけません。そんなことをすれば、再び訪れてくれるはずのものも、現れなくなってしまいます。
大丈夫、《本当》に『大切なもの』は、貴女の許へと必ず帰ってきます。
長期間になるかも知れません。
ですが、必ず、戻ってくるのです。
趣味とは、『自分』の心なのですから……
時間の関係で少し短くさせてもらいましたが、内容は傷付けていないつもりです。
他にも、もう一つ別の趣味を探し出して交互に楽しんでいる人や、同じ系統でも少しだけ違うものを…例えば『欅通りの風遣い』君で言えば、ファンタジーではなくミステリーを書いてみる…そんな風に解決している人もいました。
私が驚いたのは、こんなにも沢山の人達が、趣味のことに悩んだり努力したり…そして、それを自分自身で乗り越え続けてきたということです…
「……ふぅ〜…」
流れ続けるラジオから身を引くと、ゆっくりと椅子に凭れて、真琴は全身から力を抜いていった。
…今の話を、『彼』にも伝えたい。
(今度逢ったら、何か別のことでも勧めてあげようかなぁ…)
そうだ! プールや海でもいい。今度、逢った時にでも……
「あぁーっ!」
夜中であることも忘れて、思わず真琴は力一杯叫んでしまった。
…何処か、悲鳴にも似ている……
「どうしたの?」
隣室からかけられた声に、慌てて真琴は返していた。
「う、ううん、何でもない」
「…そう」
ドアの閉まる音がする。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、先程思い出した事実に、真琴の心は再び激しく乱れてしまった。
今度逢おうにも、よくよく考えてみれば『彼』の名字も電話番号も知らないのだ。何処の高校で、何処に住んでいるのかも分からない……逢えるはずがないではないか……
途轍も無い絶望感に襲われてしまう。
…だが、不意に希望が湧き上がってくる。
そう、あの『シルヴィー』のおばさんに頼めば、教えてもらえるだろう。他人のことをそうそう簡単に話してもらえるとは思えないが、電話番号くらいなら…せめて名字だけでも…駄目なら、自分の電話番号だけでも渡してもらえたら……
幾つもの小さな思い付きに縋り付きながら、真琴はラジオの電源を切ると、机の灯りも消した。
そのまま、ベッドに倒れ込む。
…待つほどもなく、すぐに眠りは真琴を静かな闇の淵へと誘っていた……
「本当にごめんね、フォンちゃん。まだ、本読めてなかったでしょ?」
図書館の手前で右手に曲がり、いつもの脇道へと入り込む。
行く手に見慣れた店が現れると、真琴は辛そうに弥生の顔を覗き込んでいた。
本当なら、二週間に一度しか図書館には行かないのだ。当然ながら、弥生もその計画で本を借りている。本が好きだからと言って、読むのが早いわけではない。それどころか、どちらかと言えば、弥生はじっくりと集中して物語を読んでいく。そのことをよく知っている真琴は、自分の想いに彼女を引き込んだことを、本当に済まないと思っていた。
だが……弥生にも話しておきたかったのだ。あの夜に打ち明けられたアキラの悩みや、偶然耳にしたラジオからの応え。自分が『彼』と連絡すらとれないことまでも、真琴は弥生に話していた。
「…ううん、…読み終わったものもあったから……」
にっこりと微笑む仕草が、一層真琴を落ち込ませる。
今になって考えてみれば、店のおばさんに『彼』の電話番号を尋ねるくらい、自分一人でも出来るはずだ。
ただ…別に、はっきりとした理由があるわけではないのだが……真琴は、そうすることが嫌だった。
…若しかしたら……今でも、弥生に嫉妬したことを気にしているのかも知れない……
『彼』との関係を秘密にすることは、真琴に裏切りに似た想いを抱かせるのだろう。
「ごめんね。今度、絶対、お詫びするからね」
「……」
優しく、そっと頭を振ってくれる。
だが、その柔らかな面が不意に霞むのを見て、思わず真琴は足を止めてしまった。
弥生も立ち止まると、黙って足下へと視線を落とす。
「…マコちゃん……そんなにも、逢いたくなるの…?」
「…え?」
思いがけない呟きに、一瞬、絶句してしまう。
