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宝の小箱  作者: くまミニ
11/22

第二部 光の小道 1

 夏休みまで、残り一週間を切った金曜日の朝。

 真琴は乱暴に荷物を机に置きながら、楽しそうに後ろの席の弥生を振り返っていた。

「ねぇ、フォンちゃん! 今日も、行くんでしょ?」

 笑顔の先で、物静かな少女が優しくはにかみながら頷いている。

 ちなみに、フォンとはFAWNを真琴が勝手に読み替えたものだ。弥生の小柄で愛らしいところが、真琴は仔鹿にそっくりだと思っている。

「…うん。…マコちゃんは…?」

「あたし? へへっ、今日は、ちゃぁんと読んできたんだから」

 弥生にそう言うと、真琴は鞄の中から図書館の蔵書印が付いた本を取り出してみせた。

 その時、不意に、登校してきたばかりの朋美が笑いながら顔を覗かせる。

「ほんとに、マコが本なんて読むの?」

 さも、信じられない調子で尋ねる彼女に、真琴もさも憤慨しているような口調で応えていた。

「失礼ね! あたしだって、本くらい、読むわよ。そりゃ、フォンちゃんみたいに凄くはないけどね」

「そんな…」

 その言葉に、弥生が赤くなって俯いている。

 そんな弥生の様子を見て、朋美は…いや、他の誰しもが思うのだ。

 気が強くて男勝りな真琴と、こんなにも大人しくて優しい弥生…この二人が、何故これほどまでに気が合うのだろうか、と……

 実のところ、真琴自身も、時々不思議に思うのだ。

 だが、弥生はとても大切な友達だし、一緒にいるだけで、いつも大事なことを教えてもらっている気がする。中学一年生で同じクラスになって以来、もう一年間と少しになるが、これからもずっと真琴は弥生と友達でいたいと思っていた。

「ほんとだ。マコのなんて、ただの恋愛小説じゃない」

 ひょいっ、と朋美が真琴の手から本を取り上げている。

「こらっ! 返せぇ」

 大袈裟に手を振り上げると、真琴は逃げる朋美を追い掛け始めた。

 あちこちから、そんな二人を見て、笑い声と愉しい声援が飛び始める。その様子に、弥生も嬉しそうに静かに微笑んでいた。

 教室の窓のすぐ下で、蝉が大きな声で鳴き始めている。

 夏が…《本当》の夏が、今、もう、すぐそこまで近付いてきていた……


 制服姿の多い各駅停車の電車に乗って、二つ目。

 隔週で訪れるその駅の見慣れた構内に降り立ちながら、真琴は振り返ると弥生に言った。

「フォンちゃんさ、小学校の時からここまで来てたの?」

「うん…」

 この駅では、改札を抜ける人は少ない。無人の自動改札機を通りながら、真琴は恐れにも似た表情を浮かべていた。

「電車賃まで払って。本当に、本が好きなんだね」

「…お金なんて、気にしてなかった…だって……」

 恥ずかしそうに俯く弥生に、柔らかな笑みを向けて真琴は続けた。

「それだけ、本を読むことが大切だったんでしょ?」

「…うん」

 こんな表情の真琴は、普段の明るく力強い彼女からは思いもしないほどに優しさを湛えている。

 もっとも、真琴自身は少しもそんな自分に気が付いていないのだが…

「羨ましいなぁ。あたしもね、本当はフォンちゃんみたいにはっきり言える『大切なもの』が欲しいんだ…」

 駅前の道を、右手に折れる。

 四車線の県道の両脇に並ぶ店先を、二人は軽く覗き込みながら並んで歩いていた。

 夏の日差しが、容赦無く照り付けてくる。並木の淡い影を選びながら、光の泡を纏う二人は暫くの間黙ってしまった。

「…マコちゃん…」

 やっとのことで、呟いてみる。

 …だが、弥生にはそれ以上続けられなかった。

 ただの一言だ。たった、それだけのこと……確かに、弥生を知らない人からすれば、『それだけのこと』なのだろう。だが、真琴は違った。真琴には、弥生の『言葉』の重みが分かっていた。

