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宝の小箱  作者: くまミニ
14/22

第二部 光の小道 4

 真琴が泊まりに来てから三日が過ぎた日の朝、弥生は彼女からの電話で急いで家を飛び出していた。

 中学校で会いたいと言うのだ。どうも、あの日以来、真琴の様子がおかしくて心配だった弥生にとって、反対するはずのない誘いだった。

 もっと自分に勇気があれば、もっと早く会えたかも知れないのだが…

 足早になって、バス停に向かう。待ち合わせの時間にはまだ随分とあるのだが、どうせ家に居ても落ち着くはずがないのだ。

(マコちゃん…どうしたんだろう…)

 弥生には、何故、彼女が時々黙り込んでしまうのか分からなかった。電話の中の沈黙も、少し前なら『言葉』で満ち溢れていたのに……今朝の電話の沈黙には、冷たさと混乱しか弥生には感じられなかった。

(…わたしの、せい……?)

 思い当たる原因は無い。だが、自分で気付いていないだけかも知れないのだ…

 どうしても、気分が沈んでしまう。こんなにも空は青く、地上は光と影でくっきりと塗り分けられていても…弥生の心の中は、台風の前の空のように、灰色に霞み、ざわついていた。

 バス停の近くになれば、家もそれなりに立ち並んでいる。まだ新しい庭先に植えられた木々の葉が、風に揺れて歩道に光の粒を撒いている。

 自らもその泡を纏いながら駆けている弥生の目の前に、突然、純白の猫が飛び出してきた。

「きゃ…」

 小さく叫んで、立ち止まる。そんな弥生を見上げて、小さな猫は可愛く口を開いていた。

「…ア〜ン」

「…タマ?」

 あの日の夜、公園で会った男の子がそう呼んでいた猫に、よく似ている。…いや、首輪や容姿から見て、恐らくタマ自身だろう。

「…この辺りに、住んでいるの…?」

 そっと囁く優しい声に、再び小さく声を上げる。

 だが、次の瞬間、タマはすぐ傍の路地へと走り込んでしまった。

「あっ…」

 慌てて、その後を追い掛ける。角を曲がって、道に飛び込んだ瞬間…

 弥生は、一人の男の子の目を真っ直ぐ受け止めてしまっていた。

 自分と同じ年頃のその男の子の足下で、タマがじゃれついている。だが、そんなことに気付く余裕も無く、弥生は真赤になると体を震わせてしまった。

 夢中になって駆け込んだ後で、今更何処かに身を隠すわけにもいかない。今まで会ったこともない男の子にじっと見詰められて、弥生はどうすればいいのか分からず、泣きそうになっていた。

(マコちゃん…どうしよう…)

 思わず助けを求めてしまうが、真琴が来てくれるはずもない。

「…お前か? ブランを変な名前で呼んでるのは」

 その乱暴な口調に、びくっ! と体を震わせてしまう。

(だって…だって……)

 自分は、タマと言う名前しか知らなかったのだ……

 泣きそうな顔で、俯いてしまう。

 そんな弥生に気付いているのかどうか…男の子はその場でしゃがみ込むと、猫をそっと抱き上げていた。

「なぁ、ブラン? お前も、大変だな。今度はタマだってさ」

「ア〜ン」

 立ち上がって、近付いてくる。その足音に気付いて、逃げ出そうと思うのだが……最早、弥生の足は恐怖で少しも動いてはくれなかった。

 きゅっと、目を閉じてしまう……

「ほら、橘。抱いてみるか?」

 思いがけない言葉に、流石の弥生も思わず驚いて顔を上げてしまった。

 すぐ目の前で、彼が小さく笑いながらブランを押し付けてきている…その柔らかく温かな毛並みを、弥生は知らず受け取っていた。

「…あの…名前……」

(どうして…)

 どうして、彼は自分の名前を知っているのだろう。弥生の方は、全く彼を知らないのだ。

 彼女の微かに震える囁きに、彼は少し赤くなりながら、にやっと笑うと片目を瞑ってみせた。

「さぁ、どうしてだろ?」

 そう言われても、弥生には見当もつかない。

 じっと問い掛けてくる弥生の真剣な眼差しに、彼は照れたように小さな猫の頭を軽く叩きながら言った。

「こいつ、俺の家じゃブラン、って呼んでるんだ。だけど、すぐ何処にでも行ってしまうから、あちこちで違う名前を貰ってるらしい。タマも、その一つさ」

 違う。そんなことを、訊いたのではない。

 真っ赤になりながらも、目を離さない弥生に、彼は根負けして白状した。

「…本当は、ずっと前から気付いてたんだ。ほら、毎朝、バスで学校に行ってるだろ? だから、その…可愛いな、って。家がすぐに分かったから、表札を読んで…だけど、別に変なことはしてないよ」

