第一部 宝の小箱 10
夏が始まろうとしている。
陽光は激しく大地を灼き、その煌きは人の目に痛みさえもたらすようだ。黒く感じられるほどのこの蒼穹の下、聡美と由利は木陰に入って近付く夏休みについて話をしていた。
だが、その時不意に、由利が言葉を止めてしまう。
「ん? どうしたの? 由利」
珍しく、はっきりと分かるくらいに頬を上気させている。そんな由利の視線を追ってみると、その先では同じクラスの男の子が急いで背を向けているところだった。
「中川君じゃない……あぁっ! 由利! もしかして…」
「ち、違うわよ! あっちから手紙を……」
思わず零れ出た言葉を抑えるように、慌てて由利は口を塞いでいる。だが、しっかりと聞いてしまった聡美は、少し脹れて可愛く拗ねてみせた。
「何よ! そんな話、ちっともしてくれなかったじゃなぁい」
「だって、今朝もらったのよ? …まだ、自分でも何も考えてないし……」
身体を小さくしながら、由利は困ったように照れている。そんな仕草にぷっと噴き出すと、聡美は素直な喜びで声を弾ませながら微笑んだ。
「でも、気になってるんでしょ? ずっと、目で追いかけてることもあったじゃない」
「う、…ん…」
「中川君なら、きっと由利の素敵なところ、沢山分かってくれると思うよ」
「……」
以前のことが…寛とのことが思い出されて、積極的になれないのは良く分かる。
だが、少しだけ背中を押せば動いていける、そんな由利の強さも聡美は良く知っていた。
「ほら、らしくないじゃない。今度は由利が、新しく変わるのよ」
「……そうね…」
微かに呟かれただけなのだが、この一言で聡美はすっかり安心していた。例えどんなに小さな声でも、一度告げたことは決して裏切らない。それが由利の素敵なところの一つなのだ。
昼食の弁当を片付けるだけの余裕を見せながら、聡美は嬉しそうに言った。
「大丈夫よ、由利。今迄のお礼に、私だって、全力で応援するからね」
「ありがとう」
赤くなりながらも、由利が顔を上げてくれる。力強く聡美が頷いてみせると、由利もほっとしたように弁当箱を包み始めていた。
だが、その手が一瞬止まる。怪訝な表情で聡美が目を上げると、急に由利が悪戯っぽく片目を瞑ってきた。
「ほら、小林君が来るよ」
その一言は、聡美を飛び上がらせるのに十分だった。今度は、聡美の方が胸元まで赤く染めてしまう。
慌てて振り返ってみると、制服姿の陵史が真っ直ぐ自分の方へと歩いてくる。
どう見ても間違いない、聡美を目指しているのだ。
今迄に無い彼の行動にどうしようもなく焦りながら、聡美はそれでも急いで立ち上がっていた。
何も言えずに陵史を迎える聡美の横で、由利は手早く周りを片付けるとベンチを立っている。
「ちょっと…いいかな」
「え? あっ、…うん」
恥じらいながらもそっと囁き合う二人に、由利は笑いながら言った。
「じゃぁ、邪魔者は消えるね。どうぞ、ごゆっくり」
「由利!」
怒って振り上げてみせた手の先から、さっさと由利は逃げ出してしまう。校舎まで走って戻る親友の背中を、聡美はむくれながら見送っていた。
何だか、再び陵史の方へと顔を向けることが難しく思える。学校の外でなら、絶対に難しいなどとは思わないのだが……
熱くなる頬の下、それでも、必死に恥ずかしさを抑えて聡美は陵史を振り返っていた。
暫くの間、二人とも何も言わずに立ち尽くしてしまう。
陵史にしても、何から話を始めたらいいのか分からないのだ。珍しいそんな彼の迷いに気付くと、聡美は自分から小さく声を押し出していた。
「どうしたのよ…学校でなんて、今迄逢いに来てくれたこと、無かったのに…」
「……どうしても…すぐに、聡美に話したいことがあったんだ」
「え?」
その言葉がとても真剣で、深刻で…思わず、聡美は真っ直ぐに陵史の目を見上げていた。
「何なの?」
だが、陵史はまだ口にすることを躊躇っている。
結局、聡美の問いに、彼は直接答えようとはしなかった。
「…ちょっと、歩こうか」
そんなことを言って、先になって歩き始めている。
聡美も弁当箱の包みを手に取ると、急いでその後を追いかけた。
何だか、形にならない不安が、胸の中でほんの少しだけ鎌首を擡げようとしている。
だが…それをはっきりと意識する間も無く、温かな黄金色の光は《影》を飲み込んでくれた。
そう…何を不安になることなどあるだろう?
