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宝の小箱  作者: くまミニ
16/22

第二部 光の小道 6

 暑かったにも関わらず、昼の間に眠ってしまったからだろうか。

 夜更けになっても、真琴は少しも眠れそうになかった。

 ……いや。昨夜のアキラの言葉が、心に残ったまま離れないのだ。

 こんなにも、自分が無力だとは思わなかった…弥生の悩みには、結構、真剣に応えることも出来るのだが……

 真琴は、趣味として星を見ることも面白そうだと思い始めていた。月食・日食の素晴らしさから、光害の問題。流星の儚さから、惑星の模様の変化まで。『彼』からは色々と、少しずつだが聞かせてもらったのだ。そのどれもが不思議さと計算式が入り交じる、奇妙な…そして、だからこそ、わくわくするようなことばかりだった。

 だが……アキラ自身は、その趣味を失おうとしている。…決して、それを望んでなどいないのに…『彼』は、『大切なもの』を見失っているのだ。

 …真琴が共有したいと願う、『大切なもの』を………

 深い溜息が、机の上を滑る。

 …弥生なら、何と応えるだろうか…彼女も、読書という『大切なもの』を失いかけたことがあったのだろうか……

 電話をすれば、すぐにでも確かめられるのだが、何だか真琴は気が進まなかった。

 この問題に、そんなにも簡単に答を出していいのだろうか…?

 確かに、弥生なら心から心配して答えてくれるだろう。だが……『大切なもの』を探す自分にとって、この悩みは一人で考えるべきなのかも知れない…

 今、ここで考えなくては…自分が折角『大切なもの』を見つけ出しても、すぐに失ってしまうかも知れないのだ……

 あまり考え事が得意ではない真琴は、落ち着かずに椅子の上で体を揺すると、目で『何か』を探していた。

 夜中に、こうして一人で考えていることが、何だか苦痛に思えてくる。

 …逃げているのかも知れない。どうしても見つけ出さなくてはならない落し物が見つからず、パニックを起こしそうになっているのだ…

 ふと、本棚の上のラジオが目にとまる。

 洋楽の新譜の情報を聞くくらいで、もっぱらレンタルに頼っている真琴にとって、ラジオは縁の遠い存在だった。

 だが、今は何でもいい。少なくとも、人が話している声を聞くだけでも、落ち着けるはずだ。

 机に下ろして何気無く電源を入れると、AM放送が流れ出す。何かをぶつけて、FMから切り替わっていたらしい。FM放送を聞き慣れた耳にはくぐもって聞こえる女性DJの声が、白い光の中へと溢れ出してくる…



今週も、『素敵』なことに巡り会えたでしょうか。

こんばんは、水口みなぐち 真結です。

今日は、早速、先週の悩みに対する応えを読んでみたいと思います。

本当に沢山のハガキが届いたのですが、その中でも、やっぱり『欅通りの風遣い』君のものが一番まとまっている気がするので、代表して彼の手紙を読んでいきます。



(何よ、この番組)