だがすぐに、その言葉の意味に気付くと、真琴は遠慮がちに聞き返していた。
「フォンちゃん…若しかして……」
残された沈黙の中に『言葉』を認め、弥生はこくんっと頷いた。
「…会った場所まで来たら…走って通り過ぎてるの……周りを見ないようにして……」
「あ〜ぁ…」
思わず溜息を吐いてしまうが、弥生の怯えた目を見ては無理強いや説得も躊躇われてしまう。
「…会いたくないの?」
「……分からない…ただ……怖くて……」
両手を握り締めると、弥生は胸元に強く押し付けていた。
「きっとね……それが、逢いたい、ってことだと思うよ。
相手の子も、それで怒るような奴なら、捨ててもいいんじゃない? フォンちゃんを、フォンちゃんのままで『好き』になってくれる人の方がいいもんね」
「……」
同意も否定もせず、弥生は複雑な表情を浮かべている。
(迷ってるなんて…)
柔らかく、そっと目を細めてしまう。
弥生自身も、変わりつつあるのだ。黄金の光に満ち溢れた小道を前にして、戸惑いと不安に襲われているのだろう。そして同時に、期待と憧れも感じているのだ。
その小さな背中を少しだけ…ほんの少しだけ、押すだけでいい。
だが、それは真琴の役目ではなかった。それは雷と言う名の男の子自身の役目であり、他の誰にも彼の代わりは出来ないのだ。
光の小道……真琴自身は既に、その道に先を見詰め、喜びと共にその上を歩き始めていた。
今日も、白い雲は地平に湧き上がる程度で、澄み切った青空が全てを光と影に分けている。くっきりと裂かれた境界が風の愛撫に揺れ動き、斑な絵柄が路上の二人を包み込んでいた。
「…ほら、フォンちゃん! 大丈夫、焦らなくてもいいんじゃない? 『その時』は、望んでなくても勝手に来るもんよ」
そう言っている自身も、少し焦ってここまで来ているのだが…
思わず、心の中で苦笑してしまう。
「……うん…ありがとう、マコちゃん」
弥生の微笑みに頷くと、真琴は再び『シルヴィー』に向かって歩き始めていた。
店先に近付くにつれ…だが、何かが足りなくなった気がする。
「…あれ?」
大きなウィンドーの向こう、薄暗い店先を背にして掛かっているはずの写真パネルが…
…無くなっている?
「えぇっ!」
思いもしなかった状況に、様々な憶測と共に衝撃が胸を突く。
一体、『彼』はどうしたのだろう…家庭教師を辞めたのだろうか…
「マコちゃん…!」
弥生の言葉も聞かずに、ぱっ! と走り出す。小さな鐘が下がるドアを押し開けると、真琴は飛び込みながら叫んでいた。
「おばさん! あのパネ…ル……」
高ぶる声が、次第に小さく…すぐに途切れてしまう。
弥生がそっと後ろから覗くと、真琴の前では『シルヴィー』のおばさんが驚いた顔をして立ち尽くしている。そして、その横には……
「どう…して……どうして、アキラ君がここに居るのよっ!」
そう、アキラが嬉しそうに小さく手を振って二人を迎えていたのだ。
「それに、どうして? どうして写真を吊らないの?」
自分の想いを持て余し、少し怒った口調で問い掛けている真琴に対し、アキラは全く動じずに笑い声を上げていた。
「星を撮るのは、暫く止めることにしたよ。『大切なもの』に、少し休暇をあげようと思ってね。
近頃は、俺を主人と言うよりも手足として扱っていたし、ちょっと間を置いた方がいいと思うんだ」
『彼』の言葉に、真琴は思わず肩を落としてしまった。
それこそ、真琴が『彼』と逢って勧めようとしていたことではないか。あのラジオ番組を聞いた話をして…
「……あっ! アキラ君、ひょっとして……」
「ん?」
「それ、ラジオか何かで聞かなかった?」
きょとんとしていたアキラの表情が、不意に驚きと喜びに満ち溢れる。
「じゃぁ、真琴も聞いていたのか。確か『宝の小箱』だったよな」
何だか嬉しくなって、力を込めて頷いてしまう。
あの夜が明けてすぐ、番組表でチェックしたタイトルが『宝の小箱』だったのだ。
「ずっと聞いてるのかい?」
「ううん。たまたま電源を入れたら、流れてきたのよ」
「俺もなんだ。普段はFMしか聴かないのに、あの夜だけは違ったんだよ」
互いの言葉に、顔を見合わせてしまう。
