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宝の小箱  作者: くまミニ
1/22

第一部 宝の小箱 1

 私は、時々思う事があります。

 ……『時間』は、私に何を残してくれたんだろう。

 ……『時間』に、私は何を残せたんだろう…

 って……


 ……………………………………………………


「う〜ん。まだ、ちょっと寒かったかなぁ」

 軽く体を震わせると、聡美はセーターの袖口を頬に押し当てていた。

 毛糸の肌触りが、心地好い。

 昼間は雲一つ見えない小春日和であったとはいえ、今はまだ一月の始めなのだ。日が暮れてしまえば、高台にあるこのマンションなど、すぐに冷気に包まれてしまう。幸い、聡美が立つ小さなベランダに届けられるのは、僅かなそよ風だけだったが。

 遠くまで広がる無数の灯りの群れを眺めながら、肩口で切り揃えた髪の毛を無意識に指先で遊ばせる。

 いや、本当はその町の煌きすら、視てはいないのだ。

 聡美の心の中には、つい先程聞いたばかりのラジオの言葉が繰り返されている。幾度も、幾度も…女性DJの声が、胸の奥で密やかに流れ続けている…

「……『時間とき』は、私に何を残してくれたんだろう」

 『時間』に、私は何を残せたんだろう………

 白い吐息が、闇の中へと溶け込んでいく。聡美はベランダの手摺りに頬杖をつくと、漆黒の夜空へと目を向けた。

 清澄な冬の大気の彼方で、金星が文字通り黄金色に輝いている。静かに瞬く星屑を背にした、その一際目映い光点から、聡美の大きな瞳は暫く動こうとはしなかった。

(なんて綺麗なんだろう…)

 ぼんやりとした考えが浮かぶが、本当はそんなことを感じているわけではない。その美しい光の奥に、遥かな『時間』が見えてくるのだ……

 ふっ…と、宵の明星がぼやけてくる。

「…あっ……」

 大きな麦藁帽子が見えてくる。夏の光に縁取られたその影から、男の子が振り返ってくれる…

 知らず、頬が染め上げられていく。…そう、あのDJの一言が心を巡るのも、全て彼のせいなのだ……

「おい、聡美! お前、何してるんだよ」

 不意に、背後から兄の声が飛び込んでくる。あの男の子の姿を見られた気がして、慌てて……そして、『夢』を途中で破られた腹立たしさと共に、聡美は口を尖らせると振り向いて言った。

