第二部 光の小道 5
「折角買ったのに、着ないの?」
いつものように右手の脇道に折れながら、真琴は弥生を振り返っていた。
「うん…まだ、ダメ……」
照れたように、本の入った鞄を抱き締める。そんな弥生の仕草に、真琴は明るい笑い声を上げていた。
昨日、真琴に服を選んでもらったのだが、弥生には少し明るすぎる気がするのだ。スカートも、短く思える。確かに可愛いと思うのだが、どうしても、着るには決意が必要だった。
「そうよね。どうせなら、初めてのデートに着たほうがいいわ」
「マコちゃん…!」
どうしようもないくらいに、自分が赤くなっていることが分かる。
あの日以来、雷とは会っていないが…そのことを喜んでいいのか悲しんでいいのか…未だに、弥生には自分の心が分からずにいた。
行く手では、見慣れた文具店が夏の光に輝いている。
真琴は少しだけ足を早めると、その『シルヴィー』の店先で立ち止まった。
思った通り、二週間前とは写真が変わっている。今度吊り下げられたのは、散開星団だ。
「…M44?」
写真の白文字を、小さな声で読み上げている。そんな弥生に、真琴はパネルから目も逸らさずに声だけで頷いていた。
「うん、プレセペだよ。…本当、綺麗だよねぇ」
ぼんやりと丸みのある光の粒が、白黒の世界に浮かび上がっている。
望遠レンズによる、頃合の拡大率で、プレセペは上手く星団らしく見えるように仕上げられていた。
一つ一つの星を辿っていくと、奥行きを感じてくるから不思議だ。
目映い光が脳天に降り注ぎ、蝉の声と熱気に満ちる大気の中で、真琴の心は夜の静けさを彷徨っていた。
カランッ…
小さな鐘の音が、随分と遠くで聞こえる。
「いらっしゃい。丁度今ね、あなた達の話をしていたところなのよ」
服の裾を引く弥生の『言葉』と店先からの声で、真琴は我に返ると慌てて振り向いていた。
店のおばさんが、優しく手招いてくれている。
遠慮などせず、真琴は素直にその招きに従っていた。
「なんだ、君達のことだったのか」
店の中に足を踏み入れた途端、飛び出してきた声に、思わず歩みを止めてしまう。
あれは…あの声は……
(でも、まさか…ね)
少し高鳴る鼓動を抑えて、店の奥を見てみると…
…最早、間違いなかった。弥生の家の前の公園で、あの夜出逢った『彼』なのだ。
なりたくもないのに、どうしても頬の辺りが赤くなって熱を帯びてくる。
そんな真琴の様子に気付いているのかいないのか、『彼』はおばさんに話し掛けていた。
「ほら、変質者に間違えられた時、僕を棒で殴ろうとしていたのが彼女なんですよ」
「まぁ、そうだったの」
「それにしても、まさか中学生だとは思わなかったよ。あの勢いは、てっきり高校生だと思っていたんだ」
そんなことを言って、にこりと笑い掛けてくる。
思いがけない展開に、真琴は珍しく言葉を失っていた。
『何か』を言いたいのだが…一体、何を言えばいいのだろう……
「これ、見るかい? ちょっと、自信作なんだよ」
自らパネルを下ろして、渡してくれる。
震える手でその作品を受け取りながら、真琴は不意に怒ったように呟いていた。
「…ずるいよ……」
「え?」
「ずるい、って言ったの!」
きょとんとしている『彼』に向かって、火照る頬のまま、真琴は怒鳴っていた。
「あたし、家庭教師をしている人だ、って…だから、大学生なのかな、って……
…あたし、あなたに逢いたかったけど…でも、こんな形でなんて思わなかったわよ!」
自分でも、何を言っているのか分からない。だが、冷静になったところで、やはり何も伝えられなかっただろう。必要なのは文脈ではなく、『言葉』だった。
「マコちゃん…」
心配そうな囁き声に、真琴は急に黙り込んでしまう。
