32th BASE
他の作品にも見られることですが、制服姿でのキャッチボールには青春を感じます。
二人きりの空間でやるのがまた味が出るんですよね。
一度で良いから異性の子とやってみたかったなあ……。
今日はお日様があまり姿を見せず、空は薄い灰色で覆われている。そんな模様が、閑散とした校舎裏の雰囲気を更に引き立てる。私は近くに誰もいないことを確認し、立ち止まって左肩に掛けていた鞄を下ろす。
「ここら辺で良いかな」
「どうしてこんなところまで? 態々外に出てこなくても良かった気がするけど」
「ああ、それはね……」
私は鞄に手を入れる。その中から、グラブ二つとボールを一球取り出した。
「はい。これでキャッチボールでもしよ」
私はグラブを一つ、紗愛蘭ちゃんに差し出す。
「え?」
「紗愛蘭ちゃんって中学、ソフト部だったらしいね。それ聞いてさ、紗愛蘭ちゃんのボール受けてみたくなったの」
「あ、ああ……」
紗愛蘭ちゃんは小さな吐息を漏らし、戸惑いの様相を浮かべる。しかし彼女は、躊躇いがちにグラブへ手を伸ばしてくる。
「ふふふ。よし、じゃあ行くよ」
私は適当に距離を取ると、紗愛蘭ちゃんに向けて緩いボールを投じる。微妙に逸れてしまったが、紗愛蘭ちゃんは素早く移動してボールを胸の前でキャッチする。
「お、良い動き。どこ守ってたの?」
「ライトだよ」
「へえ。肩が良かったとか?」
「全然そんなことないよ。私は皆より部活を始めるのが遅くて、最初に就いたポジションがそのまま続いただけ」
紗愛蘭ちゃんが投げ返す。投げる際に耳の横で手首が回旋しており、基本に忠実な投げ方をしている。ボールも私の胸元に来た。
「ナイスボール。やっぱり始めた頃って、大抵ほとんどの人がライト守らされるよね。部活入ったのはいつ?」
「中学一年生の秋くらいだよ」
「そうなんだ。それだと最初は練習付いていくの大変だったんじゃない?」
「それはあったかな。でもすっごく楽しかったから辛くはなかった。皆に追いつきたくて、全体練習が終わった後も毎日居残り練習してたし」
心なしか、紗愛蘭ちゃんの声も弾んできた。それに乗じて私は質問を重ねる。
「あはは。めっちゃ嵌ってるじゃん。それだけやったらあっという間に追いつけたんじゃない?」
「えー、どうかな? 一応最後はレギュラーを取れたけど」
紗愛蘭ちゃんは恥ずかしそうに言う。
「おお! 何番打ってたの?」
「さ、三番……」
「すごい、クリーンナップだ! 見事な大出世だよ!」
「そんなことないよ。運が良かっただけ」
謙遜する紗愛蘭ちゃんだが、レギュラーになれたのは運だけではないと思う。さっきからずっと良いボールを投げているし、捕り方も丁寧だ。初めからどの程度できていたかは分からないが、かなりのスピードで上達したのだと考えられる。
「そういえば中学はどこだったの?」
「甲川だよ。真裕ちゃんは?」
「私は緑山中」
「割と遠いところだね。電車通学?」
「そうだよ。紗愛蘭ちゃんは自転車で来てるの?」
「うん。ここから二〇分くらいかな」
「良いなあ。私なんてその二倍は掛かるよ」
私はやるせなく手を広げる。
「やっぱそっちに住んでるとそれくらい掛かるんだね。ここ落ちたら緑山の方の高校だったから、ほんとに良かったよ」
「紗愛蘭ちゃんはどうしてここ選んだの? 近さ?」
「それもあるけど、一番は仲の良い友達がここに行くって言ったからかな」
「友達って、さっき一緒にご飯食べてた子たちのこと?」
「そう。四人とも同じ甲中なんだ」
誰もいない校舎裏に響く、白球を掴むグラブの乾いた音。私と紗愛蘭ちゃんの心の距離を縮めるバロメーターになるかのように、その回数は増えていく。
始めてから一五分程経過した。グラウンドの方からは、五限目の体育の準備をする声が聞こえてきている。
「そろそろ上がろっか。次の授業に間に合わなくなったらいけないし」
「そうだね」
私たちはキャッチボールを切り上げる。
「楽しかったあ。ほんとに紗愛蘭ちゃん、良い球投げてくるね」
「えへへ、ありがと。私も楽しかったよ」
グラブを返す紗愛蘭ちゃん。少しでも心を開いてくれたのか、彼女はあどけなく笑う。
「あ、あのさ真裕ちゃん」
「ん?」
「……また、やってもらっても良いかな?」
紗愛蘭ちゃんはグラブを握ったまま、頬を紅潮させる。私は彼女の手を包み込むようにして握る。