「……!」

 自分でも、ブラウスの下まで赤くなっているのが分かる。顔を上げていられなくて…思わず、きゅっ! とブランの小さな体を抱き締めてしまっていた。

「ア〜ンッ!」

 少し、むずがっている。だが、どうしてもこの胸の鼓動を聞かれたくなかった弥生は、ブランを放そうとはしなかった。

 今まで、こんな風に言われたことが無かったのだ。自分は大人しくて、小さな子どもみたいだし…他の人と、話なんて全く出来ない。ましてや、男の子と話すことなど、弥生に出来るはずもないのだ。

 そんな自分を可愛いと思ってくれる人がいるなんて、弥生は思ってもみなかった。前の買い物で真琴にからかわれたが、あれだって、冗談だとばかり思っていたのだ。

 …突然のことで、どうすればいいのか、分からない。出来るなら…足が動くなら、ここからすぐにでも逃げ出したい……

 そんな二人の沈黙の間に、不意にバス特有の重いエンジン音が割り込んでくる。

 はっと顔を上げる弥生に、彼は急いでブランに手を掛けると言った。

「急ぐんだな?」

 大きく、頷く。そんな弥生に頷き返すと、ブランを受け取って彼は続けた。

「俺、高岳たかおか あずま。また、会おうな」

 どんな返事をすればいいのか、分からない。

 だが、自分でも驚いたことに、弥生はしっかりと口を開いていた。

「…うん」

 ぱっ! と駆け出してしまう。

 背中に愛らしい猫の鳴き声を聞きながら、弥生はバス停へと曲がり、走り出そうとしていたバスに慌てて飛び乗っていた。

 荒い息の下、定期券を見せる。席に座ってゆっくりと落着きを取り戻した時、改めて、弥生は恥ずかしそうに頬を染めてしまった。

(どうしよう…どうしよう……)

