162th BASE
お読みいただきありがとうございます。
大船渡高校がエースの佐々木投手を登板させずに敗退したことが議論になっていますね。
色々な考え方があるのであまり深く触れる気はありませんが、個人的にはこれで良かったのではないかと思います。
故障を考慮しての登板回避。これはどんな試合であろうとも、何も不思議なことではありません。至って普通のことです。故障したら全てが終わりですからね。
勝つことも大切ですが、それが選手の健康よりも優先されることはないと思います。
楽師館の部室から少し離れたところで、真裕が祥に言葉を掛けた。
「良かったね。大したことなくて」
「……うん」
祥は小さく頷く。ただその表情はあまり浮かばれておらず、悲哀を漂わせている。
「ごめんね真裕。あんなに練習に付き合ってもらったのに、こんな結果になっちゃって」
「そんなの気にしなくて良いよ。練習でできてたからってすぐに試合にできるわけじゃない。これを活かして次でできるようにしてけば良いんだからさ」
「けど……」
黙り込む祥。その唇は肉眼で見ても分からないほどに微細だが、小刻みに揺れている。暫くすると彼女の目から、数滴の雫が流れ出した。
「くそう……、どうしてこうなっちゃうんだろう……」
鼻を啜りながら、祥は己の無力さを嘆く。渡部の打席、ツーストライクまで奪い、あのまま抑えきれる自信があった。実際に渡部の方も追い詰められていた。そう、最後の一球さえ無ければ……。
加えて死球を出した後、市岐阜戦のようにまたもやまともに投げられなくなってしまった。そうなったことがただただ情けない。今日は真裕が好投していただけに、祥としては自分だけ取り残されたようで尚更悔しかった。
「祥ちゃん……」
真裕は祥の背中を摩る。けれどもそれしかできない。勇気付ける言葉を探してみるが、これだというものは浮かんでこない。今の鬱屈そうな祥を見ると、どれも安っぽい慰めに思えてしまう。
「ん? お前たち……」
そこへ偶然、二人の前を隆浯が通りすがる。泣いている祥の姿を目にし、やや困惑した顔つきをする。
「さ、祥……」
「あ、監督。いけね……」
祥は慌てて涙を拭う。だが流石に隆浯は放っておくわけにいかない。
「……済まなかったな。苦しい思いをさせてしまって」
「そ、そんな。監督が謝ることじゃないですよ。私がしっかりできないのが悪いんです」
「でも登板させたのは俺だ。市岐阜戦の時にお前があんな風になるまで投げさせたのも俺だ。俺がもっとちゃんとした判断を下せてれば、もっと良い結果になったかもしれない。だから責任は俺にある」
隆浯は祥の気持ちを慮りつつ、自らの非を謝する。それに続けて彼は、あることを祥に問いかける。
「祥、マウンドに上がるのが辛いか?」
「へ? ……はい」
少しだけ間を空け、祥は小さく首を縦に振る。ここで強がっても仕方が無い。
「打者と対峙すると胸が凄く締め付けられて、息苦しくなるんです。特に左打者が打席に立つとその傾向は強まります。挙句の果てには指先が痺れる感じが出てきて、ボ―ルの握り方すら分からなくなってくるんです」
祥は自分の身に起こっていることをありのまま吐露する。その内容を聞き、元投手である隆浯は彼女がどれほど酷い状態に陥っているのかをすぐに理解できた。
「そうか……。もしもお前が嫌なら、投手を辞めても良い」
「え? そ、それって、どういうことですか!?」
祥にとっては寝耳に水の話だった。彼女は目を見開いて隆浯に問い返す。ただ隆浯は決して意地悪で言っているのではない。祥のことを思ってこその提案である。
「チームのためとはいえ、俺はお前に半ば強引に投手をやらせた。このままお前が嫌々投手を続けるのなら、きっと良い未来は待っていない。お前が苦しみ続けるだけだ。そうなる前に、他のポジションに移ってそこで頑張れば良い。それも十分立派なことだ」
彼らが行っていることは、あくまでも高校の部活動に過ぎない。職業として金を稼いでいるわけではない。だから苦しいのなら、辛いのなら無理して続けなくても良い。隆浯はそう思っている。“逃げる”という選択肢を示すのも、指導者の一つの役目なのだ。
「別に今すぐに決めろとは言わん。これからゆっくり考えて答えを出してくれれば……」
「……嫌です」
「え?」
隆浯は回答を急かすことはしない。ところが祥は、真っ先に拒否の意思を示した。これには隆浯だけでなく、真裕も驚きを隠せない。
「祥ちゃん……」
「祥……。けどお前……」
「私、投手を続けたいです! このまま終わるなんて嫌です!」
祥は切実に訴える。彼女は投手を務めることに対して、ある志を抱いていた。
「……今の野球部の中で、一番下手なのは私です。打つのも守るのもまだまだで、長所は左投げであることくらいです。真裕や京子たちと一緒にいると、そのことをまざまざと実感させられます。それが凄く悔しいんです」
拳を握って手を震わせ、祥が自らの想いを述べる。隆浯と真裕は何も言わず、口を真一文字に結んで傾聴する。