『シルヴィー』のおばさんがにこにこと見守る中で、『彼』はふわっと柔らかな笑みを浮かべると、手を差し出してきた。
「突然だったことは、確かだね。だけど、《偶然》でもいいじゃないか。又、こうして逢えたんだから。
…俺も、もう一度、君と逢いたかったんだよ」
「……!」
流石に、何も言えずに俯いてしまう。真っ直ぐに見詰めることなど、出来ない。
ましてや、手を握るなど……
思わず、強くパネルを抱き締めてしまう。
だが…ここで逃げてしまえば、後悔することになるかも知れない……
……そっと…僅かに、手を前に出す。
その細い指先を、『彼』はさっと握り締めてくれた。
「…ありがとう」
掠れる声で、真琴は小さく呟いていた。
静かに、沈黙が流れ込んでくる。その温かな流れの中で、『シルヴィー』のおばさんは真琴に話し掛けていた。
「彼はね、私の知り合いの子なの。高一だけど、英語だけは凄く上手だから、娘の家庭教師になってもらったのよ。
ごめんなさい、私がもっと詳しく話していればよかったわね」
「そんなこと、ありません!」
慌てて、真琴は頭を振っていた。一つに束ねられた髪が、左右に大きく揺れる。
「そうですよ。おばさんの御蔭で、こんな《偶然》に巡り会えたんですから」
「《偶然》なんてもんじゃないわ! あたし、まだ死にそうなくらい心臓がどきどきしてるんだから」
「う〜ん、そこまで言われると、やっぱり照れてしまうなぁ」
本当に少し赤くなりながら、『彼』が苦笑している。
その様子に、真琴も一層頬を上気させてしまった。
そう、いつのまにか自分の想いを、それも殆どストレートに『彼』に伝えてしまっているではないか。
何もかもが思ってもみなかった方向に流れ始めていることに気付いて、真琴は泣きそうになっていた。
自分が、これほどまでも泣き虫だと思わなかったが…『彼』に関することでは、自然と涙も込み上げてくる。
目頭が熱くなってくるのを感じ、真琴は大きく深呼吸をしていた。
カラン、カランッ!
不意に、店のドアが勢いよく開かれる。
驚いて恥じらいも涙も飲み込んでしまった真琴の視野に、次の瞬間、小さな女の子が飛び込んできた。
…この子が、教え子の、小学三年生の女の子なのだろう。
女の子は、嬉しそうに叫びながら『彼』の腕の中に駆け込んでいる。
「アキラのお兄ちゃんっ!」
「…え? …あっ、……えぇっ!」
(晃のお兄ちゃん?)
不意に、自分自身が小学三年生に戻ってしまった気がする。
そんな真琴を、『彼』は…アキラはきょとんとした表情で見上げていた。
(まさか……)
いや、そんなことは有り得ない。そんな《偶然》など、起こるはずが無いのだ。
……だが…心の隅で少しだけ期待している自分に、真琴は気付いていた。
もしかしたら……
「今日はね、ちゃんと勉強したんだよ? 偉い?」
「そうか、偉いぞ」
くしゃくしゃっ、と頭を撫でてもらっている。
自分も、晃のお兄ちゃんには、よく同じことをしてもらったものだ…
自分の中の晃と、目の前のアキラを深く重ね合わせていることに、真琴は驚きと恐れを感じてしまっていた。
…違う…自分は、『彼』を、『過去』と同じ名前だから好きになったのではない……
こんな気持ちのままでは、『彼』を傷付けてしまう……
……そう……真琴は、目の前に居る『アキラ』が『好き』なのだ……
「ほら、先に上がって待っててくれないかな。お兄ちゃんは、もう少しこの人達と話をしてるからね」
「…だぁれ? この人」
今、初めて気が付いたように、女の子が真琴を振り返ってくる。
その小さな肩を優しく抱きながら、アキラは困った顔で応えていた。
「お兄ちゃんも、名前は知らないんだ。でも、大事な人だから、悪戯しちゃダメだよ」