次の瞬間、真琴もアキラも明るい笑い声を上げていた。
「へぇ、こんな偶然もあるんだな」
「ううん、違うわよ! あたし、偶然なんて信じないんだから」
真琴の言葉に、『彼』は片目を瞑ってくる。
「そうだな。偶然なんかじゃない。ここで逢えたのも…」
不意に頬を赤らめながら…それでも、真琴は悦びと共に頷いていた。
「…ねぇ。だったら、明日にでも何処かに行かない? 趣味が帰ってくる前に、他のことも楽しんでみないとね」
「う〜ん、そうだなぁ。何処がいいだろう」
腕を組んで考え込むアキラに、真琴は提案した。
「水族館なんて、どう? ほら、時津湖の畔に大きいのがあるじゃない。あたし、ここに引っ越してきてから、まだ行ったことが無いのよ」
本当は、弥生と一緒に行くつもりでいたのだが…
また少し、後ろめたくなって、真琴は急に言葉を止めてしまった。
「それでいいじゃないか」
温かく、優しく笑い掛けてくれる……
(…ごめんね、フォンちゃん。…でも、あたし……)
この笑顔を見ていたいのだ。ずっと、こんな風に一緒に居たい…
…きっと、『彼』は自分に『大切なもの』を運んできてくれるだろう……
勿論、弥生は自分のこんな嫌な思いを否定してくれるだろう。だが、真琴はそれに甘えたくはなかった。
……『彼』を大切にするなら、その分、もっと弥生も大事にしていこう。
それが、今の真琴の想いだった。
「じゃぁ、時津湖の駅の改札に、明日の九時半でどうだい?」
「うん! いいわよ」
「よし、決まりだな」
アキラはそう言うと、ちらっと視線を真琴から弥生の方へと移していた。
その柔らかな眸に気付いて、弥生ははにかみながらも頭を振る。
弥生は、自分が無視されているなどとは少しも思っていなかった。逆に、二人の間に入っていく方が、彼女にとっては苦痛だっただろう。
弥生の精一杯の仕草に謝るような色を瞳に映すと、アキラは真琴に言った。
「ほら、真琴! そろそろ図書館に行ってあげたらどうだ」
「え? …あっ!」
彼女のことを気にしていながら、会話からはすっかり外してしまっている。
真琴は慌てて振り向くと、佇む弥生に謝っていた。
「ごめん、フォンちゃん!」
「ううん…」
すっかり自分とアキラの世界を作ってしまっていたのだ。ここまで引っ張り出された弥生にしてみれば、迷惑に思うどころか怒ってしまっても仕方の無いことだろう……
優しく返される微笑みが、真琴には一層辛い。罪悪感にがっくりと肩を落としてしまった真琴の背中を、『彼』はそっと押してくれた。
「ほら。悔やむのは、後にするんだよ。今は、彼女の為にも、楽しんでくればいい」
「……そうね…」
「じゃぁ、な!」
「うん」
弾む『彼』の言葉に何とか笑顔で応えると、おばさんにも頭を下げて真琴は店を飛び出していた。
その指先は、しっかりと弥生の手を掴んでいる。
ドアを抜け、明るい陽光に身を曝すと、真琴は弥生に頭を下げていた。
「フォンちゃん、ごめんっ! …あたし、本当に我儘だね……」
嫌われても、仕方無いかも知れない。アキラと出逢ってから、どれだけ彼女を粗暴に扱ってきたことか……
「ううん…とっても素敵なことだもの…」
「フォンちゃん…」
「…マコちゃん…アキラ君と出逢ってから、とっても輝いてる……
私も、とっても嬉しいの…本当に、とっても嬉しい……」
にっこりと微笑んでくれている面には、偽りの入り込む余地など全く無い。
純真な喜びが自分に向けられているのを全身で感じながら、真琴は思わず彼女の小さな体を抱き締めていた。
「ありがとう…ありがとう……」
厳しく照り付ける光の槍は、路上に一つの影をくっきりと描き込んでいる。その藍色の影は、やがて並んで、風に揺らぐ葉群の中へと溶けていった。
バス停から少し戻って、横断歩道を渡る。
まだ新しい壁をしているスーパーの脇を抜けて一つ目の角が見えてくると、弥生は心なしか足を早めようとしていた。
ここで、以前、あの男の子と出会ったのだ。
…まるで、その彼を探すかのように辺りを見回しながら、だが怯えた表情で駆け足に……
次の瞬間、足が路面に凍り付いてしまった。
