第一部 宝の小箱 1
私は、時々思う事があります。
……『時間』は、私に何を残してくれたんだろう。
……『時間』に、私は何を残せたんだろう…
って……
……………………………………………………
「う〜ん。まだ、ちょっと寒かったかなぁ」
軽く体を震わせると、聡美はセーターの袖口を頬に押し当てていた。
毛糸の肌触りが、心地好い。
昼間は雲一つ見えない小春日和であったとはいえ、今はまだ一月の始めなのだ。日が暮れてしまえば、高台にあるこのマンションなど、すぐに冷気に包まれてしまう。幸い、聡美が立つ小さなベランダに届けられるのは、僅かなそよ風だけだったが。
遠くまで広がる無数の灯りの群れを眺めながら、肩口で切り揃えた髪の毛を無意識に指先で遊ばせる。
いや、本当はその町の煌きすら、視てはいないのだ。
聡美の心の中には、つい先程聞いたばかりのラジオの言葉が繰り返されている。幾度も、幾度も…女性DJの声が、胸の奥で密やかに流れ続けている…
「……『時間』は、私に何を残してくれたんだろう」
『時間』に、私は何を残せたんだろう………
白い吐息が、闇の中へと溶け込んでいく。聡美はベランダの手摺りに頬杖をつくと、漆黒の夜空へと目を向けた。
清澄な冬の大気の彼方で、金星が文字通り黄金色に輝いている。静かに瞬く星屑を背にした、その一際目映い光点から、聡美の大きな瞳は暫く動こうとはしなかった。
(なんて綺麗なんだろう…)
ぼんやりとした考えが浮かぶが、本当はそんなことを感じているわけではない。その美しい光の奥に、遥かな『時間』が見えてくるのだ……
ふっ…と、宵の明星がぼやけてくる。
「…あっ……」
大きな麦藁帽子が見えてくる。夏の光に縁取られたその影から、男の子が振り返ってくれる…
知らず、頬が染め上げられていく。…そう、あのDJの一言が心を巡るのも、全て彼のせいなのだ……
「おい、聡美! お前、何してるんだよ」
不意に、背後から兄の声が飛び込んでくる。あの男の子の姿を見られた気がして、慌てて……そして、『夢』を途中で破られた腹立たしさと共に、聡美は口を尖らせると振り向いて言った。
「何よ! お兄ちゃんこそ、勝手に女の子の部屋に入って来ないでよね」
「悪かったな。お前に貸したペンを…あっ、これだ。これを返してもらいに来たんだよ。持っていくぞ」
「どうぞ!」
机の上に置いてあったペンを手にすると、兄はそのまま部屋を出ていこうとする。だが、ドアを抜ける直前、急に足を止めると真剣な顔で聡美を振り返ってきた。
「聡美。俺は受験生だから勉強しろ、なんて言わない。だけどな、風邪だけは引くなよ。ベランダに出るなら、もっと何かを着ろ」
「…うん、分かった」
そっと、音も無くドアが閉じられる。
時々、聡美には兄が意地悪なのか優しいのか分からなくなる。一人っ子の由利は「とっても優しいじゃない」と言ってくるが、聡美には素直に頷くことなど出来ない。
「あ〜ぁ、……お兄ちゃんの、バカ!」
ベランダに続く窓を締めると、ベッドの上に寝転がってしまう。何だか、とても大切なものを壊された気がして、聡美はふて腐れていた。
白い壁紙の貼られた天井で、蛍光灯が柔らかな光を放っている。乳白色の化粧カバー越しに弱められた淡い光は、天井に微かな陰影の漣を描いて広がっていた。
…いつしか、兄のことなど忘れてしまう。
