51th BASE
お読みいただきありがとうございます。
昨日は甲子園に行ってきました。
どの試合も白熱していて、素晴らしいものでした。
やっぱり負けたら終わりという状況の中でぶつかり合う高校生たちの姿を見てると、勇気を与えられますね。
執筆の方も気を合入れて頑張ろうと思います!
《七番ライト、踽々莉さん》
紗愛蘭はネクストバッターボックスから恐々と立ち上がる。彼女が打席に向かう前に、杏玖は黒川の情報を伝える。
「紗愛蘭」
「は、はい」
「最後のスライダー、凄いキレだった。あれは多分簡単には打てないと思う。追い込まれる前に、ストレートを捉えた方が良いよ」
「わ、分かりました」
杏玖の助言を仰ぎ、紗愛蘭が左打席に入る。この試合の命運は、彼女に委ねられた。
(基本は速い球中心。スライダーの軌道は見てみないと分からないし、やっぱり杏玖さんの言う通り、ストレートを打ちにいくべきだよね。振り遅れないように気を付けなきゃ)
紗愛蘭の顔は心なしか、火照っているように見える。息遣いも若干荒く、横隔膜が小刻みに揺れている。
一球目、内角の際どいコースに投球が来る。紗愛蘭は積極的に打ちにいったが、球種はストレートではなくスライダー。ボールはスイングの軌道の下を潜る。
「ストライク」
紗愛蘭の左足の甲が地面を摺り、小さな土煙が上がる。初球からスライダーという予想外の配球に、彼女の顔は困惑の色を強める。
(今のがスライダー? えげつないほど曲がってた。こんなの狙ってても打てないよ)
紗愛蘭の呼吸の間隔が更に狭まっていく。まだそこまで動いていないのに、体中から汗が滴る。緊張と焦りから来るプレッシャーが、彼女に強い閉塞感を与えていた。
「紗愛蘭!」
隆浯が紗愛蘭を呼ぶ。彼は手で「T」のマークを作っていた。これはタイムを取れという紗愛蘭への指示だ。
「タ、タイムお願いします」
紗愛蘭は一旦打席を外す。するとベンチの方から真裕が出てきた。
「紗愛蘭ちゃん」
「ま、真裕ちゃん」
「ちょっとこっち来て」
真裕は紗愛蘭を自分の元に引き寄せ、内容を悟られないよう相手バッテリーに背を向けて何やら耳打ちをする。
「緊張してる?」
「う、うん。まあまあ……」
「そっか。じゃあ手を出して」
「え? こう?」
紗愛蘭は訳も分からないままに右手を差し出す。真裕はそれを、優しく握った。
「一回ゆっくりと深呼吸してみようか。私の手は思い切り握ってくれていいから」
「わ、分かった」
紗愛蘭は目を瞑り、大きく息を吸う。続いて感じていた全てのプレッシャーを預けるように真裕の手をしっかりと握りしめ、緩やかに息を吐き出す。
赤土の香り、手袋越しの真裕の手触り、太腿裏の脈拍……。紗愛蘭は失っていた身体中の感覚を徐々に取り戻していく。
「ふう……」
吸って吐いてをもう一度繰り返し、紗愛蘭は目を開ける。何も変わっていないはずなのに、さっきよりも視界が明るくなっている気がした。真っ赤だった頬も、薄い桃色に変わっている。
「よし」
「お、もう大丈夫かな?」
「うん」
「打てる球だけ打ってこ。紗愛蘭ちゃんならいけるよ。ファイト!」
「ありがと。ふふっ」
二人の顔に白い歯が零れる。紗愛蘭は握っていた手を放し、改めて打席に立つ。
「ありがとうございました」
球審と捕手にお礼を言い、紗愛蘭は左足で足場を固める。それから両手で握ったバットを肩に乗せ、自らのタイミングで耳の後ろに持ち上げた。
(どうせストレートしか打てないんだ。ごちゃごちゃ考える必要なんてない)
(今のやりとりで力が抜けたのか。フォームが自然体になってる。一体何したんだ? まあそんなことはどうでもいい。相手は一年。力で捻じ伏せてやる)
暫く紗愛蘭を観察していた東城だったが、攻め方を決め、すぐに黒川にサインを出す。
ワンストライクからの二球目。外角高めのストレート。ストライクゾーンからは外れており、紗愛蘭は悠然と見送る。
(今のはしっかり目で追えた。ストライクに来たら打てる)
心に余裕を持たせつつ、紗愛蘭は次の投球を待つ。三球目、黒川は二球連続で真っ直ぐを投じる。今度は内角低めのストライクのコースに入ってきた。
(これなら打てる!)
紗愛蘭の鋭いスイングがボールを捉える。快い響きを鳴らして掬い上げた白球は、右中間へと飛んだ。
「セ、センター!」
バックホームに備えて前に守っていたセンターとライトが懸命に後退する。ツーアウトということで、二人のランナーは一目散に走り出す。両軍、ベンチから身を乗り出して打球の行方を見守る。
「抜けろー!」
「捕れー!」
ボールが落ちてくる。センターの綾瀬は走る勢いを利用し、グラブを伸ばしてダイビング。そのままもんどりを打って倒れた。二塁塁審が迅速に駆け寄り、ボールの行方を確かめる。
「ア、アウト。アウト!」
ボールはグラブにしっかりと収まっていた。綾瀬のファインプレーでスリーアウトとなり、試合終了。判定を聞いた紗愛蘭は、二塁ベースの手前で天を仰ぐ。もう一伸びが足りなかった。
「ありがとうございました!」
一対〇で楽師館高校の勝利。当たり損ないでもヒットにした万里香と、良い当たりを放ちながらもアウトになった紗愛蘭。この二人の一年生の打席が、奇しくも直接勝敗を分けた形となった。
「ごめん真裕ちゃん、打てなかった。勝ち投手にしてあげられたかもしれないのに」
「何言ってんの。ナイスバッティングだったよ。あれ抜けなかったらしょうがないって」
「そうだよ。この試合で一番良いバッティングだったんじゃない?」
ベンチに帰って謝る紗愛蘭に対し、真裕たちは賛辞を贈る。最後の紗愛蘭のバッティングは素晴らしいものであり、それは誰が見ても明らかだった。
「次の試合も、期待してるよ」
「ありがとう。が、頑張る」
紗愛蘭の表情にも曇りは無く、清々しさで満ち溢れている。結果は伴わなかった。それでも彼女は、野球をやれることの喜び、チームメイトの温もりを実感できた。試合を通して紗愛蘭はチームに溶け込めたのだ。それだけで、紗愛蘭にとってもチームにとっても、実に価値ある試合だったと言えるだろう。
See you next base……




