29th BASE
6月に入りました。
気温も大分上がってきて、汗ばむ陽気が続いています。
そろそろ箪笥の衣替えもしないとですね。
「はー、疲れたあ」
走塁練習が終わり、私と京子ちゃん、祥ちゃんはグラウンドを後にする。太腿の裏に柔らかな痺れがあって足が重たい。歩くのすら億劫だ。
「たかがベーランでもあれだけの量走ったら、流石に足にくるよね」
「ほんとだよ。しかも頭も使ったし。ウチはもう駄目……」
京子ちゃんはぐったりと腕を垂れ下げ、目を弛ませる。それを見た祥ちゃんが思わず吹き出す。
「ふふっ。京子、何その顔」
「いやいや、祥も似たようなもんだよ」
三人それぞれが疲労の色を浮かべながら、足を引きずる。そんな中、私はふと誰かの視線を感じた。
「ん?」
振り向いてみると、少し離れた場所にいた一人の女の子と目が合う。
「はっ!」
女の子は体をびくつかせ、挙動不審に辺りを見回す。そうしてすぐ、校舎内へと入っていってしまった。
「あれ? あの子って、練習の時から私たちのこと眺めてたよね?」
祥ちゃんが訝し気に言う。
「え? ほんとに?」
「うん。走塁練習やってる最中に気づいたんだけど、ずっとあそこら辺に立ってたよ」
「そうなんだ。一年生かな」
「かもね。背も結構低かったし」
「膨らみはあったけどね」
毒を吐くかのような物言いで、京子ちゃんが割って入ってくる。
「膨らみ? 何のこと?」
「何でもない!」
膨れっ面をする京子ちゃん。それはさておき、一体あの子は何だったのだろう。
「もしかして入部希望とか?」
私は若干の希望を込めて呟く。もちろん何の確証も無く、京子ちゃんたちも釈然としない様子だ。
「どうかねえ。ま、今日のところは早く帰ろ。もうウチヘトヘトだよ」
「賛成。お腹も空いたしね」
疲れていたこともあり、私たちは特に深く考えることはせず、再び重たい足を動かす。音楽室の方からは、吹奏楽部の奏でる雄大で幻想的なクラシックが流れていた。
翌日。私たち三人は移動教室のため、理科準備室に向かっていた。
「あ。あれ」
何かに気づいたのか、祥ちゃんが他クラスの教室の前で急に足を止める。
「ねえ、あの子見てよ」
祥ちゃんは教室の奥を指さす。その先では、昨日の女の子が席に座って本を読んでいる。
「昨日の子、だよね?」
「多分。このクラスだったんだね」
彼女がいたのは一年六組。唯一、女子野球部の一年生が誰も所属していないクラスだ。
「ちょっとあんたら、私らのクラスになんか用なの?」
立ち止まっていた私たちに、後ろから一人の女の子が話しかけてくる。少々高圧的な口調に一瞬凄んでしまったが、私はあの子のことを聞いてみる。
「えっと……。あ、あの窓際に座ってる子の名前、分かる?」
「紗愛蘭のこと? あの子に用があるの?」
「う、うん。まあそんなとこ」
「ふーん。紗愛蘭、この人たちが用あるらしいよ」
女の子は紗愛蘭ちゃんのことを呼んでくれた。それに反応し、彼女がこちらを向く。
「あっ!」
と思ったら紗愛蘭ちゃんは咄嗟に本で顔を隠し、声が聞こえていない振りをする。
「え? 無視?」
「おいおいどういうこと? 紗愛蘭、怯えてるみたいだけど」
襟足を左手でいじりながら、女の子が私たちを睨んでくる。私は口籠りつつも、弁解を試みる。
「そ、そう言われても、私たちも困惑しているというか……」
「まさかあんたら、あの子に何かしたんじゃないでしょうね?」
「そんなはずはないよ。どっちかというと、こ、こっちがされた方なんだけどな……」
「は?」
鋭さを増す女の子の目。晴香さんとはまた違った恐さを感じさせる。狼狽える私に代わって、祥ちゃんが適当に話を誤魔化す。
「と、とりあえずもう次の授業が始まるし、私たちは行くね。あの子にもよろしく言っといて。じゃあ」
私たちは慌てて駆け出す。
「あ、まだ話終わってないんだけど」