「えぇ〜っ! お兄ちゃん、恋人がいたのぉ?」
がっかりしている女の子の言葉に、真琴もアキラも素直に赤くなってしまう。弥生までもが、釣られて俯いてしまっていた。
「でも、美咲ちゃんのことも好きだからね」
「うん!」
ぱっ、と腕の中から飛び出していく。
店の奥まで行くと、一度振り返り、美咲はアキラに向かって大きく手を振った。
『彼』も、手を振り返している。その応えに安心すると、女の子はそこにあったドアを抜けて見えなくなってしまった。
「…えっと…」
その後ろ姿を見届けた後、『彼』は真琴に視線を戻すと、少し息を吸い込んで、言った。
「恋人ついでに、って言ったら怒られるかも知れないな。
でも、どうだろう。明後日、あの住宅地で又写真を撮るつもりなんだ。場所は公園じゃないんだけど、もしよかったら、一緒に星でも見ないか?」
「いいの? あたし、何も知らないわよ」
小さく呟く真琴に、アキラは笑い出していた。
「星は、見るだけでいいものだよ。何も知る必要なんて無いし、知ることなんて出来ないものなんだからね」
「…うん! じゃぁ、お願い」
「君もどうかな?」
アキラが自分に誘い掛けてくるのを、弥生は勇気を出して頭を振って答えていた。
やはり、まだ口を開くことは弥生には難しい。変質者扱いにしてしまったことも、彼女の人見知りに輪をかけてしまっていた。
「遠慮はいらないよ?」
「……ううん…いい…」
やっと、それだけを押し出し、弥生は真琴の腕をきゅっと握り締めていた。
真琴はパネルを小脇に抱えると、その震える指先に手を重ねる。
「そうか…じゃぁ、明後日の二十時に、例の公園で」
「うん、分かった」
しっかりと頷く真琴に笑みを返すと、『彼』は奥のドアに向かおうとした。
「あっ、あたし、野坂 真琴! 今度逢ったら、ちゃんと名前で呼んでよね!」
「……今、すぐにでもいいよ。ありがとう、真琴」
ドアの前で一瞬足を止めた後、アキラは顔だけを後ろに向けて片目を瞑ってみせた。
だが…何かしら、その面に大きなショックの痕を認めて……
ふと、真琴は息を止めてしまう……
その間隙を縫って、『彼』はドアの向こうへと消えていってしまった。
天を駆ける金色の風は、複雑な影絵を薄暗い光の幕に描き込んでいく。その葉陰は幾重にも重なり、真琴の心を柔らかく、そっと抱き締めていた……
「やぁ! 来てくれたんだな」
柔らかい宵闇の中で、アキラが嬉しそうに手を振っている。
真琴も弥生から借りたバスケットを持ち上げて応えると、公園の中に入ろうとした。
だが、『彼』は自転車を留めた公園の入り口に向かっている。
「あ、そっか。今日は違うんだっけ」
慌てて公園を出ている真琴に、アキラは楽しそうに笑い声を上げた。
「すぐに忘れるんだな。まぁ、今夜のことを覚えていてくれただけでも、よしとするか」
「忘れたりしないわよ! 朝から、フォンちゃんの家に来てたんだから」
望遠鏡やら三脚やらを括り付けた自転車を押して、『彼』は東に向かって歩き始める。
どうやら、油を注したらしい。以前の、耳障りな錆びた音が聞こえない。
そんな些細なことを考えながら、『彼』が背負う大きなリュックに隠れるように、真琴は少しゆっくりと付いていた。
「フォンちゃん、って言うのは変な呼び名だな」
歩調を緩めて、振り返ってくれる。
顔が火照るのを必死になって抑えながら、仕方無く、真琴は横に並んで歩き始めた。
「本当は、フォーンって発音するみたいよ」
「成程、『仔鹿』か。ぴったりじゃないか」
少し驚いたが、そう言えば『彼』は高一ながら家庭教師を請われるくらいに、英語が得意だったのだ。
「アキラ君もそう思うでしょ? あたしが付けてあげたのよ」