 今迄に聞いたことの無いDJの声だ。内容も重苦しいものらしいので、真琴はFMにチューナーを合わせようとして…



大好きだったはずなのに、趣味を楽しめなくなった……

先週、『銀の月』さんはそう書かれていましたが…



「えっ!」

 思わず手を止めると、真琴はラジオを凝視してしまった。

 硬直したまま動けずにいると、静かな女性の声がゆっくりと耳の中に流れ込んでくる……



…同じような思いは、本当に『大切』な趣味を持つ人なら、誰でも体験するものだと思います。

『銀の月』さんは、自分自身が悪いのだと責めていましたが、決してそうではありません。

僕自身の経験が適切かどうかは分かりませんが、一つの例だと思ってください。

僕は、童話やファンタジーを書くことを趣味にしています。それこそ、本当に大切で、何ものにも代えられないものです。

ですが…それだけ『大切』だからこそ、僕も一時期ですが、「執筆」に囚われてしまったことがあるのです。

誰の目も気にせず始めたはずなのに、目には見えない『何か』が気になって、途中で止めることが出来なくなってしまったのです。

今になってみれば、それは『趣味が僕を使って童話を書かせていたんだ』と言えることが出来ます。

趣味を持つことは素晴らしいものです。それは『自分』を自身に示してくれるものですし、その『自分』を一層確かなものへと育ててくれるものです。

ですが…ここで、はっきりとさせておくべきことがあります。

それは、『僕が趣味を持っている』ということです。

趣味を大切にし過ぎた為に、主従関係を逆転させてしまった時、人は趣味に囚われ、『自分』を見失う倦怠感の中へと押し流されてしまいます。

『銀の月』さんも、『大切』だからこそ、悩んでいるのです。それは誰を責めるべきものでもなく、ましてや自分自身を追い詰めるべきものでもありません。

…そして、これを乗り越えてこそ、得られる『大切なもの』もあるのです。



「……」

 きゅっ! と口を一文字に引き結んだまま、真琴は黙り続けていた。

 この手紙の一言ひとことを聞き漏らすまいと、《全て》の心で、女性DJから届く想いを受け止めていく…



…その倦怠期は、ほぼ一年間、僕を苦しめました。

どうして、それを克服出来たのか…少しでも彼女の慰めになるなら、数少ない経験の一つですが、ここに書いてみたいと思います。

まず僕は、今まで書き続けてきた長編を、何が何でもそのまま書いていこうとしました。毎日毎日、必死になって言葉を押し出しては、文章に綴ろうとしたんです。

ですが、勿論、そんな文章に自分が納得出来るはずもなく、何度も同じ箇所を直そうとしては、結局一番始めの文章に戻ったりしていました。

そして…とうとう、文章を書くのが嫌になり、僕は完全にペンを置いてしまったのです。



(…えっ!)

 思わず、身を乗り出してしまう。

 それでは…『大切なもの』を見捨ててしまうことになるのではないか。

 ……『シルヴィー』の店先に掛けられた写真パネルと、アキラの顔がラジオの前に浮かび上がってくる…

 …まるで、救いを求めるように、真琴は耳を傾け続けた。



一ヶ月くらいでしょうか…僕はまるで文章を書く気になれませんでした。

ですが、その間にも、自分の中から何かが出てこようとするのです。『大切なもの』を失った悲しみが、その『何か』にしがみつこうとして……

…僕は、本当に迷っていました。ですが、分かってもいたのです。

『まだ、《時》は来ていない。今、ここで甘い汁に手を触れた瞬間、僕は趣味の奴隷になってしまうのだろう』と。

正直に書けば、誘惑に負けてペンを走らせたこともあります。けれども、すぐに苦しくなって、続けることは出来ませんでした。

それがある日……『何か』のきっかけで、もう一度書こうと思い立ったのです。

残念ながら、その印象を具体的には書けそうにありませんし、そのきっかけは決して『銀の月』さんの例にはならないと思います。

心が真っ白になった時、自分の好きな存在が、その中へと入り込み…そして、『何か』に触れるのです。

薄墨の雲を背に広がる黄金の光と淡い虹に励まされるのか、素敵な雨音と子ども達のはしゃぎ声に背を押されるのか……

…そのきっかけは、無意識的な《偶然》によって与えられるものでしょう。

その瞬間、趣味を得たいという願いが激しく泡立つことを止め、不意に胸中に凪が訪れ……そして、《本当》の存在を得ることが出来るのです。

『銀の月』さん。

趣味は、忘れてしまってもいいのです。

絶対に、自分を責めてはいけません。そんなことをすれば、再び訪れてくれるはずのものも、現れなくなってしまいます。

大丈夫、《本当》に『大切なもの』は、貴女の許へと必ず帰ってきます。

長期間になるかも知れません。

ですが、必ず、戻ってくるのです。

趣味とは、『自分』の心なのですから……


時間の関係で少し短くさせてもらいましたが、内容は傷付けていないつもりです。

他にも、もう一つ別の趣味を探し出して交互に楽しんでいる人や、同じ系統でも少しだけ違うものを…例えば『欅通りの風遣い』君で言えば、ファンタジーではなくミステリーを書いてみる…そんな風に解決している人もいました。

私が驚いたのは、こんなにも沢山の人達が、趣味のことに悩んだり努力したり…そして、それを自分自身で乗り越え続けてきたということです…



「……ふぅ〜…」

 流れ続けるラジオから身を引くと、ゆっくりと椅子に凭れて、真琴は全身から力を抜いていった。

 …今の話を、『彼』にも伝えたい。

(今度逢ったら、何か別のことでも勧めてあげようかなぁ…)