女の子は若干声を荒げる。追ってくることこそしなかったが、思わぬ勘違いを招いてしまったみたいだ。
放課後になった。二人と共に部室で着替えていた私は、紗愛蘭ちゃんの話題に触れる。
「結局、有耶無耶なままだなあ」
「あの子のこと? 紗愛蘭ちゃんだっけ?」
祥ちゃんがブラウスを二度三度叩いてから、畳んで棚に置く。彼女の胸の周りを包み込むワインレッドの下着が目に映る。祥ちゃんの付ける下着は、柄はスマートだが艶やかな色合いをしているものが多い。
「そうそう。クラスメイトの子にも誤解されたままだし」
「でもあれは向こうが勝手にしてきたんじゃん。ウチああいうタイプ苦手だわ」
「紗愛蘭ちゃん?」
「いや、クラスメイトの子の方」
京子ちゃんは靴下を履き替えている。上手に片足でバランスを取っているように見えたが、左肩が微妙に壁にもたれかかっている。
祥ちゃんとは違い、京子ちゃんはフリルなどの装飾がついた下着をよく付けている。京子ちゃん曰く「無いなら無いなりに勝負しなきゃいけないの!」とのことだ。
「そんなに気になるならさ、明日も訪ねてみる? クラスメイトの子も話せば分かってくれるでしょ」
「あー。そうだね」
祥ちゃんの提案に私は頷く。ところが、その必要は無かった。
全員が練習着姿になり、部室を出てグラウンドへ向かう。その途中、私は道の脇で立ち止まっていた紗愛蘭ちゃんを見つけた。
「あっ」
向こうも私たちに気付いたみたいだ。今度は逃げることはせず、紗愛蘭ちゃんは小刻みな足取りでこちらへ寄ってくる。
「あの、昼間はごめんなさい」
私たちの前に立つや否や、紗愛蘭ちゃんは頭を下げる。いきなりのことに戸惑い、私たち三人は顔を見合わせる。
「私びっくりして、返事もしないで顔隠しちゃって。困らせちゃったよね」
申し訳なさそうな面持ちの紗愛蘭ちゃん。元々低めの身長を更に小さくしているように見える。どうやら、昼間の出来事について謝ってくれているみたいだ。
「ああ。あのことなら大丈夫。気にしないで。私たちも唐突に押しかけたからお互い様だよ。それよりお友達の方を勘違いさせちゃったみたいで、そっちが心配かな」
「あ、あっちゃんにはちゃんと話しておいたよ。早とちりしやすい子で、ごめんね」
あの女の子の名前は“あっちゃん”というらしい。ひとまず誤解が解けて良かった。
「そっか。安心したよ。ありがと。ところで紗愛蘭ちゃん、昨日の練習見学してたよね。野球に興味あるの?」
「ああ……。うん、まあね」
紗愛蘭ちゃんの頬に桃色が浮かび、口元も解れる。肩に届くか届かないかくらいに伸びた髪の先は、ふんわりと仕上がっていて、タンポポの綿毛を彷彿とさせる。
「へえ。だったらさ、入部とか……」
「それは無いから!」
「え?」
はっきりとした否定だった。私が言い終わるのを待たずして、まるで反射的に答えたかのような口ぶり。それは私たちに言っているというより、自らの胸の内を抑えこもうとしているようにも思えた。
「わ、私はこれで。あっちゃんたちも待たせてるから」
紗愛蘭ちゃんはそそくさと校門の方に走っていく。その背中は切なさを伴い、闇雲に嘆く声が、今にも聞こえてきそうな気がした。
See you next base……
WORDFILE.12:部室
亀ヶ崎女子野球部の部室は、グラウンドから少々離れたところにある。グラウンドには他の部の部室が密集する建物が隣接しているが、女子野球部が創部する時には空き部屋がなかった。そのため体育館裏の古い物置を改修し、部室として使用している。一応普通の部室よりも広い。
部室には野球用具の他、何故かポットや粉末コーヒーも常備してあり、テスト週間の放課後や練習後に秘密のティータイムが開催されることもしばしば。ただし決してどこかの軽音部みたく、数十万円のティーセットを使ったり、高級なお菓子やお茶が用意されたりするわけではないのでご安心ください。