年上なのだが、今更、丁寧に話しかけるのも不自然だろう。
それに、アキラも全く気にしていないようだ。
「ふ〜ん。で、その名付け親の為に、彼女は一生懸命手伝ってくれたんだな」
悪戯っぽく笑いながら、『彼』が手にしているバスケットを指差してくる。
少しはみ出している水筒の蓋が薄明かりに煌き、被せた布の下からは甘いクッキーの香りが立ち上っている。
「失礼ね! あたしが作ったのよ?」
唇を尖らせると、ぷいっ! と横を向く。
そんな真琴の仕草に快い笑い声を上げると、アキラは片目を瞑って続けていた。
「本当かい? ほらほら、正直に白状しろ」
「…本当はね。随分、手伝ってもらったんだぁ〜」
大袈裟に、溜息をついてみせる。
次の瞬間、二人は顔を見合わせると噴き出していた。
実際のところ、真琴の家にはオーブンなど無いのだ。今迄に、料理ならともかく、菓子類など作ろうともしたことの無い真琴にとって、今日は本当に大変な一日だった。
弥生に手伝ってもらったとは言え、この手の中にあるものは、実は三回目の作品だ。
「何か、温かいものもいるんじゃないか、って。この水筒にも、紅茶を入れてくれたのよ」
「へぇ、随分、気の利く子だね」
『彼』の言葉に、真琴は心から嬉しそうに頷いていた。
ふと、そんな自分に向けられる柔らかく優しい瞳に気付いて、真琴は頬を赤らめると、大急ぎで顔を前に向けてしまった。
沈黙が、穏やかに横たわる。だが、その静寂の、なんて温かなことだろう。
目に見えるほどの『言葉』が、自分の胸の中に入り込んでくるのを、真琴は確かに感じ取っていた。
少しずつ、藍色の天蓋に星が生まれていく。
厳しさの失せた夏の大気に抱かれながら、真琴は軽く、深呼吸をしていた。
「…あたしね、今、とってもわくわくしてる。
ねぇ、今日は何を撮るつもりなの?」
「今日はM13だよ。さぁ、ここだ」
そう言って急に自転車を止めると、『彼』は荷物を解き始めた。その横で周りを見渡してみるのだが、この辺りは整地をした区画が階段状に並んでいるだけらしい。所々に黒々とした穴が見えているのは、コンクリートの車庫だろうか。
「…こんな、道の真ん中で見るの?」
「まさか! 家は無いけど、車は通るかも知れないからな。そこの草の中に入って行くんだよ」
整地しているとは言え、勿論、区画の中は丈の低い草が一面に生い茂っている。
アキラの指先に従ってそのままそこへ入っていこうとすると、『彼』は落ち着いた声で真琴を呼び止めた。
「ちょっと待ってろよ。
…ほら、これに火を点けてくれないか」
見れば、蚊取り線香を二つ手にしている。
「あ、そうよね。でも、何だか夢の無い香りじゃない?」
『彼』から借りたライターで灯す赤い炎と独特の香りに、真琴は少し残念そうに言った。
そんな言葉に、アキラが笑い声を上げている。
「夢を見たいなら、少しは代償を払わないとな」
力を込めて屈折望遠鏡と三脚とを担ぎ上げる『彼』の前に立って、真琴は手にした懐中電灯を頼りに草の中へと分け入った。
(フォンちゃんの言った通りだわ。パンツにしてよかった)
耳障りな羽音に、眉を顰めてしまう。
以前、公園で逢った時には気にする余裕も無かったが、確かに今、自分達は虫が支配する世界に入り込んでいるのだ。
「もうちょっと右だよ。ほら、そこが少し空いてるだろう?」
そう言いながら、今度はアキラが先になって歩き出す。
やがて、目的の場所に辿り着いたのだろう。荷を下ろし始めている。
そこは、空き地とも呼べないくらいに狭い空間だ。
『彼』は慣れた手つきで三脚を据えると、リュックを開いて折り畳み式の椅子を取り出し、渡してくれた。
「え? でも、アキラ君はどうするの?」