 そうだ! プールや海でもいい。今度、逢った時にでも……

「あぁーっ!」

 夜中であることも忘れて、思わず真琴は力一杯叫んでしまった。

 …何処か、悲鳴にも似ている……

「どうしたの?」

 隣室からかけられた声に、慌てて真琴は返していた。

「う、ううん、何でもない」

「…そう」

 ドアの閉まる音がする。

 ほっと胸を撫で下ろすと同時に、先程思い出した事実に、真琴の心は再び激しく乱れてしまった。

 今度逢おうにも、よくよく考えてみれば『彼』の名字も電話番号も知らないのだ。何処の高校で、何処に住んでいるのかも分からない……逢えるはずがないではないか……

 途轍も無い絶望感に襲われてしまう。

 …だが、不意に希望が湧き上がってくる。

 そう、あの『シルヴィー』のおばさんに頼めば、教えてもらえるだろう。他人のことをそうそう簡単に話してもらえるとは思えないが、電話番号くらいなら…せめて名字だけでも…駄目なら、自分の電話番号だけでも渡してもらえたら……

 幾つもの小さな思い付きに縋り付きながら、真琴はラジオの電源を切ると、机の灯りも消した。

 そのまま、ベッドに倒れ込む。

 …待つほどもなく、すぐに眠りは真琴を静かな闇の淵へと誘っていた……


「本当にごめんね、フォンちゃん。まだ、本読めてなかったでしょ?」

 図書館の手前で右手に曲がり、いつもの脇道へと入り込む。

 行く手に見慣れた店が現れると、真琴は辛そうに弥生の顔を覗き込んでいた。

 本当なら、二週間に一度しか図書館には行かないのだ。当然ながら、弥生もその計画で本を借りている。本が好きだからと言って、読むのが早いわけではない。それどころか、どちらかと言えば、弥生はじっくりと集中して物語を読んでいく。そのことをよく知っている真琴は、自分の想いに彼女を引き込んだことを、本当に済まないと思っていた。

 だが……弥生にも話しておきたかったのだ。あの夜に打ち明けられたアキラの悩みや、偶然耳にしたラジオからの応え。自分が『彼』と連絡すらとれないことまでも、真琴は弥生に話していた。

「…ううん、…読み終わったものもあったから……」

 にっこりと微笑む仕草が、一層真琴を落ち込ませる。

 今になって考えてみれば、店のおばさんに『彼』の電話番号を尋ねるくらい、自分一人でも出来るはずだ。

 ただ…別に、はっきりとした理由があるわけではないのだが……真琴は、そうすることが嫌だった。

 …若しかしたら……今でも、弥生に嫉妬したことを気にしているのかも知れない……

 『彼』との関係を秘密にすることは、真琴に裏切りに似た想いを抱かせるのだろう。

「ごめんね。今度、絶対、お詫びするからね」

「……」

 優しく、そっと頭を振ってくれる。

 だが、その柔らかな面が不意に霞むのを見て、思わず真琴は足を止めてしまった。

 弥生も立ち止まると、黙って足下へと視線を落とす。

「…マコちゃん……そんなにも、逢いたくなるの…?」

「…え?」

 思いがけない呟きに、一瞬、絶句してしまう。

 だがすぐに、その言葉の意味に気付くと、真琴は遠慮がちに聞き返していた。

「フォンちゃん…若しかして……」

 残された沈黙の中に『言葉』を認め、弥生はこくんっと頷いた。

「…会った場所まで来たら…走って通り過ぎてるの……周りを見ないようにして……」

「あ〜ぁ…」

 思わず溜息を吐いてしまうが、弥生の怯えた目を見ては無理強いや説得も躊躇われてしまう。

「…会いたくないの?」

「……分からない…ただ……怖くて……」

 両手を握り締めると、弥生は胸元に強く押し付けていた。

「きっとね……それが、逢いたい、ってことだと思うよ。

 相手の子も、それで怒るような奴なら、捨ててもいいんじゃない? フォンちゃんを、フォンちゃんのままで『好き』になってくれる人の方がいいもんね」

「……」

 同意も否定もせず、弥生は複雑な表情を浮かべている。

(迷ってるなんて…)

