第二部 光の小道 2
「一休みしよっか、フォンちゃん」
「うん…」
大きな袋を抱えながら、真琴は隣の弥生を覗き込んで言った。
光が霞む地下道を、人々の川が流れ過ぎていく。その無情な群衆を少し怯えた瞳で眺めながら、だが弥生は逃げ出しもせず、真琴の傍で立ち止まっていた。
「大丈夫?」
(ちょっと、まだ早かったかなぁ…)
夏休み最初の週末は、真琴の順番として、買い物に付き合ってもらったのだ。
来週は弥生の順番になるが、彼女は図書館以外の何処にも行きたがらないので、こうして時々、真琴が人の集まる所を無理に選んでいる。
だが、まだ『人間』に弱い弥生には、今日の短い買い物でも無理だったのかも知れない。
心配そうな声に導かれて、弥生は顔を上げるとそっと微笑みを浮かべてみせた。
「うん…ありがとう…」
そんな仕草がいじらしくなってくる。
真琴は見慣れた喫茶店のドアを見付けると、急いでそこまで弥生を伴っていった。
「いらっしゃいませ」
濃い茶系の薄暗い壁が、この地下では心地好い。淡い光に照らされたテーブルに着くと、その落ち着いた雰囲気に身を委ね、弥生は知らず吐息を漏らしていた。
「いいでしょ、ここ。このお店の紅茶って、美味しいのよ」
緊張を解いて自然と笑みを取り戻す弥生に、正直ほっとしながら真琴は荷物を隣の椅子に置いた。
店員に、お気に入りのリーフの紅茶を頼む。静かな足音が店の奥へ帰っていくと、真琴は済まなさそうに弥生に目を向けた。
「ごめんね、フォンちゃん。もうそろそろ、人混みにも慣れたと思ってたから…」
そんな言葉を、弥生は大きく頭を振って遮った。
「ううん…マコちゃんのおかげで…私も、楽しかったもの…」
優しく微笑む彼女を見ながら、ふと真琴は一年前の出来事を思い出していた。
中学校で同じクラスになってから、初めて一緒に町まで遊びに来た翌日、弥生は寝込んでしまったのだ。別に、風邪をもらったわけではない。ただ、周囲の人々と同じように急ぎ足で町を通り過ぎ、それでも押し寄せてくる『人間』の群れに気分が悪くなってしまっただけなのだ。
頭痛どころか、微熱まで出していた当時を思いながら、改めて真琴は今の弥生の姿を眺めていた。
「…良かったね。フォンちゃんも、町を歩けるようになったし、どんどん、面白い所に連れてったげる」
勿論、無茶をさせるつもりは無い。一年経った今でも、弥生には買い物が精一杯なのだ。弥生自身は必死になって不安を面に出さないようにするだろうが、そんな無理をしていても楽しいはずがない。
真琴は弥生の性格を変えたいのではなく、彼女に心から楽しんでもらいたいのだ。
「ありがとう…」
弥生がにっこりと笑い返してくれる。
その時、ジャムとクリームが入った小皿と一緒に、スコーンが運ばれてきた。ティーポットと温められたカップも並ぶ。
カップの中に金色の液体を満たし、その香りを口に含むとふと真琴は言った。
「ねぇ、フォンちゃんも服を買わない? もっともっと、可愛くなれるよ」
その言葉に、恥ずかしそうに頬を赤らめながら、弥生は自分の服を見下ろした。
「……これ、…似合ってない…?」
慌てて、真琴は否定する。
「ううん! ごめんね、そんなつもりで言ったんじゃないの。でも、ちょっと大人しいと思うし、勿体無いな、って」
「…でも…お金もかかるし…」
「とか言って。本には幾らでも出すんでしょ?」
はにかみながら、小さく頷いている。そんな弥生に、真琴は少し真面目な表情をして言った。
「あたしだって、本に出すのはいいと思うよ? でも、やっぱり、時には無駄遣いもしなくちゃ。
ううん、女の子なんだもん、沢山服を買っても無駄になんてならないんじゃない? それだけ可愛くなれたらいいのよ」
「う…ん……」
なんと応えていいのか分からずにいる弥生に、真琴はふっと優しい目で続けていた。
「フォンちゃんね、きっとそれで損してると思うわ。だって、フォンちゃんに彼氏がいないなんて、おかしいもん。あたしが男の子だったら、絶対、見逃さないんだけどなぁ」
「そんな…」
これ以上無いくらい、赤くなって俯いてしまう。そんな弥生の様子に小さく笑い声を上げながらも、真琴は本当にそう思っていた。
本が好きで、地味な弥生は、少し男の子からすれば近付き難い存在なのだろう。絶対に、損してる…真琴にはそう思えて仕方が無かった。
「ね? 今度はフォンちゃんの買い物にしよ?」
「……うん…」
「やたっ! じゃぁ、決まり。
…ね、フォンちゃん。ちょっとだけなら、無理しても好いと思うよ」
度を越せば毒にもなるだろうが、真琴にそんなつもりは勿論無い。真琴は、今の弥生を認め、尊敬しているのだから。
「うん…やってみる。…でも、私…よく、知らないから……」
「いいじゃない。流行なんて、気にしなくていいの!