「心配いらないよ。もう一つあるから」
「ふ〜ん。アキラ君も、よく気が利くのね」
遠慮無く受け取る真琴に、アキラは苦笑いしながら言った。
「俺は、フォンちゃんって言う子とは違って、体験から学んだものばかりだよ。蚊取り線香だってそうさ」
「虫除けスプレーなんかは?」
「あっ、俺、その類は苦手なんだ。それに、そんな風に自分の身体を変えてまで、自然を拒むつもりもないしね。こんな所に来ておいて、虫達に怒るのは本末転倒もいいところだよ。ここは、彼等の領域なんだ。俺達の方が侵入者になるんだからな」
何気無くそう言いながら、望遠鏡を組み立てているアキラに、真琴は思わず噴き出してしまった。
「凄い考え方ね!」
「変かな?」
その問い掛けが、とても真剣に聞こえる。
真琴はゆっくり首を左右に振ると、そっと、静かに言った。
「ううん。あたし、その考え方、好きよ」
「ありがとう」
光の輪の中に、嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
真琴も、そんな『彼』に柔らかな笑みを返していた。
「さてと。その大きな懐中電灯は、もう消してくれないか。
少しずつ、目を慣らさないとな」
「そうね」
ぱっ、とスイッチを消す。
同時に、『彼』が手にしたペンライトから、赤い光が細く流れ出した。
ふと頭上を見遣ると……知らず、真琴は唸ってしまっていた。
…こんなにもたくさん、星はあったのだろうか。
白鳥座があれほど大きなものだと、真琴は今、初めて気が付いていた。東天に架かっているあの美しい十字を、星図だけで表すことなど出来ないと思う…
本の中でしか…写真の中でしか知らなかった星の世界……それが広大無辺な『宇宙』に接したことで、見事に崩れ去ってしまっていた。
唖然としている真琴の様子をちらっと見ると、望遠鏡の極軸を合わせながら、アキラは楽しそうに言った。
「驚いたかい? 圧倒されるだろ」
「凄い…凄いよね……」
それだけしか、呟けない。
デネブを覗いて目盛環の赤緯と赤経を合わせると、アキラは黙ってモーターのスイッチを入れていた。
低いモーター音に耳を澄ませた後、静かにアキラは瞳を真琴に向けた。
…その柔らかな光の奥に、微かに…羨望と諦めの渦が巻く。
そんな『彼』の視線に気付いて、漸く真琴は目を落としていた。
「…俺にも、今、真琴が味わったような想いで星を見ていた頃があったんだよ」
その口調が深い寂しさに満ちているのを感じて…真琴はそっと尋ねた。
「…今は、違うの?」
つと目を逸らせてしまう。
そんな『彼』の横顔を、真琴は悲しい瞳で見守っていた。
……やがて、ぽつりと、呟きが漏れる。
「…少なくとも、同じではないよ」
「そんなぁ…」
「真琴は、俺の写真を気に入ってくれただろう? だけど、本当の星はあんなに綺麗なものでもないし、あんなにはっきりと見えるものでもないんだ」
静かに、感情を押し殺したように呟きながら、彼は星表でM13の位置を調べている。
「……」
息苦しさを感じて…『何か』を口にしたいのだが……
だが、声は少しも音になってはくれなかった。
目盛環を使って、『彼』は調べた位置まで大きく望遠鏡の筒先を動かしている。
大凡の向きが定まると、接眼レンズを覗きながら微操作で目標を探し始めた。
「…今の技術は凄いよ。俺が今しているような操作はしなくても、パソコンと繋ぐだけですぐにこの瞬間の映像をモニターに出したり、座標を入力するだけで目標の天体を導入出来るんだから。裸眼では見えないはずのものも、光の蓄積で見えてくるんだ。本当の話、望遠鏡だけ外に出して、自分は部屋の中で快適に天体を観ることも可能なんだよ。
…ほら、見てごらん。これがM13だよ」