 そればかりが、頭を巡る。

 泣きそうになりながら、弥生はずっと助けを求め続けていた……


「……? フォンちゃん?」

 遠くからとぼとぼと歩いてくる弥生の様子に、真琴は慌てて立ち上がっていた。

 ずっと悩み苦しんでいたことなど、思わず忘れてしまう…

「…マコちゃん……」

 真琴の声に気付き、弥生が顔を上げる。次の瞬間、弥生は走り出すと、力一杯、真琴に抱きついていた。

 わっ、と泣き声が迸る。

 そんな弥生を、だが少しだけ落ち着いて、真琴は受け止めていた。

 ついさっきまで、今日は自分のことを話すのだとばかり思っていたのだが…

「…フォンちゃん…」

 小さな体を、力を込めて抱き締める。

 柔らかな笑みを頬に映しながら、真琴は優しく弥生の髪に顔を埋めていた。

 首の後ろで束ねた髪を、風が悪戯をして持ち上げる。蝉は近くの校舎の壁で騒ぎ立て、陽光も無遠慮に真琴の背中に僅かな影を焼き付けていた。

 それでもじっと、真琴は待ち続けていた。

 弥生の苦しげな泣き声だけに耳を澄ませ、ずっと、待ち続けていた……


 …どれだけの時間が流れたのだろう。


 漸く弥生の涙も頬を濡らすことをやめ、僅かに肩だけが、まだ上下に震えている。

「…大丈夫?」

 こくんっ、と小さな頭が頷く。

 そこで初めて、真琴はきょろきょろと辺りを見回すと、校舎の陰にあるベンチを見付けて言った。

「ほら、あのベンチに座ろ?」

 ゆっくりと、俯いたままの弥生を胸元から離す。

 そっと彼女の体を抱きながら、真琴は並木に隠れるベンチの方へと歩き始めた。

 先に、弥生を座らせる。

 少し間を置いてその横に自分も腰掛けると、真琴は暫く遠くの景色をぼんやりと見詰めていた。

 優しい『時間』が、二人を包み込む。沈黙は温かな腕で二人を抱き締め、そっと囁いてくれていた。

 その囁き声が、刹那、時を知らせる。

 その時になって初めて、真琴は弥生に顔を向け、尋ねていた。

「どうしたの?」

 そんな真琴の言葉に押し出されるように、弥生は先程の出来事を話し始めていた。

 何度も途中で詰まりながら…時には涙を浮かべながら、それでも最後まで話し終える。

 全てを聞いてしまうと、暫く黙り込んでから、真琴は弥生に笑い掛けていた。

「良かったじゃない、フォンちゃん」

「マコちゃん…」

 全然、良くなんかない…そう言いたげな弥生に、真琴は少し真面目な顔になると続けて言った。

「折角、好きになってもらったんだから。そのチャンスを、しっかり掴まないとダメよ。

 フォンちゃんだって、又、一回くらいは会ってもいいな、って思ってるんでしょ?」

「…えっと…その……」

 正直に言えば、弥生にも分からないのだ。

 ただ、自分でも赤くなるくらいには、彼のことを気にしていると気付いている。

「ね? いいじゃない。気に入らなかったら、それはそれで、もう会わなかったらいいだけだよ。大丈夫。断る時には、あたしも一緒にいてあげるから」

「……うん…」

 何だか、少しだけ落ち着いて考えられる気がする。バスに乗っている間は思ってもいなかった方向に、心は傾いているのだが…

「ねぇ、フォンちゃん。今度、新しい服を買いに行こ? 絶対、無駄遣いじゃないことが分かるから。その雷って子、びっくりするわよ」

「そんな…」

 ますます顔を赤らめると、弥生ははにかんで俯いてしまった。

 だが……心の隅で、少し、期待している部分がある……

 一度くらいなら…又、会ってもいいかな……

 少しずつ微笑を取り戻している弥生を見ながら、ふっ…と真琴は厳しい表情を面に浮かべていた。

「……?」

 その沈黙に気付いて、弥生が目を上げる。

 澄んだ美しい瞳を迎えられずに……思わず、真琴は視線を逸らせてしまった…

「……フォンちゃん、ごめん……

 ……あたしって、なんて酷い人間なんだろうね…」

「え?」

 心配と戸惑いで、自分の想いなど忘れてしまう。

 そんな弥生の前で、真琴は苦しそうに言葉を押し出していた。

「あたし…フォンちゃんの話を聞いて…本当は、ほっとしてるんだぁ……」

「マコちゃん……」

「この前、公園で星を撮ってた人がいたじゃない? …あたし、あの人のことがずっと気になってて…

 …若しかしたら、『好き』になっちゃったかも知れないの……名前も、年齢も、学校も知らないんだけどね……」

「……!」

 思いもしなかった告白に、弥生は何と言えばいいのかわからなかった。

 …しかも、寂しそうに続いた言葉は、弥生を一層、驚かせるものだった。

「…でも……ね。あの人、フォンちゃんのことを気にしてたみたいで……ずっと声も優しかったし、笑顔だって柔らかくて……

 フォンちゃんとあたしなら、…やっぱり、みんな、フォンちゃんを選んでも当たり前だ、って……

 ……でも…でも、ね……ごめんね、フォンちゃん……あたし、あの人だけは取られたくなくて……

 あたし…ね………フォンちゃんに、妬いてたんだよ…………」

 いつも明るくて元気に充ちている瞳が、僅かに濡れている。

 自信と優しさに溢れていた声が震えるのを、弥生は初めて聞いた。

「ごめんね…あたし、酷い奴だよね…」

 きゅっ! と唇を結んでいる。泣きたいのを、必死になって我慢しているのだ…

 そんな真琴の姿に、弥生は胸の奥を冷たい氷の手で握り潰された気がした。

「…マコちゃん……ごめんなさい…私が気付いていれば……」

 こんなにも、真琴の心を苦しめずに済んだのだ…

 涙を流す弥生の呟きに、だが激しく真琴は頭を振っていた。

「謝ったり、しないで! あたし、自分を赦しそうになっちゃう…」

 両手を膝の上で強く握り締め、瞳を閉じる真琴に…弥生はそっと、囁いた。

「…赦してあげて…マコちゃん……」

 自分でも驚いてしまうほど、静かに、そして力強く言葉を紡ぐ…

「……そんな風に、自分を責めないで…仕方無いんだもの…」

「……」

「…本当に、ごめんね…私、全然気付かなくて……

 ……

 ……ありがとう…マコちゃん……話してくれて…私、嬉しい……

 ……

 ……ありがとう……いつも、私のこと、きちんと考えてくれて………

 ……

 …《本当》に、マコちゃんと友達になれて良かった……

 ……

 ありがとう…………」

 ゆっくりと、一言一言を区切りながら、沈黙と共に囁き続ける。

 正直に話してくれた真琴の言葉が、ショックでなかったとは言えない。

 だが、それだけ真剣に悩んで…そして、告白してくれたのだ。

 弥生にとって、そのことは何にもまして嬉しいことだった。

 そんな気持ちを伝えたい。

 もっと、沢山の『言葉』で……

 今まで、こんなにも長く話したことは無い。だが、どれだけ囁いても、弥生には少なく思えるのだ。

「……フォンちゃん………」

 目を開けるその先には、《全て》を赦し受け止めてくれる優しい微笑みが揺れている。

 真琴は、最早抑えきれずに、そんな弥生の肩に顔を押し付けていた。

 悲しみに満ちた想いが、夏の陽光に溶け出していく。光の泡に囲まれながら、初めて見る真琴の涙を、弥生はしっかりと抱き締めていた……

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