「投手をやれって言われた時、私は心の底から嬉しかったんです。自分が必要とされてるんだって感じられましたから。このチームは投手力が弱い。それは夏大でも露呈しました。大会で優勝するためには、真裕一人じゃ勝てない。少なくとももう一人良い投手が必要です。投手をやるということは、私がその一人になれる可能性があるということ。そう思うとめちゃくちゃわくわくできるんです。私が野球を始めた意味はきっとそこにあるんじゃないかって、自分に期待しちゃうんです!」
祥は高校から野球を始めた。そのため他の選手と比べてマイナスからのスタートとなっている。まだ半年ということもあり、その差はほとんど埋まっていない。寧ろ夏大に出ていた真裕や紗愛蘭とは開いている一方である。
けれども祥には、唯一のサウスポーという武器がある。それを活かして投手ができるようになれば、自ずと試合にも出られるようになり、活躍するチャンスも増える。それは即ち、真裕たちと肩を並べて野球ができるということだ。祥にとってそれは野球をやる上で最上級の幸福であり、叶えたい目標の一つだった。
「こんな私でも、全国制覇をするためのピースになることができる。もちろん他のポジションじゃできないとは思っていません。だけどやっぱり投手がやりたいんです! どんなに苦しくても絶対に乗り越えて、真裕やチームを支える存在になりたいんです!」
これが、祥の投手への想いだ。並々ならぬ執着心である……なんてありきたりな言葉で括るのはあまりにも失礼なのではないかと感じさせるほど、彼女は揺るぎない信念を持って臨んでいる。これを否定できる者など、誰一人としているはずがない。
「……そうか。分かった。それならもちろん、こちらとしては投手を続けてもらいたい」
隆浯は柔和に目を細める。その瞳はほんのりと赤くなっているようにも見えた。しかしすぐに表情を引き締め直し、祥に過酷な現実を伝える。
「だが祥、さっきお前が言っていたような苦しみは、きっと一生消えることはない。それだけは覚悟しておけ」
「……消えることはない?」
祥は左の人差指と中指の先を見つめる。当然今は何ともないが、マウンド上で震える感覚は彼女の脳に染みつき、いつでも思い出せるようになってしまっている。
「そうだ。これからお前がマウンドに上がる度に、左打者と対戦する度にボ―ルの握り方が分からなくなるかもしれない」
「じゃあ私は、どうすれば良いんですか?」
「受け入れるんだ。治そうとするんじゃない。無くそうとするのでもない。恐怖を受け入れて、それと付き合いながら投げられるようになれ。それが今の状態を克服するために一番必要なことだ」
「恐怖を受け入れる……。なるほど、そういうことか」
祥の顔に微かな晴れ間が差す。これまで彼女は、怖がる気持ちを抱かないようにと、震える体を静めようと努めてきた。こうしたことが“悪いこと”だと認識し、消そう消そうと思うが故、結果的に自分を苦しめていた。
隆浯が言っているのはその逆。恐怖も体の震えも投球の一部として受け入れ、それを力にしていけということだ。
「これは口で言うのは簡単だが、やってみようとしても中々できるもんじゃない。また今日みたいな事態が起こるかもしれない。けどできると思って信じてやっていけば、必ず報われる時が来る。やる以上は俺も全力でサポートするし、真裕もできる限り手伝ってもらえないか?」
「はい、もちろんです!」
真裕は二つ返事で了承する。彼女も祥の熱意に胸を打たれ、より一層を助けたいと思うようになっていた。
「それは良かった。ありがとう。では祥、これからも投手として頑張ってくれ。期待しているぞ」
「はい!」
祥は声を張り上げる。不安は消えない。だがそれよりも、今はやってやるという気概で一杯だった。
これから間違いなく、険しい未来が待ち受けている。それでも祥は投手を続ける道を選んだ。いつの日かグラウンドで輝きたい。その願望を現実にするために、彼女はどれだけ苦しくても、困難に立ち向かうのだ。
祥の想いが成就する時は来るのか。その答えは、もっともっと先の未来にあるのだろう。
See you next base……
WORDFILE.62:投球障害(イップス)
イップスとは精神的な原因などにより、突然自分の思い通りのプレーや意識が出来なくなる症状のこと。本来はゴルフ用語である、現在ではスポーツ全般で使われるようになっている。野球では主にボールを投げる動作に支障を来す症状を差し、投げる際に手が異常に震えだしたり、リリースの瞬間に腕が急に硬直したりするなど様々なパターンがある。投手に限ったことではなく野球をやっている者全てがイップスに陥る可能性があり、死球や暴投などのトラウマから引き起こされることが多いとされている。
イップスに明確な治療法は無い。カウンセリングの療法を用いることもあるが、それが却って逆効果になることもある。本人に合った治療法を探っていくしかなく、イップスを克服できないまま負担の少ないポジションにコンバートしたり、引退を余儀なくされたりする選手も数多くいる。もし克服できたとしても数年・数十年を要しているケースも珍しくない。
イップスになる原因として“心の弱さ”が指摘されることも少なくないが、決してその点との繋がりは強くない。寧ろ“他人に思いやりのある優しい性格”の人が陥ることが多いとされており、精神的な脆弱性と関連付けるのはナンセンスであると言える。