 柔らかく、そっと目を細めてしまう。

 弥生自身も、変わりつつあるのだ。黄金の光に満ち溢れた小道を前にして、戸惑いと不安に襲われているのだろう。そして同時に、期待と憧れも感じているのだ。

 その小さな背中を少しだけ…ほんの少しだけ、押すだけでいい。

 だが、それは真琴の役目ではなかった。それは雷と言う名の男の子自身の役目であり、他の誰にも彼の代わりは出来ないのだ。

 光の小道……真琴自身は既に、その道に先を見詰め、喜びと共にその上を歩き始めていた。

 今日も、白い雲は地平に湧き上がる程度で、澄み切った青空が全てを光と影に分けている。くっきりと裂かれた境界が風の愛撫に揺れ動き、斑な絵柄が路上の二人を包み込んでいた。

「…ほら、フォンちゃん! 大丈夫、焦らなくてもいいんじゃない? 『その時』は、望んでなくても勝手に来るもんよ」

 そう言っている自身も、少し焦ってここまで来ているのだが…

 思わず、心の中で苦笑してしまう。

「……うん…ありがとう、マコちゃん」

 弥生の微笑みに頷くと、真琴は再び『シルヴィー』に向かって歩き始めていた。

 店先に近付くにつれ…だが、何かが足りなくなった気がする。

「…あれ?」

 大きなウィンドーの向こう、薄暗い店先を背にして掛かっているはずの写真パネルが…

 …無くなっている?

「えぇっ!」

 思いもしなかった状況に、様々な憶測と共に衝撃が胸を突く。

 一体、『彼』はどうしたのだろう…家庭教師を辞めたのだろうか…

「マコちゃん…!」

 弥生の言葉も聞かずに、ぱっ! と走り出す。小さな鐘が下がるドアを押し開けると、真琴は飛び込みながら叫んでいた。

「おばさん! あのパネ…ル……」

 高ぶる声が、次第に小さく…すぐに途切れてしまう。

 弥生がそっと後ろから覗くと、真琴の前では『シルヴィー』のおばさんが驚いた顔をして立ち尽くしている。そして、その横には……

「どう…して……どうして、アキラ君がここに居るのよっ!」

 そう、アキラが嬉しそうに小さく手を振って二人を迎えていたのだ。

「それに、どうして? どうして写真を吊らないの?」

 自分の想いを持て余し、少し怒った口調で問い掛けている真琴に対し、アキラは全く動じずに笑い声を上げていた。

「星を撮るのは、暫く止めることにしたよ。『大切なもの』に、少し休暇をあげようと思ってね。

 近頃は、俺を主人と言うよりも手足として扱っていたし、ちょっと間を置いた方がいいと思うんだ」

 『彼』の言葉に、真琴は思わず肩を落としてしまった。

 それこそ、真琴が『彼』と逢って勧めようとしていたことではないか。あのラジオ番組を聞いた話をして…

「……あっ! アキラ君、ひょっとして……」

「ん?」

「それ、ラジオか何かで聞かなかった?」

 きょとんとしていたアキラの表情が、不意に驚きと喜びに満ち溢れる。

「じゃぁ、真琴も聞いていたのか。確か『宝の小箱』だったよな」

 何だか嬉しくなって、力を込めて頷いてしまう。

 あの夜が明けてすぐ、番組表でチェックしたタイトルが『宝の小箱』だったのだ。

「ずっと聞いてるのかい?」

「ううん。たまたま電源を入れたら、流れてきたのよ」

「俺もなんだ。普段はFMしか聴かないのに、あの夜だけは違ったんだよ」

 互いの言葉に、顔を見合わせてしまう。

 次の瞬間、真琴もアキラも明るい笑い声を上げていた。

「へぇ、こんな偶然もあるんだな」

「ううん、違うわよ! あたし、偶然なんて信じないんだから」

 真琴の言葉に、『彼』は片目を瞑ってくる。

「そうだな。偶然なんかじゃない。ここで逢えたのも…」

 不意に頬を赤らめながら…それでも、真琴は悦びと共に頷いていた。

「…ねぇ。だったら、明日にでも何処かに行かない? 趣味が帰ってくる前に、他のことも楽しんでみないとね」

「う〜ん、そうだなぁ。何処がいいだろう」

 腕を組んで考え込むアキラに、真琴は提案した。

「水族館なんて、どう? ほら、時津湖の畔に大きいのがあるじゃない。あたし、ここに引っ越してきてから、まだ行ったことが無いのよ」

 本当は、弥生と一緒に行くつもりでいたのだが…

 また少し、後ろめたくなって、真琴は急に言葉を止めてしまった。

「それでいいじゃないか」

 温かく、優しく笑い掛けてくれる……

(…ごめんね、フォンちゃん。…でも、あたし……)