目の前に、その雷本人が立ち塞がっているのだ。ずっと、弥生のことを待っていたらしい。
ぎゅっ! と手を握り合わせると、弥生は震える胸元を強く押さえ込んでいた。
(…どうしよう……)
まだ、逃げ出したい…逃げ出したいのに……なのに……
「なぁ、橘」
厳しい目が、じっと見詰めてくる。その強い口調にびくっと体を震わせると、弥生は諦めたように俯いてしまった。
「…俺のこと、そんなに嫌いなのか?」
「え…?」
その言葉に恐れ、思わず弥生は雷を見上げていた。
(…違うの…私……)
胸中で呟くそんな自分の言葉に気付き、弥生はひどく驚いてしまった。
……『自分』は、嫌いではないのだろうか…
「俺、いつも橘が走っていくから、てっきり急いでばかりいるんだと思ってたんだ。けど…そうじゃないんだろ?」
「……」
淡々と、必死になって感情を抑えて語る彼の言葉に、弥生は泣きそうになっていた。
彼は、ずっと自分のことを気にしてくれていたのだ。そして、今も…自分を傷付けないように、頑張ってくれている……
「俺、やっと分かったんだ。橘が俺を避けてるんだ、って。
もう、会いたくないのか? 橘、はっきり言ってくれないか」
静かな問いかけは、だが弥生が応えるには難しすぎる。
このまま、何も言わなかったなら……
…『彼』に、嫌われるのかも知れない……
(…嫌……それは…嫌……)
優しい瞳に、うっすらと涙が幕を張る。
嘘も吐けずに、正直に弥生は想っていることを告白した。
「…分からないの…」
「え?」
「…分からないの……ただ……」
「…ただ?」
「……怖かったの……」
「……!」
雷の面に、驚きが走る。
弥生は目を閉じると、そっと囁き続けた。
「……私、分からない……逢ってもいいと思うのに…嫌われたくないのに……
でも、ここまで来たら…いつも、…怖くなって……」
弥生にしてみれば長い声の連なりに、雷は真剣な表情で考え込んでしまった。
「そうか…」
黙って俯いてしまう弥生に、一瞬躊躇った後、雷は優しく尋ねていた。
「なぁ、橘。明日、何か予定はあるか?」
「……」
少し間を置いて、小さな頭が左右に振れる。
「だったら、二人で何処かに行かないか」
赤くなりながら、乱暴な口振りで告げてくる。
その言葉を聞いて弥生が怯えたように身を引くのを感じ、雷は急いで付け加えていた。
「心配するな。町には行かないから」
「……」
答えない弥生に、雷は一人、呟くように続けた。
「俺、私立の中学校に通ってるんだ。だから、橘と同じ学校に行ってる奴等に、色々と教えてもらって…あまり他人と話が出来なくて、それどころか、橘は他人と一緒に居るのが怖いみたいだ、て…
…俺、分かってたんだ……いや、分かってるつもりだったんだよ…」
自分を責めるような口調に、弥生はそっと雷を見上げていた。
『彼』はその視線を捉え、柔らかく言葉をかけてきた。
「…けど、俺、こんな風にしか話せなくて……
ごめん…だけど、頼む。…一度だけでもいいから……」
その言葉を、弥生は途中でそっと頭を振って止めさせた。
全身の力を使って、必死に雷を正面から見詰めてみる……
「……うん…ありがとう……」
聞き取るのもやっとの囁きに、雷は大きく目を見開いた。
赤くなりながら、それでも嬉しそうに笑みを浮かべる。
そんな『彼』の様子に、弥生もこれ以上無いくらいに頬を染め…すぐにその赤みは胸元にまで広がっていった。
…だが、嬉しいのだ…《本当》に、嬉しいのだ……
「じゃぁ、明日…」
こくんっ、と頷く。
だが、この応えまでが、弥生の限界だった。
「…ありがとう……」
そう呟くと、逃げるように走り出してしまう。
自分のものではないような応えを続けたことで、胸の動悸は恐ろしいまでに早まっている。
…このまま、ここに居れば…きっと、心臓が破裂してしまうに違いない……
突然の弥生の行動に一瞬遅れながらも、雷は小さな愛らしい背中に向かって叫んでいた。
「バス停に、十時だからな!」
その声は蝉の合唱に溶け込み、何処までも広がる青空へと消えてしまう。
……だが、黄金の光に満ち溢れた優しい胸に、その『言葉』は素敵な想いと共に、いつまでも…いつまでも、響き続けていた……