胸の中の困惑は深い光の淵に波を静め、再び、聡美は過去の『時間』へと想いを寄せていた………
……………………………………………………
「どうしたの、聡美ちゃん。今日は、随分と大人しいのね」
冷えた水をコップに注ぎながら、『ブルーノ』の店長は聡美に話し掛けていた。
「うん…」
昼過ぎで誰も居ない、小さな喫茶店の中で、聡美はカウンターに頬杖をついている。そんな少女へと水を差し出しながら、店長も隣に腰掛けて待ち続けた。
店長の児島のおばさんは、聡美の母の義妹になる。聡美は小さな頃からこのおばさんが大好きで、『ブルーノ』を始めてからは由利と一緒に常連客の一人にもなっていた。
喫茶店は短大の正門脇にあるので、客足が鈍ることは少ない。だが、今日のような夏休みには空き時間も生まれ、そこを狙って立ち寄るのが聡美の楽しみでもあったのだ。
「…あのね、今日、由利が告白されたの」
「あら、良かったじゃない」
「そう、良かったの。だって、由利もその男の子のこと、好きだったんだもん」
全然良かったことではないかのように話す聡美に、ふっと頬を緩めると、店長は尋ねてきた。
「で、どうして拗ねてるの?」
「私、拗ねてなんかない!」
可愛く口を尖らせると、一気に水を飲み干してしまう。そんな彼女の仕草は、中学三年生よりもずっと年下の子どもを想像させる。
「拗ねてるわよ。ほらほら、白状しなさい」
こつんっと額を小突かれて、ますます聡美は頬を脹らませてしまった。
だが、勿論、聡美自身も話しておきたかったのだ。その為に、この店まで来たのだから。
「…だって、由利、とってもはしゃいでるんだもん。私との約束だって、後回しにするのよ? ほんと、嫌になっちゃう」
真夏の強い日差しも薄いレースで弱められ、店の中にはあちこち暗がりが見えている。人の心に落ち着きをもたらす淡い闇を背景に、店長は静かに頷くと言った。
「それで、恋愛をしてみたくなった?」
「う、ん……分かんない…」
あやふやな表情で俯いてしまう。
「でも、いいなぁ、って思ったんじゃない?」
「……」
じっと、水の無くなったコップから目を放さない。
少し間を置いた後で、店長はそんな聡美に続けていた。
「聡美ちゃんは、誰か好きな人がいるの?」
「ううん!」
大きく頭を振ると、聡美は児島のおばさんを見上げて言った。
「だって…私なんて生意気だし、勉強だって出来ないんだもん。誰も、好きになんてなってくれないよぉ」
強い口調で語る聡美に、だが店長は優しく微笑むとそっと言葉を遮った。
「違うの。聡美ちゃんには、誰か好きな人はいないの? って訊いたのよ」
「…いない」
がくっと首を落としてしまう聡美に、店長はくすくすと笑い出していた。
「もう! 笑わないでよ」
「ごめんなさい。
でも、聡美ちゃん。もっと、自分を認めてあげなくちゃ。聡美ちゃんは、とっても可愛いわよ。絶対、誰かに《本当》に『好き』になってもらえるわ」
大好きなおばさんの言葉に、少し頬を赤らめてしまう。
だが、すぐに聡美は首を左右に振っていた。
「ダメよ。竹田君や笹木君なんて、私のこと、ただの友達だと思ってるもん。私だって、そうとしか思えないのよ」
「焦って人を好きになる必要なんてないわ。『好き』な気持ちを、少しずつ、胸の中で育てていけばいいの…
そうしたらね、きっと分かるわ。
私は、この人を『好き』になるんだ、って……」