どうせ、お店には流行ってるものしかないんだから。ただ、お店の中を歩いて、自分に合ってると思う服を着てみたらいいのよ。あたしだって、手伝ってあげる」
「うん…」
何だか、声だけでは一方的に話している気もする。だが、真琴は弥生のちょっとした仕草や表情から、応えを返してもらっているのだ。どんなことがあっても、強引に話を押し付けたりはしない。
逆に言えば、弥生が口にする言葉は、それだけ重いものだった。そして、その言葉を含めた『言葉』を最も良く理解してくれるのも、真琴だった。
柔らかな沈黙が、二人の間に入り込む。
真琴がその静寂にそっと身を浸していると、暫くして珍しく弥生が自分の方から話し掛けてきた。
「あのね、マコちゃん…」
「ん?」
「…明日の夜、…何か、用事ある…?」
「ううん、別に無いよ」
真琴が不思議そうな顔をすると、弥生は一呼吸置いてから囁いた。
「…あの、…その…お母さんが、一度、マコちゃんに会ってみたい、って……
だから、…えと、明日の夜…泊まりに来てくれる…?」
「もっちろんっ! そう言えば、フォンちゃんの家に行くのって、あたし、初めてなんだ」
「…うん…」
弥生の方は、何度か真琴の家に行ったことがある。そのことも気になっていたのだろう。
確かめるように見上げてくるが、真琴が反対するはずもない。
「絶対、泊まりに行くわ」
「ありがとう…」
本当に嬉しそうに、にっこりと微笑んでいる。
「ねぇ、じゃぁ、何時に待ち合わせをしよっか」
「バスの時刻があるから…」
穏やかな喫茶店の暗がりへと、楽しげな少女達の声が広がっていく。
柔らかな光の滴はその心地好い音色に抱かれ、ティーカップの縁で弾けると、二人の笑顔をそっと照らし出していた。
終点の一つ手前の停留所で、バスを降りる。
先に降りて待っていた弥生に、真琴は感心したように言った。
「毎日、二十分も大変じゃない?」
「でも、仕方無いから…」
弥生が住んでいる新しい住宅地には、まだ中学校が開校していないのだ。既に、真新しい校舎は建っているのだが、生徒が思うほど集まらないらしい。そこで、弥生は毎日、真琴の通う中学校までバスで通学していた。
バスのターミナルから、スーパーの脇を通って北へと向かう。
確かに、辺りにはまだまだ家は少なく、殆ど野草の密生した敷地しか見えてこない。しかも、その地面が剥き出しになっているような更地は、弥生の家が近付くにつれて多くなっていくのだ。
雲一つ無い広い空が、茜色に染め上げられている。東の地平線には黒い青が沈殿し始めており、陽光にもそれを払う力は最早残されていなかった。
「…あそこなの…」
まだ随分と離れているが、指差す先には、何ものにも遮られず新しい家が見えている。
それにしても、本当にうら寂しい所だ。数十メートルの範囲に、片手で数えられるだけしか家が建っていないではないか。
弥生の家のすぐ傍には、将来を見越してか不釣合いに大きな公園が造られているのだが…まだ、街灯も立てられていない。
何もかもが、中途半端なままなのだ。
「ほんと、何も無いんだね」
呆れて呟く真琴に、だが声にならない『言葉』は反対している。
「そうじゃないの?」
その問い掛けに、嬉しそうな笑顔を向けると、弥生は頷いた。
「…沢山の樹が近くにあって…鳥も、よく来てくれるもの……空も星も綺麗だし………」
「ふ〜ん…」
真琴自身は、例えそれらのものがあったとしても、退屈してしまうだろう。だが、弥生らしいと言えば、そう言えるかも知れない。
「……おかしい?」
心配そうに見上げる弥生に、真琴は柔らかな微笑で応えていた。