「何よ! お兄ちゃんこそ、勝手に女の子の部屋に入って来ないでよね」

「悪かったな。お前に貸したペンを…あっ、これだ。これを返してもらいに来たんだよ。持っていくぞ」

「どうぞ!」

 机の上に置いてあったペンを手にすると、兄はそのまま部屋を出ていこうとする。だが、ドアを抜ける直前、急に足を止めると真剣な顔で聡美を振り返ってきた。

「聡美。俺は受験生だから勉強しろ、なんて言わない。だけどな、風邪だけは引くなよ。ベランダに出るなら、もっと何かを着ろ」

「…うん、分かった」

 そっと、音も無くドアが閉じられる。

 時々、聡美には兄が意地悪なのか優しいのか分からなくなる。一人っ子の由利は「とっても優しいじゃない」と言ってくるが、聡美には素直に頷くことなど出来ない。

「あ〜ぁ、……お兄ちゃんの、バカ!」

 ベランダに続く窓を締めると、ベッドの上に寝転がってしまう。何だか、とても大切なものを壊された気がして、聡美はふて腐れていた。

 白い壁紙の貼られた天井で、蛍光灯が柔らかな光を放っている。乳白色の化粧カバー越しに弱められた淡い光は、天井に微かな陰影の漣を描いて広がっていた。

 …いつしか、兄のことなど忘れてしまう。

 胸の中の困惑は深い光の淵に波を静め、再び、聡美は過去の『時間』へと想いを寄せていた………


 ……………………………………………………


「どうしたの、聡美ちゃん。今日は、随分と大人しいのね」

 冷えた水をコップに注ぎながら、『ブルーノ』の店長は聡美に話し掛けていた。

「うん…」

 昼過ぎで誰も居ない、小さな喫茶店の中で、聡美はカウンターに頬杖をついている。そんな少女へと水を差し出しながら、店長も隣に腰掛けて待ち続けた。

 店長の児島のおばさんは、聡美の母の義妹になる。聡美は小さな頃からこのおばさんが大好きで、『ブルーノ』を始めてからは由利と一緒に常連客の一人にもなっていた。

 喫茶店は短大の正門脇にあるので、客足が鈍ることは少ない。だが、今日のような夏休みには空き時間も生まれ、そこを狙って立ち寄るのが聡美の楽しみでもあったのだ。

「…あのね、今日、由利が告白されたの」

「あら、良かったじゃない」

「そう、良かったの。だって、由利もその男の子のこと、好きだったんだもん」

 全然良かったことではないかのように話す聡美に、ふっと頬を緩めると、店長は尋ねてきた。

「で、どうして拗ねてるの?」

「私、拗ねてなんかない!」

 可愛く口を尖らせると、一気に水を飲み干してしまう。そんな彼女の仕草は、中学三年生よりもずっと年下の子どもを想像させる。

「拗ねてるわよ。ほらほら、白状しなさい」

 こつんっと額を小突かれて、ますます聡美は頬を脹らませてしまった。

 だが、勿論、聡美自身も話しておきたかったのだ。その為に、この店まで来たのだから。

「…だって、由利、とってもはしゃいでるんだもん。私との約束だって、後回しにするのよ? ほんと、嫌になっちゃう」

 真夏の強い日差しも薄いレースで弱められ、店の中にはあちこち暗がりが見えている。人の心に落ち着きをもたらす淡い闇を背景に、店長は静かに頷くと言った。

「それで、恋愛をしてみたくなった?」

「う、ん……分かんない…」

 あやふやな表情で俯いてしまう。

「でも、いいなぁ、って思ったんじゃない?」

「……」

 じっと、水の無くなったコップから目を放さない。

 少し間を置いた後で、店長はそんな聡美に続けていた。

「聡美ちゃんは、誰か好きな人がいるの?」

「ううん!」

 大きく頭を振ると、聡美は児島のおばさんを見上げて言った。

「だって…私なんて生意気だし、勉強だって出来ないんだもん。誰も、好きになんてなってくれないよぉ」

 強い口調で語る聡美に、だが店長は優しく微笑むとそっと言葉を遮った。

「違うの。聡美ちゃんには、誰か好きな人はいないの? って訊いたのよ」

「…いない」

 がくっと首を落としてしまう聡美に、店長はくすくすと笑い出していた。

「もう! 笑わないでよ」

「ごめんなさい。

 でも、聡美ちゃん。もっと、自分を認めてあげなくちゃ。聡美ちゃんは、とっても可愛いわよ。絶対、誰かに《本当》に『好き』になってもらえるわ」

 大好きなおばさんの言葉に、少し頬を赤らめてしまう。

 だが、すぐに聡美は首を左右に振っていた。

「ダメよ。竹田君や笹木君なんて、私のこと、ただの友達だと思ってるもん。私だって、そうとしか思えないのよ」

「焦って人を好きになる必要なんてないわ。『好き』な気持ちを、少しずつ、胸の中で育てていけばいいの…