「もちろんだよ。寧ろこっちがお願いしたいくらい」
「ほんとに? やった。ありがとう」
紗愛蘭ちゃんの顔の赤色が増す。この瞬間、私は確信した。やはり紗愛蘭ちゃんは、心の中では野球をやりたがっている。ならばどうして、野球部に入らないと言うのだろう。
長閑な昼休みの校舎裏。紗愛蘭ちゃんとの距離は縮まったはずなのに、逆に遠のいてしまったのではないかと感じる私がいた。
――空に茜色が際立ってきた放課後。グラウンドではたくさんの女子が各々の練習着に身を包み、野球部の活動を行っている。昇降口の花壇の傍に立つ私は、その光景を孤独に見つめていた。
「さあこーい」
「センター行ったよ!」
白球が宙に舞い上がる。と思ったらすぐに力なく急降下し、センターのグラブに収まる。
「あのセンターの人、上手だなあ」
手にはまだ、昼間に真裕ちゃんと行ったキャッチボールの感触が残っている。野球のボールはソフトボールよりも一回り小さくて、ちょっと投げにくかった。だけど多分、最低限のことはできたはずだ。
真裕ちゃんの投げるボールは、とても球筋が綺麗だった。手元に来るまで勢いは衰えず、グラブに突き刺さるように収まる。私が今まで見てきた中で、一番良い球かもしれない。
もっと続けていたかった。今からでも続きがやりたい。そんな自分の心の声が聞こえてくる。真裕ちゃんはまた、キャッチボールをしてくれると言ってくれた。だからきっとまた機会はある。それを思い起こすと、私の口元の緊張が独りでに緩んでしまう。
「紗愛蘭、おまたせ」
昇降口から私の友達が顔を出す。あっちゃんだ。月曜日に出さなければならない週課題の提出が遅れたため、居残り指導を受けていたらしい。
「もうほんとにありえないんだけど。なんで今日の朝にちゃんと提出したのに、居残りさせられないといけないの? そもそも入学して一週間で課題なんか出すなっての。遊ぶ時間ないじゃん」
「あはは……。それもそうだね」
千恵と小春は用事があるということで先に帰った。私は花壇に置いていた鞄を拾い上げ、あっちゃんと並んで歩き出す。すると前方に、真裕ちゃんの姿を見つける。
「あ、紗愛蘭ちゃんだ。ばいばーい」
真裕ちゃんも私に気が付く。膝に付いていた手を、私に向かって振ってくれた。彼女の額には汗が迸り、肩で息をしているように見える。ランニングでも終えたばかりなのだろうか。苦しい中でも笑顔で声を掛けてくれたことに嬉しくなると同時に、申し訳なかったという気持ちにもなる。私はせめてものお返しになればと、笑顔で手を振り返す。
「頑張ってね、真裕ちゃん」
「うん。ありがと」
「一年生、集合!」
「はい!」
真裕ちゃんがグラウンドへと戻っていく。私たちは駐輪場に入り、停めてあった自転車の鍵を外す。そこで、あっちゃんが何気無く話を切り出す。
「あの子、野球部だったんだね」
「うん。真裕ちゃんって名前なんだ」
「へえ。でもびっくりだよ。紗愛蘭がこんなに早く友達を作るなんて」
「それは自分でも驚いている。中学の時だったら考えられないよ」
「ふふっ、良かったね」
あっちゃんは柔和に笑みを浮かべる。けれども何故だろうか、そこはかとなく不機嫌でいるような気がする。
「ねえ紗愛蘭」
「何?」
「……遠くに、行っちゃわないでよね」
「へ?」
穏やかに目を細めたまま、あっちゃんが唐突に溢した一言。真意はよく理解できなかったが、その言葉はひっそりと体の中に忍び込み、私の中にへばりつく。
「どういうこと? 私は遠くに行ったりなんかしないよ。しかもそれなら、高校も変えることになっちゃうでしょ」
あっちゃんはそんなことを言っているのではない。それくらいは分かっていた。だけど私は、恍けた振りをして誤魔化す。
「……そうだよね。ごめん、今言ったことは忘れて」
あっちゃんは私の返答に対して再び微笑むと、自転車を曳いて歩きだす。私は安堵したような、不安が増えたような、釈然としない心持ちになる。
風で揺れる制服の襟元。私はそれを整え、すぐにあっちゃんの後を追った。
See you next base……
PLAYERFILE.19:柳瀬ハル
続柄:真裕の母
職業:音楽スタジオの経営
誕生日:4/8
投/打:右/右
身長/体重:146/43
好きな食べ物:メロンパン




