67th BASE
お読みいただきありがとうございます。
明日は今シーズン最後の野球観戦に行ってきます。
最後まで気合を入れて声援を送っていきたいと思います。
(飛んできた。捕らなきゃ……)
洋子が打球を追いかけようとする。これをアウトにすれば無失点。だが……。
(あ、足がものすごく重たい)
洋子の足の運びが明らかに鈍い。突然の変調。実は一旦気持ちが途切れたことが、体全体の動きの低下に繋がってしまっていた。
「洋子、もっと左!」
懸命に走っているのに、落下地点に近づけない。内野陣が必死にボールの位置を伝えるも、それが却ってプレッシャーとなり、洋子の走るスピードは益々遅くなる。
(やばい。このままじゃまた……)
「オーライ! オーライ!」
その時、一人の声が洋子の足を止めた。声の主はセンターの晴香だ。
「アウト。チェンジ」
晴香は地面に打球が地面に着きそうかというところでランニングキャッチする。間一髪ではあったが、これでスリーアウト。二者残塁となり、教知大に得点は入らなかった。
「あ、ありがとうございます」
「大丈夫よ。ベンチに戻りましょう」
「はい……」
洋子は晴香の背中に身を隠しながらベンチへと戻っていく。背徳感や居た堪れなさ、加えて自分に対する失望に近い感情が胸に渦巻き、前を向いて走ることができない。
「ナイセンター!」
「ありがとう。さあ、まだまだ点を取っていきましょう」
「おー!」
四回裏、攻撃前の円陣が解ける。洋子はベンチの隅に座り込み、頭を抱えて俯くばかりだった。
「はあ……」
洋子は胸の奥から大きな吐息を漏らす。レギュラーを死守するため、少しでもアピールしなければならない試合なのに、結果は散々。チームの足を引っ張ってばかりだ。これではレギュラーに選ばれるわけがない。洋子の心は、完全に折れていた。
「木場くん、洋子はもう代えた方が良いんじゃないか? 確実に参ってるぞ」
「うーん、そうですねえ……」
抜け殻状態の洋子を見て、隆浯は眉間に皺を寄せる。ここ最近、洋子の打撃の調子が芳しくないことは隆浯も心配していた。一方で日に日に成長していく紗愛蘭の野球センスの高さに魅入られ、二人の入れ替えを考えていたのも事実だ。それでも何とか奮起してほしいと思い、今日は一試合目に洋子をスタメン起用した。それがこれほどの惨状を引き起こしてしまうとは。隆浯としても想定外である。
「やむを得ないか……」
これ以上プレーを続けさせるのは酷でしかない。そう判断した隆浯は、もう一度洋子の方に目をやる。ところがその視線の先には、洋子の前に立つ空の姿があった。
「おい、何隅っこでコソコソしてんだよ」
「え?」
誰も洋子に触れることができない中、空は唯一声を掛けた。
「そ、空さん……」
咄嗟に顔を上げる洋子だったが、すぐに目を泳がせ、下を向いてしまう。自らの犯した失態を思い出すと、空のことを直視できなかった。ベンチの雰囲気も一気に険悪になり、隆浯や周りにいる者たちは、固唾を呑んで二人を見守る。
「ああもう、めんどくさいなあ!」
すると空は右手で洋子の胸座を掴み、無理矢理立ち上がらせた。いきなりのことに洋子は肩をびくつかせ、反射的に空と目が合う。
空が洋子の顔をこちらに引き寄せる。その目つきはとても鋭く、見るからに怒りが籠っていたが、それとは別の何かも混じっているように感じられる。空の気迫に押され、洋子は目を逸らしたいと思ってもできなかった。
「何一人で不貞腐れてんだよ。もう私の出番は終わったとかでも思ってんのか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「じゃあ何だ? 三振してエラーして、結果出なくてしょげてんのか?」
「うっ……」
図星を突かれ、洋子は口を噤む。といってもそんなことは他の人間にも察知できており、敢えて指摘しなかっただけのこと。ただ空はどうしても、その態度に我慢できなかった。
「自分に対してがっかりするのは勝手にやってろ。ただし試合に出てる最中は、そうやって周りに戦意喪失した顔見せんなよ!」