 そうしたらね、きっと分かるわ。

 私は、この人を『好き』になるんだ、って……」

「それって…おばさんもそうだったの?」

 微かに見えた光に、聡美は思わず勢いよく尋ねてしまった。身を乗り出す姪の様子に柔らかな笑い声を上げると、店長は口を開いて……

 カランッ…コロンッ……

 突然、ゆったりとした鐘の音が響き渡る。ドアが開く小さな軋みにびくっと体を震わせると、聡美はカウンターの席に座り直していた。

「…構いませんか?」

 男の子の声がする。まだ子どもらしさが残るのに、どこか大人びている、そんな声だ。

「えぇ、いらっしゃい」

 慌てて立ち上がる店長を追って、聡美はこの迷惑な客を睨もうとした。

 だが、カウンター越しの暗がりばかり見詰めていたので、逆光の中では黒い影しか見えてこない。仕方がないので、それでも、取り敢えず聡美は不満の表情を頬に映しておいた。

「何にしますか?」

「すぐに作れるものはありますか? ずっと外を歩いていて、まだ何も食べてないんです」

 遠慮がちな言葉までが癪に障り、聡美は再び視線をカウンターに戻してしまった。

「サンドイッチくらいなら、すぐに出来ますけど」

「じゃぁ、それでお願いします」

 急ぎ足で戻ってくると、店長はパンを切り始めている。

(もう! 折角の話も台無しじゃない)

 喫茶店である以上、当然の仕事なのだが…

 その台無しにした張本人をもう一度振り返ってみると、彼は一気にコップの中身を飲み干しているところだった。見ていると、脇に抱えていた黒いケースと幾枚かの紙を隣の席に置き、頭からは麦藁帽子を外している。

(何よ。今時、麦藁帽子なんて)

 漸くはっきりと見えてきた様子からすると、自分よりも少しだけ年上だろうか。高校生くらいだろう。これほどまで腹を立てていなければ、少しくらいは格好良いと思ったかも知れない。

 だが、今は、聡美はこの男の子の全てが気に入らなかった。

「ごめんなさい、聡美ちゃん。水を持っていってあげてくれない?」

 空になったコップが目に入ったのだろう。どんなに嫌な事でも、おばさんの頼みなら断れない。

「はーい」

 唇を尖らせながらも、綺麗な陶器の水差しを手にして聡美は立ち上がっていた。わざと少しだけ視線を逸らせながら、客のテーブルへと近付いていく。

「ありがとう」

 水差しを渡すと、にこっと柔らかな笑みが返ってくる。思わずその優しい笑顔に吸い込まれ、もう少しで聡美は怒りを忘れるところだった。

 余程、喉が渇いていたのだろう。氷を残して、瞬く間に三杯の水を飲んでしまう。

 そんな男の子の様子を、何故か立ち去れずに聡美は黙って見詰め続けていた。


 漸く人心地がついた男の子は、まだ傍らに立っている聡美に気付くと、恥ずかしそうな顔をして言ってきた。

「ずっと、朝から歩き続けてたから…済みません」

「え? あっ、いえ、別に…」

 男の子は、何杯も口にした水の事を気にしているのだ。だが、自分はそんな些末な事で不機嫌になっているわけではない。

 慌てた聡美が話し出す前に、だが男の子は先に口を開いていた。

「それに、何かの話の途中だったんでしょう?」

 そう、そうなのだ。

 だが、こうもはっきりと言われてしまうと、何と応えればいいのか分からない。

 …何だか、落ち着かない。

「いいんですよ。たいした事じゃありませんから」

 突然の店長の声に、聡美はもう少しで叫びそうになってしまった。すっかり、おばさんの存在を忘れていたのだ。

(…たいした事だわ!)

 サンドイッチの並んだ皿を出す店長を見ながら、そうは思ったものの…

 正直に、聡美はほっとしていた。

 男の子は水にだけでなく、食べ物にも飢えていたようだ。二人が遠慮無く見守る中で、ぱっぱっ、と見る間にパンが消えていく。

「この図面の為に、ずっと歩いていたの?」

 店長もこの客に興味があるらしく、隣の席に腰掛けている。何しろ、ここは短大生以外の客は聡美や由利くらいなのだ。一見など、珍しい。

 店長の横、男の子から離れた所に腰掛けながら、聡美も指差された椅子の上を覗き込もうとした。だが、間に席が二つもあれば見えるはずもない。

 客である男の子は急いでサンドイッチを飲み込むと、聡美にも見えるように紙をテーブルの上に置いてくれた。

 見れば、その紙には『ブルーノ』周辺の地図が描かれている。他にも、図面は何枚かあるらしい。どれも縮尺は大きく、敷地の中には名前や家の大まかな形までが書き込まれていた。ついさっきまで書いていたらしい一番上の地図には、正誤のチェックが入っている。