 この笑顔を見ていたいのだ。ずっと、こんな風に一緒に居たい…

 …きっと、『彼』は自分に『大切なもの』を運んできてくれるだろう……

 勿論、弥生は自分のこんな嫌な思いを否定してくれるだろう。だが、真琴はそれに甘えたくはなかった。

 ……『彼』を大切にするなら、その分、もっと弥生も大事にしていこう。

 それが、今の真琴の想いだった。

「じゃぁ、時津湖の駅の改札に、明日の九時半でどうだい?」

「うん! いいわよ」

「よし、決まりだな」

 アキラはそう言うと、ちらっと視線を真琴から弥生の方へと移していた。

 その柔らかな眸に気付いて、弥生ははにかみながらも頭を振る。

 弥生は、自分が無視されているなどとは少しも思っていなかった。逆に、二人の間に入っていく方が、彼女にとっては苦痛だっただろう。

 弥生の精一杯の仕草に謝るような色を瞳に映すと、アキラは真琴に言った。

「ほら、真琴! そろそろ図書館に行ってあげたらどうだ」

「え? …あっ!」

 彼女のことを気にしていながら、会話からはすっかり外してしまっている。

 真琴は慌てて振り向くと、佇む弥生に謝っていた。

「ごめん、フォンちゃん!」

「ううん…」

 すっかり自分とアキラの世界を作ってしまっていたのだ。ここまで引っ張り出された弥生にしてみれば、迷惑に思うどころか怒ってしまっても仕方の無いことだろう……

 優しく返される微笑みが、真琴には一層辛い。罪悪感にがっくりと肩を落としてしまった真琴の背中を、『彼』はそっと押してくれた。

「ほら。悔やむのは、後にするんだよ。今は、彼女の為にも、楽しんでくればいい」

「……そうね…」

「じゃぁ、な!」

「うん」

 弾む『彼』の言葉に何とか笑顔で応えると、おばさんにも頭を下げて真琴は店を飛び出していた。

 その指先は、しっかりと弥生の手を掴んでいる。

 ドアを抜け、明るい陽光に身を曝すと、真琴は弥生に頭を下げていた。

「フォンちゃん、ごめんっ! …あたし、本当に我儘だね……」

 嫌われても、仕方無いかも知れない。アキラと出逢ってから、どれだけ彼女を粗暴に扱ってきたことか……

「ううん…とっても素敵なことだもの…」

「フォンちゃん…」

「…マコちゃん…アキラ君と出逢ってから、とっても輝いてる……

 私も、とっても嬉しいの…本当に、とっても嬉しい……」

 にっこりと微笑んでくれている面には、偽りの入り込む余地など全く無い。

 純真な喜びが自分に向けられているのを全身で感じながら、真琴は思わず彼女の小さな体を抱き締めていた。

「ありがとう…ありがとう……」

 厳しく照り付ける光の槍は、路上に一つの影をくっきりと描き込んでいる。その藍色の影は、やがて並んで、風に揺らぐ葉群の中へと溶けていった。


 バス停から少し戻って、横断歩道を渡る。

 まだ新しい壁をしているスーパーの脇を抜けて一つ目の角が見えてくると、弥生は心なしか足を早めようとしていた。

 ここで、以前、あの男の子と出会ったのだ。

 …まるで、その彼を探すかのように辺りを見回しながら、だが怯えた表情で駆け足に……

 次の瞬間、足が路面に凍り付いてしまった。

 目の前に、その雷本人が立ち塞がっているのだ。ずっと、弥生のことを待っていたらしい。

 ぎゅっ! と手を握り合わせると、弥生は震える胸元を強く押さえ込んでいた。

(…どうしよう……)