何も言い出せないまま、真琴は『彼』の言葉に従ってレンズを覗き込んでいた。
中央に、何かうっすらとした雲が見えている。だが、じっと見つめ続けると、薄く、淡くなってしまうようだ。
「少し、視線を逸らせてごらん。その方が良く見えるから」
確かに、視線を視野の端にもってきた方が、雲は存在感が増している。
思っていたよりは中心部が明るい。そして、大きい…
だが………
「口径が8センチの屈折望遠鏡でも、これがやっとなんだ。星を見慣れている俺の目でも、やっとそのぼんやりとした雲の周りに、ぽつぽつと星の粒が見え隠れするくらいだよ」
目をレンズから離すと、真琴は正直に頷いていた。
確かに明るく、大きい。だが、これは『星』には思えなかった。煙か何かのようだ。写真で見る彗星のコマに似ているだろうか…
眼視と写真では、見え方が違う。それは言葉としては知っていたものの、ここまで違うとは思わなかった。
写真のM13は、どれも立派に星の集まる、表面のざらざらした球体に写っているのに…球状ですらないではないか。
「…技術はね、それなりに使いこなせば、簡単に素晴らしい映像を俺達に与えてくれる。俺にしても、写真を撮る度に、今度はこうして、もっといいものを撮ろう…そんな風に工夫を続けているんだ。
でも…最近は、いい写真を撮る度に、どんどんと星から離れてしまっている気がするんだよ……
違う。《本当》の星は、こんなものじゃない……ってね……」
カメラを固定してバラストを調整すると、ピントを確かめてレリーズを押している。
手元の赤い灯りで、ノートに黙って時刻を書き込み…
…ずっと…ずっと、黙って真琴はそんな『彼』を見つめていた。
何を言えばいいのだろう。
自分に何が言えるだろうか。
『彼』の呟きの一つ一つが、真琴に衝撃を与えてくる。
あの、店先のパネルからは想像も出来ないくらい、『彼』自身は真剣に悩み、迷っていたのだ。
「……ごめんね…」
「え?」
「…あたし、そんな風にアキラ君が思っていたなんて、ちっとも分かんなくて…」
写真を見て喜ぶ自分の姿に、『彼』は複雑な気がしていただろう。
落ち込んでいるそんな真琴を覗き込むと、だが『彼』は優しく笑い掛けてくれた。
「いいんだよ。今日、真琴の御蔭で俺も新鮮な気持ちになれたんだから。
初心を忘れるな、なんて言葉があるけど、それを今くらい実感したことは無いよ」
「……あたしもね、フォンちゃんやアキラ君みたいに、何か『大切なもの』が欲しいな、って…そう思ってたのよ。
でも、さっきの話を聞いてたら、『大切なもの』を『大切』なままでいることって、とっても大変みたいね…」
アキラは腕を組むと、静かな声で言った。
「…そうだね、大変には違いないよ」
そんな言葉が、とても重く、大人びて聞こえる。
『兄』のような『彼』の言葉に、真琴はただ耳を澄まし、想いを委ねていた。
「ただ、大切にし過ぎているのかも知れない。
近頃、星を見ようとする時、《義務》のように感じることもあるんだ。楽しんで見ようとするんじゃない。見なくてはならない気がして、見るんだよ。
これじゃいけない、俺は星が好きで、どんな代償を払ってもいいから見ていたい…だから、趣味にしていたはずなんだ。もっと、昔のように楽しんで星を見ていたい…
だけど、そう思えば思うほど、楽しめない自分がいつもいるんだよ。
もう、星を見ることに冷めてしまったのかも知れない……
…真琴、俺は今、趣味を失おうとしているところかも知れないんだよ……」
「そんな……!」
励まそうと、急いで口を開く。
だが、やはり声が出ないのだ。想いは先走るのに、それを文章に出来ない。
それに……一体、何を言えばいい?