「それって…おばさんもそうだったの?」
微かに見えた光に、聡美は思わず勢いよく尋ねてしまった。身を乗り出す姪の様子に柔らかな笑い声を上げると、店長は口を開いて……
カランッ…コロンッ……
突然、ゆったりとした鐘の音が響き渡る。ドアが開く小さな軋みにびくっと体を震わせると、聡美はカウンターの席に座り直していた。
「…構いませんか?」
男の子の声がする。まだ子どもらしさが残るのに、どこか大人びている、そんな声だ。
「えぇ、いらっしゃい」
慌てて立ち上がる店長を追って、聡美はこの迷惑な客を睨もうとした。
だが、カウンター越しの暗がりばかり見詰めていたので、逆光の中では黒い影しか見えてこない。仕方がないので、それでも、取り敢えず聡美は不満の表情を頬に映しておいた。
「何にしますか?」
「すぐに作れるものはありますか? ずっと外を歩いていて、まだ何も食べてないんです」
遠慮がちな言葉までが癪に障り、聡美は再び視線をカウンターに戻してしまった。
「サンドイッチくらいなら、すぐに出来ますけど」
「じゃぁ、それでお願いします」
急ぎ足で戻ってくると、店長はパンを切り始めている。
(もう! 折角の話も台無しじゃない)
喫茶店である以上、当然の仕事なのだが…
その台無しにした張本人をもう一度振り返ってみると、彼は一気にコップの中身を飲み干しているところだった。見ていると、脇に抱えていた黒いケースと幾枚かの紙を隣の席に置き、頭からは麦藁帽子を外している。
(何よ。今時、麦藁帽子なんて)
漸くはっきりと見えてきた様子からすると、自分よりも少しだけ年上だろうか。高校生くらいだろう。これほどまで腹を立てていなければ、少しくらいは格好良いと思ったかも知れない。
だが、今は、聡美はこの男の子の全てが気に入らなかった。
「ごめんなさい、聡美ちゃん。水を持っていってあげてくれない?」
空になったコップが目に入ったのだろう。どんなに嫌な事でも、おばさんの頼みなら断れない。
「はーい」
唇を尖らせながらも、綺麗な陶器の水差しを手にして聡美は立ち上がっていた。わざと少しだけ視線を逸らせながら、客のテーブルへと近付いていく。
「ありがとう」
水差しを渡すと、にこっと柔らかな笑みが返ってくる。思わずその優しい笑顔に吸い込まれ、もう少しで聡美は怒りを忘れるところだった。
余程、喉が渇いていたのだろう。氷を残して、瞬く間に三杯の水を飲んでしまう。
そんな男の子の様子を、何故か立ち去れずに聡美は黙って見詰め続けていた。
漸く人心地がついた男の子は、まだ傍らに立っている聡美に気付くと、恥ずかしそうな顔をして言ってきた。
「ずっと、朝から歩き続けてたから…済みません」
「え? あっ、いえ、別に…」
男の子は、何杯も口にした水の事を気にしているのだ。だが、自分はそんな些末な事で不機嫌になっているわけではない。
慌てた聡美が話し出す前に、だが男の子は先に口を開いていた。
「それに、何かの話の途中だったんでしょう?」
そう、そうなのだ。
だが、こうもはっきりと言われてしまうと、何と応えればいいのか分からない。
…何だか、落ち着かない。
「いいんですよ。たいした事じゃありませんから」
突然の店長の声に、聡美はもう少しで叫びそうになってしまった。すっかり、おばさんの存在を忘れていたのだ。
(…たいした事だわ!)