 まだ、逃げ出したい…逃げ出したいのに……なのに……

「なぁ、橘」

 厳しい目が、じっと見詰めてくる。その強い口調にびくっと体を震わせると、弥生は諦めたように俯いてしまった。

「…俺のこと、そんなに嫌いなのか?」

「え…?」

 その言葉に恐れ、思わず弥生は雷を見上げていた。

(…違うの…私……)

 胸中で呟くそんな自分の言葉に気付き、弥生はひどく驚いてしまった。

 ……『自分』は、嫌いではないのだろうか…

「俺、いつも橘が走っていくから、てっきり急いでばかりいるんだと思ってたんだ。けど…そうじゃないんだろ?」

「……」

 淡々と、必死になって感情を抑えて語る彼の言葉に、弥生は泣きそうになっていた。

 彼は、ずっと自分のことを気にしてくれていたのだ。そして、今も…自分を傷付けないように、頑張ってくれている……

「俺、やっと分かったんだ。橘が俺を避けてるんだ、って。

 もう、会いたくないのか? 橘、はっきり言ってくれないか」

 静かな問いかけは、だが弥生が応えるには難しすぎる。

 このまま、何も言わなかったなら……

 …『彼』に、嫌われるのかも知れない……

(…嫌……それは…嫌……)

 優しい瞳に、うっすらと涙が幕を張る。

 嘘も吐けずに、正直に弥生は想っていることを告白した。

「…分からないの…」

「え?」

「…分からないの……ただ……」

「…ただ?」

「……怖かったの……」

「……!」

 雷の面に、驚きが走る。

 弥生は目を閉じると、そっと囁き続けた。

「……私、分からない……逢ってもいいと思うのに…嫌われたくないのに……

 でも、ここまで来たら…いつも、…怖くなって……」

 弥生にしてみれば長い声の連なりに、雷は真剣な表情で考え込んでしまった。

「そうか…」

 黙って俯いてしまう弥生に、一瞬躊躇った後、雷は優しく尋ねていた。

「なぁ、橘。明日、何か予定はあるか?」

「……」

 少し間を置いて、小さな頭が左右に振れる。

「だったら、二人で何処かに行かないか」

 赤くなりながら、乱暴な口振りで告げてくる。

 その言葉を聞いて弥生が怯えたように身を引くのを感じ、雷は急いで付け加えていた。

「心配するな。町には行かないから」

「……」

 答えない弥生に、雷は一人、呟くように続けた。

「俺、私立の中学校に通ってるんだ。だから、橘と同じ学校に行ってる奴等に、色々と教えてもらって…あまり他人と話が出来なくて、それどころか、橘は他人と一緒に居るのが怖いみたいだ、て…

 …俺、分かってたんだ……いや、分かってるつもりだったんだよ…」

 自分を責めるような口調に、弥生はそっと雷を見上げていた。

 『彼』はその視線を捉え、柔らかく言葉をかけてきた。

「…けど、俺、こんな風にしか話せなくて……

 ごめん…だけど、頼む。…一度だけでもいいから……」

 その言葉を、弥生は途中でそっと頭を振って止めさせた。

 全身の力を使って、必死に雷を正面から見詰めてみる……

「……うん…ありがとう……」

 聞き取るのもやっとの囁きに、雷は大きく目を見開いた。

 赤くなりながら、それでも嬉しそうに笑みを浮かべる。

 そんな『彼』の様子に、弥生もこれ以上無いくらいに頬を染め…すぐにその赤みは胸元にまで広がっていった。

 …だが、嬉しいのだ…《本当》に、嬉しいのだ……

「じゃぁ、明日…」

 こくんっ、と頷く。

 だが、この応えまでが、弥生の限界だった。

「…ありがとう……」

 そう呟くと、逃げるように走り出してしまう。

 自分のものではないような応えを続けたことで、胸の動悸は恐ろしいまでに早まっている。

 …このまま、ここに居れば…きっと、心臓が破裂してしまうに違いない……

 突然の弥生の行動に一瞬遅れながらも、雷は小さな愛らしい背中に向かって叫んでいた。

「バス停に、十時だからな!」

 その声は蝉の合唱に溶け込み、何処までも広がる青空へと消えてしまう。

 ……だが、黄金の光に満ち溢れた優しい胸に、その『言葉』は素敵な想いと共に、いつまでも…いつまでも、響き続けていた……

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