『大切なもの』を探している者が、それを失おうとしている者を、どうして慰めることなど出来るだろう。
…だから、真琴は素直に呟いていた。
「…ごめん。アキラ君…あたし、こんなに励ましてあげたいのに…何も出来なくて……折角、話してくれたのに…
あたし、何も出来ないのよ……」
自分の力の無さが、情けなくなってくる。
「いや…」
柔らかな眼差しが、優しく微笑み掛けてくれる…
「真琴は、もう十分、俺の為に色々としてくれたよ。真琴の姿や仕草の一つ一つが、俺を変えてくれる気がするんだ…」
「…あたし、そんなの許せない。あたし、やっぱり、あたしの意志でアキラ君の力になりたいんだから!」
激しい口振りで真っ直ぐ見つめると、『彼』はその先で重く頷いていた。
「…ありがとう。本当に、嬉しいよ」
「あっ…」
今になって、慌てて照れてしまう。暗くて見えないだろうが、自分では頬を真っ赤にしていることがよく分かる。
急いで俯く真琴の仕草に笑みを戻した瞬間、アキラは自分がシャッターを開いたままにしていることを思い出した。追尾も、モーターに任せっきりになっている。
「うわっ!」
慌ててレリーズを切るが、時計を見ると『彼』は苦笑いしていた。
「う〜ん、随分、予定以上に露出してしまったな」
ノートに撮影終了時刻を書き込むと、今日の予定をもう一度組み立ててみる。
『彼』の手の中で、ペンは小指と薬指の間に挟まれたかと思うと、次にはくるくるっと大きく振れて指の間を移動していく。人差し指の手前まで来ると、そのペンはターンして出発点へと戻っていた。
「…あっ」
そんな『彼』の動きに気付いて、真琴は思わず息を飲んでしまった。その気配に気付いたのだろう、アキラは目を上げると少し困ったように言った。
「あぁ、これが出来なくて、随分と練習したんだ。御蔭で、すっかりクセになってるよ」
「……」
真琴は沸き起こる悲しみを必死に胸中に押し込むと、不自然に微笑もうとしていた。
…あんな風にペンを回すことが、少し不器用だった『晃のお兄ちゃん』には出来なかったのだ……
そう……まだ、真琴は『彼』を重ね合わさずにはいられなかった……万に一つも無い期待が、今も、こうして心の隅を占拠している……
だが、目の前でその甘い期待は完全に否定されてしまった。
感じてはいけない……だが、感じずにはいられない悲しみに襲われ、真琴は激しく心を乱していた。
……『お兄ちゃんにも、出来ないことってあるんだねぇ』……
(やめてっ!)
そんな『晃のお兄ちゃん』を応援していた自分の『過去』の声を消そうと、真琴は強く心の中で叫んでいた……
……自分は、なんて酷いんだろう……目の前の『彼』を、『彼』自身として『好き』になったはずなのに………
「大丈夫かい? 真琴!」
心配そうな声にはっと我に返ると、真琴は急いで足下のバスケットを持ち上げて誤魔化そうとしていた。
言えない…絶対に、こんなこと、言えない……
「そうだな。もう今夜は、写真も止めよう。
さてと、じゃぁ、真琴の手作りのクッキーをもらおうかな」
気にしているはずなのに…それ以上気付かない振りをしてくれるアキラの優しさに、真琴の心は哭きながら謝り続けていた……
「…はい」
やっとの思いで声を出し、水筒のコップを渡す。
バスケットの中でクッキーを広げた途端、不意に真琴は飛び上がってしまった。
すぐ近くの茂みで、カサコソと草を踏む音がしたのだ。
誰かがいるのだろうか…まさか、本当に変質者でも…
だが、一瞬鋭く瞳を細めたアキラも、その揺れる草の音に耳を澄ますと、表情を緩め、次には小さく呼びかけていた。
「おいで、タマ」
「ア〜ン…」
愛らしい鳴き声と共に、純白の毛並みが赤い光に照らされる。
見覚えのある猫の姿に一気に力を抜くと、真琴は大きく溜息を吐いてしまった。
「脅かさないでよ。あぁ、びっくりした」
「おいおい。俺の時は凄い剣幕だったじゃないか」
からかうアキラの言葉に、頬を膨らませる。
「今はいいの! あたしだって、女の子なんだから。守ってもらいたいな、って秘めた願望があるのよ」