 だからこそ、この呟き一つで、再び笑顔を取り戻すことが出来たのだ。

「ありがとう、フォンちゃん」

 これからも…そう、これからも話すときは巡ってくるだろう。

「でもね、あたしは負けないわ。絶対に、見付けてみせるんだから」

「うん…大丈夫だよ……マコちゃん、強いもん…」

 そう言ってくれる弥生に、真琴はにっこりと笑い掛けていた。

 その笑顔が嬉しくて、弥生も微笑みを返す。

 そして…温かな沈黙へと、二人はそっと身を委ねていた。

 周囲の店の雰囲気が、少しずつ変わってくる。地方なので堅苦しさは無いが、一般の事務所が増えてきているのだ。

 蝉の騒がしい鳴き声を押し退けて、自動車のエンジン音が横を滑って通り過ぎていく。だが、そんな爆音にも負けない、微風にそよぐ緑葉の歌に気付きながら、真琴はぼんやりと遠くの景色を眺めていた。

 そう……朋美や他の友達と一緒の時なら、こんな沈黙は我慢が出来なかっただろう。だが、弥生と共に居る場合は違う。

 弥生にとっては、沈黙も優しい『言葉』なのだ…

 弥生自身がそれほど多くを語らないためかも知れないが、彼女を包む静寂はとても多くのことを話し掛けてくれる。その穏やかな『言葉』は、真琴にとって心地好い囁きなのだ。柔らかく、決して他人を傷付けない『言葉』……

 だが、残念ながら、声にしなくてはならないこともある。

 この沈黙を破りたくはなかったが…見慣れた脇道が目に入ると、真琴は済まなそうに弥生の顔を覗き込んで言った。

「ごめん、フォンちゃん。ちょっとだけ、いい?」

「うん…」

 にこりと笑い返してくれる。真琴も嬉しそうに頷くと、先に立ってその脇道を右へと入っていった。

 行く手に、ぽつん、と小さな文具店が立っている。可愛らしいその店の裏手はすぐ雑木林になっており、道の先にはこの林の守り手のための祠が祀られていた。

 弥生と図書館に来る時は、いつもこの店を覗くことにしている。心做しか逸る足取りで店先に近付くと、真琴はいつものようにガラスの向こうを見上げていた。

「…綺麗ね……」

 後ろから零れる声にも、真琴は僅かに頭を動かして応えるだけだった。そんな彼女を、だが弥生は嬉しそうに見守っている。

 この『シルヴィー』と言う名の店先には、いつも一枚の写真がパネルに入って吊り下げられていた。その写真のどれもが、天体写真を引き伸ばしたものなのだ。

 今日、真琴の前に吊られている写真には、モノクロの月面が写されていた。

 クレーターに塗り籠められた内部の暗黒と、際立つリム(縁)との対比が不気味に思える。目映い光条は、そんなクレーターを幾つも繋ぎ合わせては、灰色の海を放射状に渡っていく。

 月の欠け際の一部分を写しているのだろう。右側の宇宙そのものを思わせるような漆黒の闇から、太陽へと向く左側まで、その写真の柔らかな階調は、見事に月の丸みを示していた。

「凄いよねぇ…」

 そんな言葉でしか、真琴には表せなかった。あれほど遠く小さな存在を、ここまでくっきりと写し出すのだ。望遠鏡の原理も、フィルムの高い感度やその粒子の細かさも、知ってはいても、それでも真琴には不思議だった。