「夏休みの間、こんな風に図面の変更点を書き込むアルバイトをしてるんです。本来なら、中学生は雇ってもらえないんですが、僕の叔父が人手が足りないからどうしても、って…」

「あなた、中学生なの?」

 驚いて叫んでしまった聡美に、彼は不思議そうな面持ちで頷く。

「えぇ、中学三年生です」

「……!」

 落ち着いて答えるその雰囲気は、どう見ても自分よりも年上のものだ。

「受験勉強の方は、大丈夫なの?」

 決まり文句であるかのように尋ねる店長に、彼は静かな笑みを浮かべて答えていた。

「何とかなると思います。やっぱり、高校くらいは行かないと、子ども達に何も教える事なんて出来ませんから」

「子ども達?」

 聡美は、店長と互いにきょとんとした表情で顔を見合わせていた。そんな二人の前で水を僅かに口に含むと、彼は静かな声で続けてくる。

「僕は小さな子どもが大好きなんです。可愛いところも、醜いところも…全部含めて、大好きなんです。

 それに、絵本や童話、ファンタジーといった児童文学も好きだから、将来はそんな方向の仕事に就いてみたいな、って…」

 少し遠くを見ながら、だがしっかりとした口調で彼は言葉を紡いでいる。その瞳の中には真摯な光が宿り、聡美は思わず眩しそうに目を細めてしまった。

 なんて綺麗な瞳だろう……

(きっと…)

 そう、彼には、その『仕事』が見えているのだ。

「ずっと思ってたんですよ。小さな頃から。沢山ある中で、どの道を進む事になるのかは分からないけど…今は、司書になって図書館で働きたいと思ってます。図書館で子ども達に素敵な本を読んであげたいんですよ」

「そんなことまで、考えてるの?」

 自信に満ちた彼の言葉に、思わず聡美は尋ねていた。

「変ですか?」

 逆に、彼は真面目な顔で問い返してくる。聡美は答えに窮し、身を引いてしまった。

(だって…)

 自分は、将来についてそこまで考えたことなど無いのだ。何かをしたいから高校に進学するのではなく、ただ皆がいくから進むのだ。その先を尋ねられても、ただ会社で働くのかな、っとその程度でしかない。だいたい、それにしても、根拠があるわけではなかった。

 ましてや、自分自身の願いや夢があるはずもない。

 …同じ中学三年生なのに、彼が随分と大きく、高い存在に思えてしまう。

 店長は、客の彼とアルバイトについて話を続けている。だが、聡美はその間もずっと心の中を彷徨い歩き、殆ど何も聞いてはいなかった。

「じゃぁ、アルバイト、頑張ってね。またこの辺りに来ることがあったら、寄ってちょうだい」

「はい」

 ふと気付けば、店長が彼を送り出している。

(え?)

 慌てて立ち上がった聡美に、彼は一度、優しく笑い掛けてくれた。

 思わず動きを止めてしまった聡美の前から、そのまま、柔らかな微笑みは真夏の光の中へと歩き去ってしまう……

(あ〜ぁ…行っちゃった…)

 もう少し、彼と話をしたかった。もっと、もっと沢山、知りたかったのだ。

 きっと、彼は自分の思いもしない事まで考えているのだろう。

 だが……逆に、それは同じ年齢に於ける二人の《差》を拡げることにもなってしまう……

「さてと…」

 ぼんやり立ち尽くしている聡美をちらっと一瞥しながら、わざと大きく溜め息を吐く。そんな店長の声に我に返ると、聡美は急いでカウンターの上の鞄を手にしていた。

「おばさん、ごめんなさい! また、来るわ」

「聡美ちゃん?」

 驚く声にも振り返らず、バタンッ! と大きな音を立てて、聡美は飛び出してしまった。

「…自信を無くさなきゃいいけど……」

 悩み、深く考えることは大切だが、それは自身を見失う為のものではない。例え、一時期『個』を見失ったとしても、それは《本当》の『自分』を見つける為の、足掛かりであるべきなのだ。

 目映い光に照らされた、聡美の小さな背中を見送りながら…店長は少し不安げに額を曇らせていた。

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