「大丈夫、守ってやるさ」
何気無く応えてくれる言葉に、とても多くの想いが籠められている。
思わずはにかんで、それでも嬉しそうに真琴は頷いた。
「…うんっ!」
こんな時には、ふと女の子らしい可愛い表情に戻る。
改めてそんな彼女の様子に目をやると、次にはアキラは視線を白い猫に流してしまった。
「ほら、タマもクッキーをもらうか」
『彼』が照れているのに気付いて、自分も恥ずかしくなってくる。
だが、それでも真琴は微笑みながら、クッキーをアキラに手渡していた。
「その猫、本当はブランって言うらしいわ」
「なんだ、じゃぁ、何処の飼い猫か分かったんだな」
少し残念そうな『彼』の顔に、くすくすと真琴は笑い出していた。
「その飼い主がね、フォンちゃんに告白したのよ? 前から、狙ってたみたい」
「で、大丈夫だったのかい? 彼女は、そんなショックに耐えられないだろう」
心から心配しているアキラに、真琴はふっと柔らかく微笑んで言った。
「優しいのね、アキラ君って」
「そう言う真琴だって、彼女の『姉さん』みたいに笑うんだな」
「え?」
まさか、自分がそんな風に見られているなんて思いもせずに、真琴はきょとんとしてしまった。
その様子に、アキラが思わず噴き出している。
「なんだ、全然気付いてないんだな」
「だって、あたし…そんなこと、思ってもみなかったわ」
困った表情でそう言うと、一層『彼』の笑い声が大きくなる。
「もうっ! そんなに笑わなくてもいいじゃない」
唇を尖らせる真琴の足下では、クッキーを催促する声が上がってくる。
「ア〜ン、ア〜ンッ!」
煌く光点が鏤められている空の下、愉しい言葉が行き交っては風に抱き止められていく。
やがて東天も白み、月がその波で彼女達の頬をそっと照らしていくことだろう…
「じゃぁ、ここで」
「うん! 今夜はありがとう」
門の向こうでは、ジョリーが一生懸命に尾を振っている。
仔犬が走り寄る足音に気付いて、弥生も玄関から顔を覗かせていた。
今夜は、弥生の家に泊まるのだ。アキラもそのことを知っていたので、いつもより早めに切り上げていた。
「彼女も、一度連れていってあげようか。真琴に見捨てられたと感じるかも知れないからな」
「そうね…」
そんなつもりがなくても、僅かなすれ違いで友人関係を壊した友達を、真琴はたくさん知っていた。
(でもね、きっと大丈夫よ)
そう、絶対に、自分と弥生の関係が崩れることなど無いだろう。
確証など、無い。だが、彼女はそうであることを知っていた。
「ほんと、フォンちゃんのことになると、優しいのね。声まで柔らかくなってるじゃない」
「なんだ、妬いてるのか?」
「そうよ。あたし、本当に、それで泣いたんだから……」
しんみりとした告白に、アキラは真剣な光を瞳に映すと静かに言った。
「彼女に話したのか?」
「……うん」
「そうか……ありがとう。そんなにも想ってもらえたなんて、嬉しいよ。たった一度の、しかもあんなにも短い出逢いだったのに…」
「時間の長さなんて、意味無いじゃない。
あたしにとっては、全然、『短く』なんてなかったわ。一瞬でも、それがどれだけ大切かで、時間の価値なんて決まるのよ」
「…そうだな。親友を裏切りそうになるほど大切な想いを、俺が受けるに相応しいかは分からないけど…
俺だって、あの時に『大切なもの』を見付けたんだ。
…俺の前には、今、一筋の道が見えてるよ。その小道が、『シルヴィー』の店先で俺を真琴へと導いてくれたんだ…」
「…アキラ君……」
「これからも…いや……今迄にだって、その光の小道は真琴に繋がっていたのかも知れない。
…俺は、その小道を、ずっと歩いていたいと思ってるよ」
静かな言葉に、小さく、何度も頷くことしか出来ない。
そんな自分に笑い掛けてくれた後、『彼』は自転車に跨った。
「ほら、あの子が待ってるよ。
じゃぁ、お休み!」
たくさんの荷物を積んだ車輪が遠ざかっていく。
その後ろ姿を、月の銀光の下で、真琴はいつまでも…いつまでも、見送り続けていた……