 …カランッ……

 不意に、小さな鐘の音が聞こえてくる。

 慌てて文具店の入り口を振り返ると、一人の女性がドアを開けて二人に笑いかけていた。

「あっ! えっと、その…」

 咄嗟のことで、何と言えばいいのか分からない。そんな真琴に、店長らしい女性は優しく頷いてくれた。

「今日も来ていたのね」

「あ、ごめんなさい!」

 漸く、大急ぎで頭を下げる。

 そんな真琴の後ろへと、弥生はすぐに隠れてしまった。人見知りの激しい彼女にとっては、逃げ出さずにいるだけで必死なのだ。

「気にしないでいいのよ。それより、暑いでしょ? 中に入って見た方がいいわ」

「え? いいんですか?」

 面白そうに頷く店長を見て、物怖じもせず真琴は店の中へと入っていった。

 何度も店先には来るが、声を掛けられたことも、店の中に入ったことも初めてなのだ。折角のチャンスを逃すような真琴ではなかった。

 ほんの少し迷っていたが、弥生も真琴の後に続く。そして、ぴったりと彼女から離れずに、一緒に店の中を歩き始めた。

 地元の子ども達に人気がありそうな、可愛い小物で棚は溢れている。それらにも興味はあったが、今、何よりも真琴の心を掴んでいるのは月面写真の方だった。

 店長が、そっとパネルを下ろしてくれる。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます!」

 思わず、声が弾んでしまう。そんな真琴の正直な口振りに、店長は楽しそうに笑い声を上げた。

「こんなに喜んでくれる人がいると知ったら、あの子も張り切るでしょうね」

 食い入るように写真を眺めていた真琴は、その言葉にぱっと顔を上げていた。

「あの、これは誰が撮ったんですか?」

「私の家に来てくれている、家庭教師の子なの。小学三年生の娘に、英語を教えてくれてるのよ」

「そうなんだぁ…あたし、てっきり大人の人が撮ってるんだと思ってた」

 家庭教師には大人もいるだろうが…真琴にしてみれば、家庭教師=大学生なのだ。

 大学生なら、こんな素敵な写真も撮れるかも知れない…

「二人とも、中学生?」

「はい、二年生です」

「この辺りでは見かけないわね。一週間置きに、何処に行ってるの?」

 どうやら、いつもいつも、見られていたらしい。この言葉には、流石の真琴も顔を赤くしてしまった。

「…図書館です」

「そうなの。じゃぁ、今日も行くのね」

「はい」

 そう答えた時、袖の辺りを少し後ろに引かれた。振り返らなくても分かる。弥生の勇気も、そろそろ限界なのだ。

「あの、あたし…」

 慌てて、真琴は周りの棚を見回した。何か買える物があればいいのだが…

 このまま出てしまうなど、真琴には絶対に許されない気がした。

「いいのよ、私が誘ったんだから」

 そんな真琴の仕草に、店長はくすくす笑い出している。

「でも…」

「いいの」

 優しい瞳に、真琴はそれ以上何も言わずに頭を下げていた。

 そして…厚かましいと思いながらも、小さな声で続ける。

「あの、また来てもいいですか?」

「えぇ、勿論よ」

「ありがとうございますっ!」

 再び勢いよく頭を下げると、真琴は名残惜しそうにパネルを渡した。

 歩み寄ったドアの前で、もう一度、写真に目を向ける。

 カランッ…

 その横を、先に弥生は外へと出てしまった。

「どうも、ありがとうございました」

「また来てね」

 その言葉に喜んで頷くと、真琴もドアを抜け、夏の陽光の中へと飛び出す。

 道の先に、少し俯いて待っている弥生を認めて、真琴は急いで駆け寄った。

「ごめんね、フォンちゃん。大丈夫?」

「…うん……私こそ…ごめんね…」

 もう少し、自分に勇気があれば……

 自らを責めている弥生に、真琴は明るい声で言った。

「そんなの、気にしてないよ。フォンちゃんは、絶対、悪いことなんてしないんだから。そんなに自分を苛めたらダメだよ」

「……ありがとう…」

 深い感謝を湛えながら、弥生は少し瞳を湿らせていた。

 そんな彼女に、にっこりと笑いかける…

 大きな優しさで、知らず弥生の心を抱き締めながら、真琴は彼女の手を取ると歩き出して言った。