一層語気を強める空。これはいけないと感じた数人が慌てて止めに入ろうとしたが、隆浯は「やらせておきなさい」と言って制止する。どうやら思うところがあったようだ。
「良いのか木場くん? あのまま放っておいても」
「ええ。ここは当人たちに任せましょう。本当に危なくなったら僕が仲裁に入ります。皆も試合に集中してくれ」
「は、はい」
気になる気持ちを我慢し、他の選手たちもグラウンドの方に目を向ける。抑えるものが無くなり、空の口調は更に加熱する。
「お前は今、チームの代表としてプレーしてるんだよ。お前しかライト守る人はいないんだよ。お前しかチームのために打席に立つ人はいないんだよ。そのこと自覚してるか?」
洋子はまだ交代していない。試合に出続けている。試合に出たくても出られない人間がたくさんいるにも関わらずだ。そうである以上、結果が伴わなくとも彼女はそれ相応の態度を示さなければならない。チームが勝つためにできることを、必死に探さなければならない。それが試合に出ている者の義務である。とすれば今の洋子の諦めたような行為は、控えに回っているチームメイトへの裏切りに当たるのだ。
「お前だって苦しいのは分かる。毎日練習してるのに打てなくて、今日だってレギュラー守りたいのに失敗ばかりで、落ち込みたくなるのも理解できるよ。けどさ……」
空は左拳を震わせる。そうして一つ間を置いてから、溢れ出る熱情を洋子にぶつける。
「エラーしたって、三振したって良い。そんなの私がゼロに抑えて全部カバーしてやる。だからさ、そんなあからさまに辛そうな表情するな! 胸張って堂々とプレーしろ! 今のうちのライトのレギュラーはお前だろ!」
「空さん……」
「ほら、今は私たちの攻撃中だ。打てないんだったら声出して盛り上げろ」
「おわっと⁉」
空は洋子をベンチの最前列に立たせる。グラウンドの広大な風景が、洋子の目に飛び込んできた。
「風さん、ランナー還してください!」
得点は六対〇で亀ヶ崎がリード。現在打席に入っているのは二番の風だ。二塁ベース上には光毅がいる。試合に出ていれば決して特別な光景ではないはずなのに、洋子にはそれがとても新鮮に思えた。
「ああ……」
真っ白だった洋子の頭の中が、瞬時に冴えていく。そこで彼女はようやく気付いた。自分が結果を追い求めるあまり周りの状況を把握できず、自分が何をできるのか、何を為すべきなのかを見失っていたことを。
「ふう……」
洋子は目を瞑って大きく深呼吸する。壊れた時計の針が調整されるかのように、心と体の歯車が噛み合っていくのを感じる。
(空さんの言う通りだ。私はまだ交代させられたわけじゃない。レギュラーとして試合に出てるんだ。たとえ可能性が低くても、最後まで全力でやらなくちゃ……)
「ノーアウトだよ! バッター最悪でも進塁打ね。ランナーはキャッチャーからのピックオフに気を付けて!」
洋子は腹の底から声を出す。偶々隣にいた真裕を初め、ベンチのメンバー、加えて打席の風やランナーの光毅までも驚きを隠せない様子で一同に彼女を見る。
「何だよ皆して。私はもう大丈夫だから。風さん、打ってください! 私まで繋いでください!」
洋子は若干気恥ずかしそうに前を向く。その姿を見て、真裕は仄かに口元を緩ませる。いつぶりだろうか。勇ましくて頼りがいのある、本来の洋子が帰ってきたのだった。
See you next base……
WORDFILE.30:残塁
各イニングが終了した時、アウトにならずに残っていた走者に対する個人記録。例えばツーアウトランナー一、二塁の状況で打者が三振しチェンジになった場合、一塁走者と二塁走者にそれぞれ残塁が記録される。
一試合を通してチームの残塁が多いほどチャンスを作っているということになるが、適度に得点を取っていないとそれだけチャンスを潰したことになる。ただしタイブレークのようにイニングの初めから出ていたランナーも残塁に集計されるため、こうしたケースでは必然的に残塁は増える。