「ううん。だって、フォンちゃんにとって、樹や鳥って大切なんでしょ? だったら、それが沢山あって喜んでも、別におかしくなんてないわよ。ただ、あたしには物足りないな、って思うだけ。でもね、フォンちゃん。あたしだって、鳥や星のことを知りたいと思ってるのよ。意志が弱いから、やろうとしないだけでね」
「…私も…知ってるなんて言えない……ただ、見たり聞いたりするのが…嬉しくて…」
「でも、それって、知ってることと同じだよ。ただ、知ってる内容が、名前とか知識じゃないだけでね」
「……うん」
弥生の頬が、正直に喜びを映し出す。真琴も頷き返した時、二人は家の門に辿り着いていた。
そっと弥生が門を押し開けると、庭のある裏手から、ダダッ! っと砂利を蹴散らす愛らしい足音が近付いてくる。目を向けると、不意に黒く小さな仔犬が飛び出し、弥生の足にじゃれついてきた。
「うわっ! 可愛いぃぃ〜」
しゃがんで触ろうとすると、少し身を引いて健気に吠えてくる。真琴はそんな仕草に笑い声を上げると、急に仔犬を抱え上げてしまった。
嫌がって身を捩っていた仔犬は、だが真琴が目の高さまで持ち上げると、突然大人しくなってしまう。
「この子、高い所が苦手なの…」
「そうなんだ」
恐怖のあまり硬直している仔犬を慌てて下ろすと、真琴は弥生を見上げた。
「この子、なんて名前なの?」
「ジョリー…」
自分の名前を呼ばれたことが分かったのだろう、ジョリーは足下でファンッ! と元気に声を上げた。
「意味はあるの?」
「うん…フランス語の『可愛い』をローマ字読みしたの…」
「へぇ。こら、ジョリー! あたしにも、返事しなさい」
「ファン! ファンッ!」
とは応えてくれたものの、輝いた瞳が警戒している。それを見て真琴が笑った時、家の玄関が開かれ、中から声が飛び出してきた。
「弥生、早く入ってもらいなさいよ」
「お母さん…!」
慌てて立ち上がると、真琴は出てきたおばさんに頭を下げた。
「野坂 真琴です。お邪魔してます」
「ようこそ。いつも弥生がお世話になってるみたいで…」
「とんでもないです! あたしこそ、助けてもらってばかりです」
「…行こ、マコちゃん……」
どうも、気恥ずかしいらしい。服の袖を持って引っ張る弥生に従って、真琴はドアの方へと引き摺られていく。
「ゆっくりしていって下さいね」
「はい」
通りすがりに軽く頭を下げると、真琴は赤くなっている弥生に逆らわず、家の中へと入っていった。
そのまま、二階まで上がってしまう。
案内された部屋で一番に目に付いたものは、想像に反して可愛らしいぬいぐるみの群れだった。本の数はそれ程多くない。もっとも、隔週で五冊も借りていれば、部屋には必要無いだろう。
「…ごめん、散らかったままで…」
「全然、そんなことないじゃない」
実際、何処にも乱れた所などない。白木の机からベッド、棚や額にいたるまで、全てがあるべき所に収まっている感じだ。真琴は、今迄にこれほど調った部屋を見たことが無かった。
「…飲み物、持ってくるね…」
「うん、ありがとう」
真琴はカーペットの上に腰を下ろすと、弥生の小さな背中を見送った。
この部屋を見てもそうだが…絶対、自分よりも弥生の方が可愛いと思ってしまう。自分の好きなものがはっきりと分かっていて、きちんと考えるべきことは考えていて…優しくて、可愛くて。少し近寄り難い雰囲気さえ変えれば、男の子は放っておかないだろう。
自分のことなど考えもせず、真琴は本当に弥生が損をしていると思っていた。
窓からは、広く西天が望める。金星は燃える夕焼けの帯の上で一際目映く煌きながら、そんな真琴の『自身』を自らの光で貫いていた。