サンドイッチの並んだ皿を出す店長を見ながら、そうは思ったものの…
正直に、聡美はほっとしていた。
男の子は水にだけでなく、食べ物にも飢えていたようだ。二人が遠慮無く見守る中で、ぱっぱっ、と見る間にパンが消えていく。
「この図面の為に、ずっと歩いていたの?」
店長もこの客に興味があるらしく、隣の席に腰掛けている。何しろ、ここは短大生以外の客は聡美や由利くらいなのだ。一見など、珍しい。
店長の横、男の子から離れた所に腰掛けながら、聡美も指差された椅子の上を覗き込もうとした。だが、間に席が二つもあれば見えるはずもない。
客である男の子は急いでサンドイッチを飲み込むと、聡美にも見えるように紙をテーブルの上に置いてくれた。
見れば、その紙には『ブルーノ』周辺の地図が描かれている。他にも、図面は何枚かあるらしい。どれも縮尺は大きく、敷地の中には名前や家の大まかな形までが書き込まれていた。ついさっきまで書いていたらしい一番上の地図には、正誤のチェックが入っている。
「夏休みの間、こんな風に図面の変更点を書き込むアルバイトをしてるんです。本来なら、中学生は雇ってもらえないんですが、僕の叔父が人手が足りないからどうしても、って…」
「あなた、中学生なの?」
驚いて叫んでしまった聡美に、彼は不思議そうな面持ちで頷く。
「えぇ、中学三年生です」
「……!」
落ち着いて答えるその雰囲気は、どう見ても自分よりも年上のものだ。
「受験勉強の方は、大丈夫なの?」
決まり文句であるかのように尋ねる店長に、彼は静かな笑みを浮かべて答えていた。
「何とかなると思います。やっぱり、高校くらいは行かないと、子ども達に何も教える事なんて出来ませんから」
「子ども達?」
聡美は、店長と互いにきょとんとした表情で顔を見合わせていた。そんな二人の前で水を僅かに口に含むと、彼は静かな声で続けてくる。
「僕は小さな子どもが大好きなんです。可愛いところも、醜いところも…全部含めて、大好きなんです。
それに、絵本や童話、ファンタジーといった児童文学も好きだから、将来はそんな方向の仕事に就いてみたいな、って…」
少し遠くを見ながら、だがしっかりとした口調で彼は言葉を紡いでいる。その瞳の中には真摯な光が宿り、聡美は思わず眩しそうに目を細めてしまった。
なんて綺麗な瞳だろう……
(きっと…)
そう、彼には、その『仕事』が見えているのだ。
「ずっと思ってたんですよ。小さな頃から。沢山ある中で、どの道を進む事になるのかは分からないけど…今は、司書になって図書館で働きたいと思ってます。図書館で子ども達に素敵な本を読んであげたいんですよ」
「そんなことまで、考えてるの?」
自信に満ちた彼の言葉に、思わず聡美は尋ねていた。
「変ですか?」
逆に、彼は真面目な顔で問い返してくる。聡美は答えに窮し、身を引いてしまった。
(だって…)
自分は、将来についてそこまで考えたことなど無いのだ。何かをしたいから高校に進学するのではなく、ただ皆がいくから進むのだ。その先を尋ねられても、ただ会社で働くのかな、っとその程度でしかない。だいたい、それにしても、根拠があるわけではなかった。
ましてや、自分自身の願いや夢があるはずもない。
…同じ中学三年生なのに、彼が随分と大きく、高い存在に思えてしまう。
店長は、客の彼とアルバイトについて話を続けている。だが、聡美はその間もずっと心の中を彷徨い歩き、殆ど何も聞いてはいなかった。
「じゃぁ、アルバイト、頑張ってね。またこの辺りに来ることがあったら、寄ってちょうだい」
「はい」
ふと気付けば、店長が彼を送り出している。
(え?)
慌てて立ち上がった聡美に、彼は一度、優しく笑い掛けてくれた。
思わず動きを止めてしまった聡美の前から、そのまま、柔らかな微笑みは真夏の光の中へと歩き去ってしまう……
(あ〜ぁ…行っちゃった…)
もう少し、彼と話をしたかった。もっと、もっと沢山、知りたかったのだ。
きっと、彼は自分の思いもしない事まで考えているのだろう。
だが……逆に、それは同じ年齢に於ける二人の《差》を拡げることにもなってしまう……
「さてと…」
ぼんやり立ち尽くしている聡美をちらっと一瞥しながら、わざと大きく溜め息を吐く。そんな店長の声に我に返ると、聡美は急いでカウンターの上の鞄を手にしていた。
「おばさん、ごめんなさい! また、来るわ」
「聡美ちゃん?」
驚く声にも振り返らず、バタンッ! と大きな音を立てて、聡美は飛び出してしまった。
「…自信を無くさなきゃいいけど……」
悩み、深く考えることは大切だが、それは自身を見失う為のものではない。例え、一時期『個』を見失ったとしても、それは《本当》の『自分』を見つける為の、足掛かりであるべきなのだ。
目映い光に照らされた、聡美の小さな背中を見送りながら…店長は少し不安げに額を曇らせていた。