「ほら、早く図書館に行こっ!」

 今日は、なんて素敵な日なんだろう。今日、この瞬間から、『何か』が始まろうとしているのだ……

 その予感は、はっきりと真琴の心の中で、黄金色に輝いていた。


 ………………………………………………………


 柔らかな月明かりが、窓際の机の上へと腕を伸ばしてくる。

 その斜光の澄んだ波に包まれながら、真琴は顔を俯せて、微かな寝息を立てていた。

 右手の指先は、今日借りてきたばかりの本に挟まれている。

 夢の中で、新しいページを捲りながら…

 ……だが、いつしかその映像は『過去』のページを遡っていた……


 懐かしい家並みが見えてくる。

 すぐ傍に川が流れる古びたマンションを見上げながら、一人、真琴は『何か』を待っていた。

 辺りを見回しても、少し先からは漆黒の闇で視界を遮られてしまっている。

 …一体、自分はここで、『何』を待っているのだろう………

(…あっ!)

 そうだ…自分は、ここで……

 真琴がその理由を想い出した瞬間、場面が一変してしまう。

 …部屋のドアを締め、ベッドに顔を押し付けた自分が見えている……

 まだ、小さい……小学三年生の自分が、…本当に辛くて…身を震わせて哭いているのだ………

 宙から見下ろすようにして、真琴は自分自身の姿を眺めながら瞳を濡らしていた。心臓が、胸の奥で強く握り潰される気がする……

 …痛くて…熱い……

「マコ! 晃君が折角来てくれたのよ?」

「マコちゃん…」

 怒っている母に続いて、『彼』の声が聞こえてくる…

 その声が、哀しそうで…とても哀しそうで……

 …だが、真琴は認めたくなかったのだ……

「入らないで! 勝手に引っ越すお兄ちゃんなんて、大嫌いっ!」

 自分でも、無理なことだと分かっている。どうしようもないことなのだと…

 だが…だが、大好きな晃のお兄ちゃんだからこそ、別れたくなかったのだ……

 ずっと…一緒に居て欲しい……勝手に引っ越しするなんて…お別れのプレゼントだなんて……

 酷いよ! …ずるいよ、お兄ちゃん……

「…ごめん、マコちゃん」

(謝らないでよ!)

 …『今』の自分が叫んでいる……

「…ここに、置いとくから……じゃぁ……」

 コトッ…と、小さな音がドアにぶつかる。

 少しずつ、遠ざかる足音……

「いやぁ! 持って帰ってぇっ! お兄ちゃんのバカぁぁ〜!」

 自分自身の絶叫が怖くて…真琴は、耳を押さえて体を丸めてしまった…

 再び…場面が変わる。

 マンションの大きな門に凭れながら…自分が、手の中の包みを握り締めて待っている……

 あの日、ぐずぐず鼻をいわせながらドアを開けると、そこには可愛いアルバムと手紙の入った封筒が置かれていた…だが、それを見ると、一層涙が溢れてくるのだ……とても、手紙など読めそうにない…

(晃のお兄ちゃんの、バカ…)

 結局、今朝になるまで、真琴には封を開けることも出来無かった……

 …そして、今…こうして、お返しを手にして待っている…

 包みの中には、小さな女の子のぬいぐるみが入っていた。真琴は、必死になって自分に似た姿のものを探したつもりなのだが…

「あっ…」

 取り巻く暗闇から、《光》が溢れ出してくる…黄金色の、温かな《光》……


 ………………………………………………………


「……!」

 耳元で鳴り響く目覚まし時計のベルに、真琴は思わず飛び上がってしまった。

 …触れるまでもなく、頬を濡らしているのが分かる……

 平日と同じ時刻にセットされていたベルを黙って止めると、真琴はじっと机の上を見詰め、身動き一つしなかった。

 どうして、『今』、こんな夢を見たのだろう……

 そう思った瞬間、堪えきれずに真琴は机に伏してしまった。

 ……声も上げず…だが、力一杯、泣き続ける……


 朝の日差しは、部屋の中を淡い漣で照らし出していく。

 悲痛な想いを包み込むように、そっと…そっと、《光》は真琴を抱き締めていた……

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