聡美は、今の二人が《本当》なのだと知っているのだ。
陵史は、一言も口にせず、人気の無い校庭の隅へと歩いていく。
近付く高いフェンスのすぐ先は、崖となって川まで下っており、その向こう岸からは遠くまでなだらかな斜面が伸びている。豊かな緑に囲まれた家々が立ち並び、小さな箱庭のように一つの町が一望に見渡せるのだ。
あの一つ一つの小さな家に、何人もの人が住み、毎日を精一杯生きている……
そんな想いに満たされるここは、聡美のお気に入りの場所でもあった。
陵史も、この一角が気に入っているらしい。そして、どうしても、そんな特別な場所で話したいことがあるのだろう…
だが、一体、何を…? 話なら、図書館でも構わないではないか…
「ねぇ…」
これ以上黙っていることに耐えられず、聡美は口を開いていた。
「どうしたのよ。陵史らしくないじゃない…」
その言葉に足を止めると、陵史は意を決して静かに声を押し出していた。
「…今度の夏休みに、引っ越すことになったんだ」
「えぇっ?」
あまりに突然のことで、何と言えばいいのか分からない。そんな聡美に背を向けたまま、淡々と陵史は続けようとしていた。
「…俺は、もっともっと多くのことを知りたい。…そして、そうやって集めた知識や文化を、子ども達に教えてあげたい……そう思っていた矢先だよ…
ずっと…この町で……そう思っていたんだけどね……」
「………」
「でも、親父の都合も分かるんだ。
だから…聡美。俺は、この町の大学に通わせることを条件に、引っ越しに賛成したんだよ……」
「……そんな…」
目を大きく見開いたまま、聡美は自分が声を出していることすら気付かなかった。
「…そんな…私……」
手紙も…電話だってある。それこそ、毎日声を聞くことも出来れば、貯金をして直接会いに行くことも出来るのだ…
だが、それが分かっていても、受けた衝撃は癒されなかった。
『彼』が転校してしまえば…
そう、今迄のような《偶然》も、全て叶わなくなってしまう……
「聡美……」
陵史は振り向くと、不安に満ちた瞳を覗き込んでくる。
聡美は逸らしもせず、真っ直ぐにその彼の視線を受け止めていた。
「聡美、《偶然》なんて無かったんだよ」
「……!」
「今なら、はっきりと断言出来る。俺達の『時間』は…《全て》が《必然》だったんだ。
だから…大丈夫。『出逢う時間』が来れば、俺達は必ず出逢えるんだよ。
…必ず……」
「陵史……」
瞳が濡れてくるのを、聡美は堪えようともしなかった…
…ただ……ただ、『彼』の眼差しを、受け止め続ける……
「俺は、絶対にこの町の……欅の風が光る、この町の大学に戻ってくるよ。
そして、卒業してから、この町の司書になる。だから……」
「うん…うん……
…私も、ここに……」
それ以上は、声にならない。
だが、その『言葉』を受け取って、陵史は続けていた。
「だから…また、今迄と同じように、この町で逢いたい……
そして…ずっと…………」
流石に、陵史もその先は口に出来そうになかった。
だが…分かっている……
…それは、いつも聡美自身が望んでいることではないか……
「ずっと…ずっと……一緒に…ね……?」
震える唇が紡ぎ出す囁きに、陵史は真剣な表情で力強く頷いてくれた。
喜びは、涙となって途切れることなく頬を伝い落ちていく。胸中に満ちる黄金色の光を確かに感じながら……聡美も、一つ、大きく頷いていた。
「…うん……!
……この町で、待ってる……絶対、待ってる……」
「ありがとう……」
次に気が付いた時には、聡美は『彼』の腕の中にしっかりと抱き締められていた。
なんて温かいのだろう…なんて、力強いのだろう……
「ありがとう…ありがとう…」
何度も何度も、呟きが漏れてくる。
その度に、腕の中で、聡美も小さく頷き続けていた……
『言葉』は《真》となり、風の腕に抱き上げられる。黄金の光は銀の輝きを身に呈し、『時間』の中へと織り込まれていく…
……そう…『時間』の中へと…………
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机の上のラジオから、聞き慣れた女性DJの声が流れ出してくる。
今日は、とても素敵なハガキを戴きました。
いつも、色々な悩みや問題に真摯に応えてくれる、常連の『欅通りの風遣い』君が、同じこの番組リスナーの『風の小道』さんと結婚されたそうです。おめでとう! 『宝の小箱』のリスナー同士が結ばれるなんて、とても凄いことだと思いませんか?
…本当に、幸せになって下さい。これからも、沢山のことが起こるでしょうけど、二人だからこそ、乗り越えられるものもあるんです。人間は、二人が一緒になってこそ、初めて『安心』を得るのかも知れません。《光》と《影》のようにね。
大丈夫。皆が、『欅通りの風遣い』君と『風の小道』さんを応援していますよ。
本当に、おめでとう!
白銀の風が、音と化して通り過ぎていく。
何処までも……何処までも…………
第一部『宝の小箱』おわり
胸の小匣は宝箱
『夢』と『力』を育みし
金銀鏤む《無限》の舟
誰が其の鍵もたらすぞ
誰が夫の鑰もたらすぞ…